福井県越前地方の謡曲古跡

bP 花筺公園 〔今立町粟田部

 高速武生インターで降り右折、東へ五キロ十分くらいで、今立町粟田部集落の北、三里山の中腹の花筐公園に着きます。
 皇太子時代の愛人が皇太子と別れて狂人となり、都で行幸をさえぎり、天皇になった人の愛を取り戻す、
謡曲「花筐」にちなんで名付けられた公園です。この辺りに継体天皇が雌伏していたとの事です。継体天皇は謡曲「花筐」の子方です。素謡では謡いません。すぐ隣りに皇子池があり、継体天皇の産湯の池と言われています。公園は桜の名所で賑ぎわいますが、公園から三十分も登った所にある継体天皇の植えたという「薄墨桜」が有名です。以前登った事がありますが、樹齢六百年とかで、こまかい花がいっぱい付いて趣のある桜です。また公園より南へ十分の武生市味真野の池泉町に「越前の里、味真野苑」という歴史公園があり、その隣りの味真野神社が、継体天皇の御所跡と言われています。この写真は花筐公園内にある十七世宝生流家元、宝生九郎師による「謡曲花筐ゆかりの地」の碑です。


bQ 花筺公園の野外舞台

 また花筐公園には多目的ホールの能舞台があります。以前に演能があったみたいです。
 隣接する「岡太神社」は1500年ほど前、この地に居た大述皇子(後の継体天皇・
謡曲「花筐」の子方)が、建角身命・大己貴命・国狭槌命の3神を勧請、鎮祭したのが開基と云われています。継体天皇も祭る古社で、境内に「継体天皇潜龍之聖迹」の碑が建っています。
この舞台で今年の夏14年に薪能がありました。野村萬斎師の狂言と、藪俊彦師の「船弁慶」で3千人集まったと言いますから凄いですね。


bR  味真野神社 〔武生市池泉町


 謡曲「花筐」
の子方が継体天皇です。味真野に住んでいました。謡曲「花筐」の前場の舞台となっている処です。高速武生インターを降り、一度国道八号線に出て、敦賀方面に少し走った〔庄田〕交差点を左折し、一直線三キロぐらいで、「越前の里・味真野苑」の前に出ます。このちょっと手前が味真野神社です。継体天皇の住居址といわれています。








境内に
「謡曲花筐発祥の地」の碑があります。また南へ四キロほど行ったところに、五皇神社があり、天皇の学問所と伝えられています。


 bS  蝉丸の墓 〔宮崎村寺・陶の谷〕

 盲目ののため山に捨てられた皇子蝉丸。狂気の放浪を続ける姉宮逆髪。姉弟の出会いと別れを描いた謡曲「蝉丸」の舞台になっているのは、大津近くの逢坂の関辺りで、関蝉丸神社があり、ここが蝉丸わび住まいの跡と言われています。
 その蝉丸の墓が
宮崎村陶の谷にあります。高速鯖江インターより西へ一直線。鯖江市内を横切りそのまままっすぐ五キロくらい。石生谷の新しいトンネルを抜けてしばらくで、左手の田圃の中にあります。立札によれば、琵琶の名人蝉丸は諸国流浪の果てに、越前宮崎村にたどり着きました。蝉丸の美しい琵琶の音はこの静かな村にひびきました。やがて病気になり村人に「七尾七谷の真中に埋めてくれ」と遺言して死にました。
 お墓のある場所は田圃と畠に囲まれた小さな盆地にあり、まさに七つの尾根と七つの谷に囲まれた処にあります。村人のやさしさと琵琶の音が身にしみるようなお墓です。


bT 祇王祇女屋敷跡 福井市三郎丸

 謡曲「祇王」ツレ祇王は、仏御前に追われ嵯峨野の妓王寺で余生を過ごし、生国は琵琶湖湖畔の、野洲の祇王村と言うことになっています。
 ところが福井市の西藤島三郎町に祇王祇女の屋敷跡があります。高速福井北インターを出て、市内に向い一直線四キロ、芦原街道の交差点大宮交番を越え、三国線の電車線路をこえ、次の大きな交差点を左に折れ、一つ目の信号を右に入ると、しばらくの左側にあります。西藤島公民館の隣りです。
 ここが祇王の出生地で都から戻り、ここに妹の祇女、母とじ、とともに暮らし、後には仏御前も同居したといいます。ここの立札に拠れば、仏御前の生まれは、越前の国大野郡仏原という説があるそうです。仏原は今は仏原ダムの水底だそうです。仏御前の滝だけがあるそうです。

