bP 花筺公園 〔今立町粟田部〕 |
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bQ 花筺公園の野外舞台 |
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bR 味真野神社 〔武生市池泉町〕 |
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bS 蝉丸の墓 〔宮崎村寺・陶の谷〕 |
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bT 祇王祇女屋敷跡 〔福井市三郎丸〕 |
![]() ところが福井市の西藤島三郎町に祇王祇女の屋敷跡があります。高速福井北インターを出て、市内に向い一直線四キロ、芦原街道の交差点大宮交番を越え、三国線の電車線路をこえ、次の大きな交差点を左に折れ、一つ目の信号を右に入ると、しばらくの左側にあります。西藤島公民館の隣りです。 ここが祇王の出生地で都から戻り、ここに妹の祇女、母とじ、とともに暮らし、後には仏御前も同居したといいます。ここの立札に拠れば、仏御前の生まれは、越前の国大野郡仏原という説があるそうです。仏原は今は仏原ダムの水底だそうです。仏御前の滝だけがあるそうです。 |
bU 実盛池 〔丸岡町長畝〕 |
![]() 謡曲[実盛」にあるとおり、実盛生国は越前の者、錦の直垂を着て故郷に錦を飾ります。 |
bV 実盛の館跡 〔丸岡町上長畝〕 |
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bW 紫式部公園〔武生市東千福町〕 |
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bX 熊坂長範物見松跡 〔金津町熊坂〕 |
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10 仏御前の滝 〔大野市仏原〕 |
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11 鵜甘神社の田楽能舞 〔池田町水海〕 |
![]() 池田町の水海の村中に、鵜甘神社があります。延喜式内の古社で、紀元1123年の創立との事であります。この神社に国の重要民俗無形文化財の、田楽能舞が伝わっています。その由来書によれば、「建長2年鎌倉幕府、前の執権北条時頼公、諸国廻りの折り急ぎ帰館の途時、当地にて降雪に会い越冬のやむなきにいたりぬ。何故に最明寺入道時頼公が、当地に来られた理由は、水海を通り大野郡西谷村熊河より温見を経て、岐阜県大河原村に至る表日本に通じる、最短平易の重要な道程であった。公は、当地の雪消えまで鵜甘神社に滞在中、日毎に社前に参篭し天下泰平、国家安穏、五穀豊穣を祈願せりと言う。たまたま滞在中の2月15日、春大祭の古事を御感有って、村人舞人などに能舞を教え、以後併せて奉納する様に確約して、公は雪消えを待って急ぎ帰領された。帰領後、水海で世話になった人々を鎌倉に招いて賞賛されたと言う。」 |
12 能楽の里歴史館 〔池田町稲荷〕 |
![]() 池田町の稲荷集落の真中に、これも延喜式神名帳に名を残す古社「須波阿須疑神社」があります。その隣りの広場に「能楽の里歴史館」と、写真の能楽堂みたいな「野外舞台」があります。資料館にはビデオ資料や田楽能舞の面や衣装や写真があります。 |
13 燈明寺畷新田塚 〔福井市新田塚〕 |
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14 熊坂の大仏 〔金津町熊坂〕 |
![]() 立てられている案内板によれば「この大仏は、熊坂長範物見の松と伝えられる松で造った、坐像で高さ2メートル、両膝の張りも2メートルで、松の中心の一本造りである。この松の原木は、熊坂の城の腰にあったが、江戸時代嘉永5年〔1852〕に枯れたので、村人は生えた姿のまま大仏様にして残そうと云う事になりました。そこで前谷の松龍寺住職で仏師でもあった、達誉智山上人にお願いして、安政3年〔1856〕に完成しました。明治10年に熊坂新道が出来て、大仏殿を現在地に移しました。 ![]() ところが、昭和7年2月10日隣家の火災で焼け、大仏は松の芯の油出て、その油が燃えて真っ黒になり、〔熊坂の黒仏〕と言われるようになりました。昭和25年福井の彫刻家、雨田光平氏に頼んで補修され、昭和31年に元のお姿になりました」。小さな窓から覗いてみると、金色の大仏が鎮座していました。毎年2月上旬に村人総出で、大仏講が開かれているそうです。 謡曲「熊坂」のシテの大泥棒と大仏の組み合わせは、なんとなく楽しいですね。 |
15 花筐の銅像〔武生市余川町〕 |
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16 越前の里・味真野苑〔武生市余川町〕 |
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17 足羽山公園の継体天皇像 |
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18 藤島神社 〔福井市西木田〕 |
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19 女形谷天皇堂 〔丸岡町女形谷〕 |
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20 千古の家 〔丸岡町上竹田〕 |
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21 汐越の松 〔芦原町浜坂〕 |
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22 板取の宿 〔今庄町板取〕 |
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23 三国・瀧谷寺〔三国町滝谷〕 |
![]() 能楽とは特に関係ありませんが、三国駅より徒歩15分の所に「瀧谷寺」があります。タキダンジと読みます。真言宗の名刹です。古色蒼然とした堂宇が並んでおり、庭園は国指定名勝に指定されています。写真は山門。 |
24 弁慶の洗濯岩〔福井市小丹生町〕 |
![]() 越前岬をドライブしていて「弁慶の洗濯岩」を通りました。謡曲「安宅」の弁慶さんは忙しいですね。立札に寄れば、義経弁慶一行は、ここで一休みして、山から落ちる水で、旅衣を洗い、安宅に向けて出発したとの事です。 それにしても、洗濯板の代わりには、大き過ぎますね。 |