bP 花筺公園 〔今立町粟田部〕 |
高速武生インターで降り右折、東へ五キロ十分くらいで、今立町粟田部集落の北、三里山の中腹の花筐公園に着きます。 |
bQ 花筺公園の野外舞台 |
また花筐公園には多目的ホールの能舞台があります。以前に演能があったみたいです。 |
bR 味真野神社 〔武生市池泉町〕 |
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bS 蝉丸の墓 〔宮崎村寺・陶の谷〕 |
盲目ののため山に捨てられた皇子蝉丸。狂気の放浪を続ける姉宮逆髪。姉弟の出会いと別れを描いた謡曲「蝉丸」の舞台になっているのは、大津近くの逢坂の関辺りで、関蝉丸神社があり、ここが蝉丸わび住まいの跡と言われています。 |
bT 祇王祇女屋敷跡 〔福井市三郎丸〕 |
謡曲「祇王」のツレ祇王は、仏御前に追われ嵯峨野の妓王寺で余生を過ごし、生国は琵琶湖湖畔の、野洲の祇王村と言うことになっています。 ところが福井市の西藤島三郎町に祇王祇女の屋敷跡があります。高速福井北インターを出て、市内に向い一直線四キロ、芦原街道の交差点大宮交番を越え、三国線の電車線路をこえ、次の大きな交差点を左に折れ、一つ目の信号を右に入ると、しばらくの左側にあります。西藤島公民館の隣りです。 ここが祇王の出生地で都から戻り、ここに妹の祇女、母とじ、とともに暮らし、後には仏御前も同居したといいます。ここの立札に拠れば、仏御前の生まれは、越前の国大野郡仏原という説があるそうです。仏原は今は仏原ダムの水底だそうです。仏御前の滝だけがあるそうです。 |
bU 実盛池 〔丸岡町長畝〕 |
謡曲[実盛」にあるとおり、実盛生国は越前の者、錦の直垂を着て故郷に錦を飾ります。 |
bV 実盛の館跡 〔丸岡町上長畝〕 |
高速金津インターを出て、国道八号線を福井方面に向けて五キロくらい、八号線は右に曲がりますが、直進して旧国道に入るとすぐ長畝の村に入ります。長畝の村から大内峠に抜ける道に入り、少し行って左に折れた上長畝の村の中に、実盛の館跡があり「実盛堂」があります。謡曲「実盛」の実盛はここに住んでいました。彼岸花の咲いている境内はひっそりとしていました。堂内に仏師新井九郎兵衛作の、実盛の武人像があるとの事ですが未だ拝見していません。村人にお話をお聞きしましたら、毎年6月21日がお祭りで、神主様が来て戸が開けられるので、その時拝見出きるそうです。実盛池より直線で1キロ位です。堂の前に水仙が飾ってありました。時々立ち寄って見ますが、いつもお花が供えてあります。 |
bW 紫式部公園〔武生市東千福町〕 |
謡曲「源氏供養」のシテは紫式部です。舞台となっている場所は琵琶湖近くの大津の石山寺です。 |
bX 熊坂長範物見松跡 〔金津町熊坂〕 |
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10 仏御前の滝 〔大野市仏原〕 |
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11 鵜甘神社の田楽能舞 〔池田町水海〕 |
池田町の水海の村中に、鵜甘神社があります。延喜式内の古社で、紀元1123年の創立との事であります。この神社に国の重要民俗無形文化財の、田楽能舞が伝わっています。その由来書によれば、「建長2年鎌倉幕府、前の執権北条時頼公、諸国廻りの折り急ぎ帰館の途時、当地にて降雪に会い越冬のやむなきにいたりぬ。何故に最明寺入道時頼公が、当地に来られた理由は、水海を通り大野郡西谷村熊河より温見を経て、岐阜県大河原村に至る表日本に通じる、最短平易の重要な道程であった。公は、当地の雪消えまで鵜甘神社に滞在中、日毎に社前に参篭し天下泰平、国家安穏、五穀豊穣を祈願せりと言う。たまたま滞在中の2月15日、春大祭の古事を御感有って、村人舞人などに能舞を教え、以後併せて奉納する様に確約して、公は雪消えを待って急ぎ帰領された。帰領後、水海で世話になった人々を鎌倉に招いて賞賛されたと言う。」 |
12 能楽の里歴史館 〔池田町稲荷〕 |
池田町の稲荷集落の真中に、これも延喜式神名帳に名を残す古社「須波阿須疑神社」があります。その隣りの広場に「能楽の里歴史館」と、写真の能楽堂みたいな「野外舞台」があります。資料館にはビデオ資料や田楽能舞の面や衣装や写真があります。 |
13 燈明寺畷新田塚 〔福井市新田塚〕 |