bU 実盛池 〔丸岡町長畝

 謡曲[実盛」にあるとおり、実盛生国は越前の者、錦の直垂を着て故郷に錦を飾ります。
 この実盛の古跡が福井県の丸岡町長畝〔ノウネ〕にあります。高速丸岡インターを出て一ッ目の信号を右折し、まっすぐ丸岡町を抜けて突き当たりの丁字路の、目の前の田圃の中に大きな松ノ木が二本あり、そばに池があります。「実盛池」と立札があり、実盛はこの池で産湯を使ったと言われています。今は田圃の真中ですが、だんだん宅地開発の波が押し寄せてきています。そのうちに町にのみ込まれるかも知れません。


bV 実盛の館跡 〔丸岡町上長畝〕

 高速金津インターを出て、国道八号線を福井方面に向けて五キロくらい、八号線は右に曲がりますが、直進して旧国道に入るとすぐ長畝の村に入ります。長畝の村から大内峠に抜ける道に入り、少し行って左に折れた上長畝の村の中に、実盛の館跡があり「実盛堂」があります。謡曲「実盛」の実盛はここに住んでいました。彼岸花の咲いている境内はひっそりとしていました。堂内に仏師新井九郎兵衛作の、実盛の武人像があるとの事ですが未だ拝見していません。村人にお話をお聞きしましたら、毎年6月21日がお祭りで、神主様が来て戸が開けられるので、その時拝見出きるそうです。実盛池より直線で1キロ位です。堂の前に水仙が飾ってありました。時々立ち寄って見ますが、いつもお花が供えてあります。


bW 紫式部公園武生市東千福町

 謡曲「源氏供養」のシテは紫式部です。舞台となっている場所は琵琶湖近くの大津の石山寺です。

 ここ武生市に「紫式部公園」が出来ました。特に謡曲の舞台にはなっていないのですが、素敵な庭園ですので紹介しときます。源氏物語の作者紫式部は、十七・八才の頃長特二年〔996〕国府の越前守として着任した父に伴われて、武生を訪れ多感な青春時代の何年かを過ごしました。彼女が国司の館から、雪に包まれた日野山〔越前富士とも呼ばれ奈良時代から国府のシンボルとして旅人に親しまれてきた名山〕をみて詠んだ歌が残っています。
「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 をしおの松に けふやまかえる」




庭園は寝殿作りの平安時代のイメージで創られています。紫式部の巨大な金色の立像もありますかが、これはあまり頂けないですね。場所は市内を走っている国道八号線沿いで、高速からならば味真野へ入る〔庄田〕交差点を右折して一直線で近くに出ます。


bX 熊坂長範物見松跡 〔金津町熊坂〕



 
加賀市熊坂から国道八号線を、福井方面へ牛ノ谷峠を越えると、福井県にも熊坂町があります。金津インターを出てすぐの所です。ここも謡曲「熊坂」の長範の出生地と言っています。加賀市熊坂の「スッポン堂」の中の写真を手がかりに、とうとう「物見の松跡」見つけました。熊坂町のはずれに「ニッセン」と言う大きな建物があります。その前の信号を建物の反対側に入ると、山裾の田んぼの中に写真の碑があります。謡曲の舞台は岐阜県の美濃ですが、故郷の熊坂村でも、盗賊をしていたのでしょうね。この松は江戸時代に枯れたので、村人はこの松で大仏を作りました。大盗賊と大仏像の話は後に載せました。それにしても変な組み合わせですね。よほど大きな松だったのでしょうね。そばの白い花が一面に咲き出しました。


 10 仏御前の滝 大野市仏原



 
大野市から美濃白鳥に抜ける、国道158号線を行くと、仏原ダム湖の湖岸にさし掛かります。ダム湖にかかる琴洞橋を渡る少し手前の山側に、小さな駐車場があり。ここに車を置いて急な斜面を登っていくと、十五分で滝に着きます。この滝は「仏御前の滝」と呼ばれています。この名前の由来は、謡曲「祇王」、謡曲「仏原」のシテ仏御前は、目の下に見える仏原ダムの底に沈んでいる〔仏原栃沢〕の生まれで、この滝の水でいつも顔や髪を洗っていたからです。仏原月窓寺と言うお寺があったそうで、仏御前の出生地は加賀ではなくて越前だと言う説の基になっています。


11 鵜甘神社の田楽能舞 〔池田町水海〕

 池田町の水海の村中に、鵜甘神社があります。延喜式内の古社で、紀元1123年の創立との事であります。この神社に国の重要民俗無形文化財の、田楽能舞が伝わっています。その由来書によれば、「建長2年鎌倉幕府、前の執権北条時頼公、諸国廻りの折り急ぎ帰館の途時、当地にて降雪に会い越冬のやむなきにいたりぬ。何故に最明寺入道時頼公が、当地に来られた理由は、水海を通り大野郡西谷村熊河より温見を経て、岐阜県大河原村に至る表日本に通じる、最短平易の重要な道程であった。公は、当地の雪消えまで鵜甘神社に滞在中、日毎に社前に参篭し天下泰平、国家安穏、五穀豊穣を祈願せりと言う。たまたま滞在中の2月15日、春大祭の古事を御感有って、村人舞人などに能舞を教え、以後併せて奉納する様に確約して、公は雪消えを待って急ぎ帰領された。帰領後、水海で世話になった人々を鎌倉に招いて賞賛されたと言う。」

最明寺時頼は、謡曲「鉢木」「藤栄」のワキです。

 まったく、
謡曲「鉢木」と同じ話だと思いませんか。この田楽能舞は毎年2月15日に、写真の鵜甘神社拝殿にて神事として執行されます。昼12時・川原にて禊。午後1時より5時まで田楽能舞奉納。午後6時・面納め。見学自由。









 写真下は
「呉服」の能舞です。友達の橋本正勝君が写してきました。


12 能楽の里歴史館 〔池田町稲荷〕

 池田町の稲荷集落の真中に、これも延喜式神名帳に名を残す古社「須波阿須疑神社」があります。その隣りの広場に「能楽の里歴史館」と、写真の能楽堂みたいな「野外舞台」があります。資料館にはビデオ資料や田楽能舞の面や衣装や写真があります。
 それによれば、演目は
田楽4番〔祝詞・あまじゃんごっこ・からす跳び・あまおきな〕、能舞5番〔呉服・高砂・式三番・田村・羅生門〕の計9番で、14人の舞い手によって一人一舞で奉納されます。囃子方の太鼓がビデオに映っていましたが。感動的な打ち方でした。





 池田町へは福井・鯖江・武生のイターよりそれぞれ40分くらいかかると思います。友人の橋本正勝君は2度も見に行って、その興奮を語ってくれました。私も一度拝見に行きたいと思っていますが、何しろ一年で一番寒い時で、雪でも積もっていると、つい出難くくなります。

下写真は橋本正勝君写す。


13 燈明寺畷新田塚 福井市新田塚

 南北朝時代の延元3年〔1338〕7月2日、南朝方の忠臣新田義貞の戦死の場所と伝えられています。敦賀の金ヶ崎城の戦いでは、途中城を脱出して金ヶ崎救援の対策中に落城、恒良親王は捕えられ、嫡男の義顕と尊良親王は自害しました。その1年後藤島城攻撃に向う途中、この地で敵と遭遇、矢傷を負って深田に倒れ自害して果てました。









江戸時代の明暦2年〔1656〕この地の百姓が、水田の中より古冑を発見。当時の福井藩軍学者井原番右衛門が義貞の物と鑑定。〔1660〕年に藩主松平光通が石碑を建て、遺跡を顕彰しました。写真の堂の中にこの石碑があります。新田義貞の鉄製銀象嵌冑には、元応元年〔1319〕8月の刻銘があり、重文に指定され市内西木田の「藤島神社」あるそうです。
 新田塚の場所は、芦原街道の交差点大宮交番より少し芦原よりの街道筋にあります。南北朝を舞台にした謡曲に、観世流
楠露、金剛流「桜井駅」があります。残念ながら未だ拝見する機会がありません。 