南北朝時代の延元3年〔1338〕7月2日、南朝方の忠臣新田義貞の戦死の場所と伝えられています。敦賀の金ヶ崎城の戦いでは、途中城を脱出して金ヶ崎救援の対策中に落城、恒良親王は捕えられ、嫡男の義顕と尊良親王は自害しました。その1年後藤島城攻撃に向う途中、この地で敵と遭遇、矢傷を負って深田に倒れ自害して果てました。 |
14 熊坂の大仏 〔金津町熊坂〕 |
金津インターを出て、すぐの国道8号線沿いに熊坂村があります。この村の中の、細長い通りにあるお堂に「熊坂長範物見の松」で作った「熊坂大仏」があります。 立てられている案内板によれば「この大仏は、熊坂長範物見の松と伝えられる松で造った、坐像で高さ2メートル、両膝の張りも2メートルで、松の中心の一本造りである。この松の原木は、熊坂の城の腰にあったが、江戸時代嘉永5年〔1852〕に枯れたので、村人は生えた姿のまま大仏様にして残そうと云う事になりました。そこで前谷の松龍寺住職で仏師でもあった、達誉智山上人にお願いして、安政3年〔1856〕に完成しました。明治10年に熊坂新道が出来て、大仏殿を現在地に移しました。 ところが、昭和7年2月10日隣家の火災で焼け、大仏は松の芯の油出て、その油が燃えて真っ黒になり、〔熊坂の黒仏〕と言われるようになりました。昭和25年福井の彫刻家、雨田光平氏に頼んで補修され、昭和31年に元のお姿になりました」。小さな窓から覗いてみると、金色の大仏が鎮座していました。毎年2月上旬に村人総出で、大仏講が開かれているそうです。 謡曲「熊坂」のシテの大泥棒と大仏の組み合わせは、なんとなく楽しいですね。 |
15 花筐の銅像〔武生市余川町〕 |
今年(2001)の五月連休の新聞に、謡曲「花筐」の銅像除幕と出ていたので、早速写真を撮ってきました。 |
16 越前の里・味真野苑〔武生市余川町〕 |
越前の里・味真野苑は緑多き公園です。季節には花しょうぶや、水芭蕉が咲きます。 |
17 足羽山公園の継体天皇像 |
謡曲「花筐」の子方、継体天皇は、地方から出た珍しい天皇です。「日本書紀」によれば、第26代の天皇で、応神天皇5世の孫、彦主人王の子として味真野に生まれます。男大迹皇子と称して越前一帯を統治し、特に治水事業・笏谷石の採掘に尽力しました。25代武烈天皇亡き後に皇位を継ぐものがなかったため、58歳の時上京して即位しました。 |
18 藤島神社 〔福井市西木田〕 |
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19 女形谷天皇堂 〔丸岡町女形谷〕 |
高速道路の、丸岡ICと金津ICの間に、女形谷というパーキングエリアがあります。どう読むのか悩みますが「おながたに」と読みます。 |
20 千古の家 〔丸岡町上竹田〕 |
石川県の山中温泉から、大内峠を越える国道364号線を走ると、福井県の丸岡町の山手に出ます。ここの上竹田の村に写真の「千古の家」があります。この家は中世末期に建てられた、全国的にも貴重な民家で、国指定重要文化財に指定されている「坪川家」です。実にどっしりとした萱葺きの家で、こんな家に住んでみたいと感じます。 |
21 汐越の松 〔芦原町浜坂〕 |
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22 板取の宿 〔今庄町板取〕 |
謡曲「安宅」の道行きに地名が色々出てきます。「波路遥かに行く船の、海津の浦に着きにけり。東雲はやく明け行けば、浅茅色づく有乳山。気比の海、宮居久しき神垣や。松の、木乃目山。猶行く先に見えたるは、杣山人の板取。河瀬の水の麻生津や。末は三国の湊なる。蘆の篠原波寄せて、靡く嵐のはげしきは、花の安宅に着きにけり」。 |
23 三国・瀧谷寺〔三国町滝谷〕 |
謡曲「安宅」の道行きに、[末は三国の湊なる。蘆のの篠原波寄せて]と出てきます。三国町は古くから九頭竜川の河口に臨む港町です。名勝天然記念物の東尋坊や芦原温泉もすぐ近くです。義経弁慶の一行もここを通って加賀に入りました。 能楽とは特に関係ありませんが、三国駅より徒歩15分の所に「瀧谷寺」があります。タキダンジと読みます。真言宗の名刹です。古色蒼然とした堂宇が並んでおり、庭園は国指定名勝に指定されています。写真は山門。 |
24 弁慶の洗濯岩〔福井市小丹生町〕 |
越前岬をドライブしていて「弁慶の洗濯岩」を通りました。謡曲「安宅」の弁慶さんは忙しいですね。立札に寄れば、義経弁慶一行は、ここで一休みして、山から落ちる水で、旅衣を洗い、安宅に向けて出発したとの事です。 それにしても、洗濯板の代わりには、大き過ぎますね。 |