14 熊坂の大仏 〔金津町熊坂〕

 金津インターを出て、すぐの国道8号線沿いに熊坂村があります。この村の中の、細長い通りにあるお堂に「熊坂長範物見の松」で作った「熊坂大仏」があります。
 立てられている案内板によれば
「この大仏は、熊坂長範物見の松と伝えられる松で造った、坐像で高さ2メートル、両膝の張りも2メートルで、松の中心の一本造りである。この松の原木は、熊坂の城の腰にあったが、江戸時代嘉永5年〔1852〕に枯れたので、村人は生えた姿のまま大仏様にして残そうと云う事になりました。そこで前谷の松龍寺住職で仏師でもあった、達誉智山上人にお願いして、安政3年〔1856〕に完成しました。明治10年に熊坂新道が出来て、大仏殿を現在地に移しました。


 ところが、昭和7年2月10日隣家の火災で焼け、大仏は松の芯の油出て、その油が燃えて真っ黒になり、〔熊坂の黒仏〕と言われるようになりました。昭和25年福井の彫刻家、雨田光平氏に頼んで補修され、昭和31年に元のお姿になりました」。
小さな窓から覗いてみると、金色の大仏が鎮座していました。毎年2月上旬に村人総出で、大仏講が開かれているそうです。

 
謡曲「熊坂」のシテの大泥棒と大仏の組み合わせは、なんとなく楽しいですね。

15 花筐の銅像〔武生市余川町〕

 今年(2001)の五月連休の新聞に、謡曲「花筐」の銅像除幕と出ていたので、早速写真を撮ってきました。

 記事によれば、
謡曲「花筐」は、味真野にいた即位前の継体天皇が、恋人の照日前に花筐(花かご)を渡して上京。照日前は狂乱するが、継体天皇を追って上京し、行列の前に花筐を差し出し、継体天皇の愛を取り戻す物語。」像は、味真野観光協会が創立20周年を記念し製作。継体天皇が照日前に花筐を授けた場面を再現し、人体の2倍の大きさで作られている。物語では春の設定なので周囲には桜が植えられた。
 以上新聞記事です。
銅像の建てられたのは「越前の里・味真野苑」の中です。


16 越前の里・味真野苑〔武生市余川町〕

 越前の里・味真野苑は緑多き公園です。季節には花しょうぶや、水芭蕉が咲きます。
 また味真野は、奈良時代の流刑地として知られ、中臣宅守が女官・狭野弟上娘子との恋をとがめられ、ここに流されました。この二人の詠んだ歌が多数万葉集に収められています。
「君がゆく 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」狭野弟上娘子。 「塵泥の 数にもあらぬ 我故に 思ひわぶらむ 妹が悲しさ」中臣宅守。
 ロマンチックでいいですね。池のほとりに大きな記念の碑があります。万葉仮名で書いてあるので、良く読めませんでした。苑内に
謡曲「花筐」の銅像が出来ました。


17 足羽山公園の継体天皇像

 謡曲「花筐」の子方、継体天皇は、地方から出た珍しい天皇です。「日本書紀」によれば、第26代の天皇で、応神天皇5世の孫、彦主人王の子として味真野に生まれます。男大迹皇子と称して越前一帯を統治し、特に治水事業・笏谷石の採掘に尽力しました。25代武烈天皇亡き後に皇位を継ぐものがなかったため、58歳の時上京して即位しました。
 この石像は、明治16年に継体天皇の遺徳を慕い、笏谷石を使って造られました。足羽山の山頂で福井平野を睨んでいます。
それにしても四頭身の像は少しユーモラスですね。この時代には天皇という言葉がまだ無くて、大王といっていたらしいです。 


18 藤島神社 〔福井市西木田



 足羽山の中腹に藤島神社があります。新田義貞を祭ってあります。元は義貞が戦死したといわれる,燈明寺畷の新田塚に建てられましたがここに移転しました。ここに新田義貞使用の兜と伝えられる、重要文化財に指定されている「鉄製銀象嵌兜」があります。燈明寺畷の水田より発掘されたもので、鉄筋が42あり筋間に宮中守護三十番神号、裏に元応元年八月(1319)と刻字されているそうです。


19 女形谷天皇堂 丸岡町女形谷〕 

 高速道路の、丸岡ICと金津ICの間に、女形谷というパーキングエリアがあります。どう読むのか悩みますが「おながたに」と読みます。
 名前の由来はその昔、この付近の谷に「男大迹王・おほどおう」と呼ばれる人が住んでいました。別名が「高向王子・たかむくおうじ」だったので「向王子谷・むくおうじたに」と呼ばれていました。やがて男大迹王は継体天皇となり、里の人々は陛下の谷の意味で「御名の谷・おなのたに」と呼ぶようになり、それが転じて「女形谷・おながたに」となりました。
 この女形谷村に「てんのう堂」と呼ばれるところがあります。パーキングエリアの近くにあり、丸岡より実盛館のある上長畝を通りすぎ、高速に近くなると右手の田圃の中に、写真の塚があります。ここは男大迹王を天皇として迎える為に、大和からの使者大伴金村と会見した所と伝えられています。
 福井県には
謡曲「花筐」の子方継体天皇に関する伝承がとても多いです。


20 千古の家 丸岡町上竹田

 石川県の山中温泉から、大内峠を越える国道364号線を走ると、福井県丸岡町の山手に出ます。ここの上竹田の村に写真の「千古の家」があります。この家は中世末期に建てられた、全国的にも貴重な民家で、国指定重要文化財に指定されている「坪川家」です。実にどっしりとした萱葺きの家で、こんな家に住んでみたいと感じます。
 立札によれば「坪川家の先祖坪川但馬貞純は北面の武士で、源三位頼政の後裔である。今を去るおよそ七百年前、故あってこの地に定住した」。頼政は、
謡曲「鵺」謡曲「頼政」に登場します。


21 汐越の松 〔芦原町浜坂〕


 芭蕉の奥の細道に「汐越の松」のことが出てきます。芭蕉が師と仰ぐ西行の
「夜もすがら嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松」の古歌に引かれてここを尋ねています。場所は石川県と福井県の境、蓮如上人ゆかりの吉崎の近く、芦原ゴルフクラブのコースの中に、切り株が残っているらしいです。芭蕉は舟でここを訪れています。ゴルフの出来ない私は、クラブハウスの前の奥の細道の一節を刻んだ石碑を撮ってきました。


22 板取の宿 〔今庄町板取〕

 謡曲「安宅」の道行きに地名が色々出てきます。「波路遥かに行く船の、海津の浦に着きにけり。東雲はやく明け行けば、浅茅色づく有乳山。気比の海、宮居久しき神垣や。松の、木乃目山。猶行く先に見えたるは、杣山人の板取。河瀬の水の麻生津や。末は三国の湊なる。蘆の篠原波寄せて、靡く嵐のはげしきは、花の安宅に着きにけり」。
 この中に出てくる板取宿は、福井県今庄より滋賀県余呉町に至る国道365号線沿いにあります。柴田勝家が北ノ庄に封じられ、主君織田信長の城のある安土に赴くため、最短距離のこの道を作りました。義経の一行は敦賀より山越えでここに出ています。


23 三国・瀧谷寺〔三国町滝谷
 謡曲「安宅」の道行きに、[末は三国の湊なる。蘆のの篠原波寄せて]と出てきます。三国町は古くから九頭竜川の河口に臨む港町です。名勝天然記念物の東尋坊や芦原温泉もすぐ近くです。義経弁慶の一行もここを通って加賀に入りました。

 能楽とは特に関係ありませんが、三国駅より徒歩15分の所に「瀧谷寺」があります。タキダンジと読みます。真言宗の名刹です。古色蒼然とした堂宇が並んでおり、庭園は国指定名勝に指定されています。写真は山門。


24 弁慶の洗濯岩〔福井市小丹生町


 越前岬をドライブしていて「弁慶の洗濯岩」を通りました。
謡曲「安宅」の弁慶さんは忙しいですね。立札に寄れば、義経弁慶一行は、ここで一休みして、山から落ちる水で、旅衣を洗い、安宅に向けて出発したとの事です。

 それにしても、洗濯板の代わりには、大き過ぎますね。


 25 弁慶の三枚切岩〔武生市日野山
 
 「日野山」は越前富士とも呼ばれ、北陸高速道路を福井から武生に向かって走ると、目の前に富士山のような山が見えてくる。やがてその山腹のトンネルに車は飲み込まれるが、そのときトンネルの入り口にかかれた「日野山トンネル」が読み取れる。紫式部や芭蕉が取り上げている福井の名山です。
 この山に登りに行きました。室堂の手前で「弁慶の三枚切岩」がありました。立て札に依れば、昔、弁慶がこの山に登り、この岩を三枚に切って、力を試したとの事です。
 
謡曲「安宅」の弁慶さんは大忙しです。