脳内リセット(笑いと涙が人生を変える)  日本医科大学教授 吉野槇一


全身麻酔で完全な脳のリセット状態をつくる

次に投げかけられた問題は、私のこの理論の正しさをどうやって証明するかです。楽しく笑うと、心の座がある前頭葉の働きが一時的に無に近い状態になるか、またはその伝達が阻害され、その結果、それまで乱れていた神経.内分泌.免疫系の機能が正常に戻るというのが私の仮説です。

頭の働きを無にする方法、しかもすでにこれが科学的に認められているやり方を応用し、そのときの関節リウマチの患者さんの神経.内分泌.免疫系への影響を見ればよいのではないかと考えました。

むずかしそうに思えるその方法が、医局の若い先生たちといっしょにいろいろ雑談しながらお酒を飲んでいるときに、偶然に、そして意外にも簡単に見つかったのです。それは、破壊され曲がらなくなった関節リウマチの患者さんの膝関節を人工関節におきかえる手術などの際に行われる全身麻酔に着目したことです。

これまでの実験もそうでしたが、まず人道的に許される方法で行うというのが絶対的な条件で、これを満たさなければなりません。私の本業の一つは、関節リウマチの悪化によって壊れてしまった患者さんの膝関節、股関節などに人工関節の手術を行い、再び歩行可能にすることです。この手術は全身麻酔のもとで行います。全身麻酔がかけられている状態では意識はなく、考えるなどの機能はまったくありません。前頭葉などの働きも無です。逆に、その直前の状況、つまり手術台に上がり、これから麻酔をかけますよという段階では、極度の精神的ストレス刺激にさらされます。手術は成功するのだろうか、事故は起こらないだろうか、切られるというのはどんな気分なのかなど、患者さんは猛烈な不安に押しつぶされそうになることが少なくありません。

もうおわかりのように、人工関節の手術を受ける患者さんに協力してもらうと、過度に精神的ストレス刺激がかかっている状態から、これがまったくとり除かれた状態への変化を、しかも治療という人道的な行為下に行えるのです。

この実験の目的をもう一度整理します。まず、これから手術を受ける関節リウマチ患者さんでは猛烈な精神的ストレス刺激下で血中のインターロイキン-6の値が増加するか否かを見ること。次に、全身麻酔下で意識が消失し、精神的ストレス刺激がなくなったとき、笑いの実験と同じように、インターロイキン-6、アドレナリン、ノルアドレナリン、ドーパミン値が、またストレス刺激時にその値が高くなるコルチゾール値が低下するか否かを調べることです。

実験対象は、人工膝関節の手術を受ける関節リウマチ忠者さん21人のグループと、やはり人工膝関節の手術を行う変形性膝関節症の患者さん8人のグループです。変形性膝関節症は、加齢などにより膝関節が変形してくる病気で、炎症はほとんどありません。ここでは一応健康な方のグループと考えてください。

実験開始です。今回は、基準値を得るために、手術の前日に手術日と同じ時間帯で2回採血しました。手術台に上がる時刻の朝8時30分と、全身麻酔が完全にかかり、意識がまったく無の状態になって、30分を経過した手術直前の朝9時です。

なぜ手術後に採血しなかったのかといいますと、手術は「からだ」にとって大きな身体的ストレス刺激ですので、この刺激が加わって得られた結果は複雑になってしまうからです。

みごとに証明された仮説・脳内リセット理論

まず、関節リウマチ患者さんのグループを見てみます。緊張に関与しているノルアドレナリン、コルチゾール、そして前から何度も述べているインターロイキン-6の値は、麻酔をかける直前では前日の基準値にくらべ、統計学的に有意差を持って上昇しました。それが、全身麻酔がかかり、手術を始める直前での値は著しく低下しました。前日の採血時より下がっていました。つまり、関節リウマチ患者さんのノルアドレナリン、インターロイキン-6、そしてコルチゾール値は手術という過度の精神的ストレス刺激が加わると上昇し、意識をなくし、刺激を無の状態にすると反対に有意に低下することがわかりました(図:関節リウマチ患者グループのインターロイキン-6、ノルアドレナリン、コルチゾール値の変化122ぺージ)。

一方、健康な方のグループとした変形性膝関節症の患者さんではどうでしょうか。インターロイキン-6、ノルアドレナリン、コルチゾール値はまったく変動しませんでした(図:健常人グループのインターロイキン-6、ノルアドレナリン、コルチゾール値の変化123ぺージ)。

この結果から、関節リウマチ患者さんのように神経・内分泌・免疫系に乱れがあると、手術を受けるという精神的ストレス刺激はその乱れをさらに増悪させる。しかし、このような乱れがある場合でも、全身麻酔という特殊な状況ですが、思考は無論のこと、意識がなくなると、精神的ストレス刺激から完全に解放され、この乱れを正常な方向に導くことがわかりました。

すなわち、私が立てた仮説「脳内リセット理論」が正しかったことをみごとに証明したのではないかと考えられました。

人間の大脳のなかには、この系をはじめとし、乱れをいったん正常化するための「リセット機構」と呼んでもよい仕組みが備わっていると思われました。楽しい笑い、全身麻酔(深い眠り?)といった生理現象がリセットボタンを押すのではないかと推測されました。

なお、脳内リセット機構は病気のない健康な方の場合には、神経・内分泌・免疫系になんら影響を及ぼさないことが示唆されました。

また、脳内リセット機構には害がまったくないこともわかりました。

そこで、念には念を入れてということで、人間のように前頭葉が発達していない動物ではどうなっているのかを調べるために、ラットを用いて実験を行いました。

ときには胃潰瘍も発症する浸水性拘束法という過度のストレス刺激をラットにかけた後に、麻酔薬を投与する方法で追試して見てみました。

対象にはルイス系ラツトを選び、関節リウマチに似た関節炎を起こしたものと正常なものの二つのグループをつくりました。人間で行った方法と同じです。

測定したのは、血中のインターロイキン-6とコルチゾールの値です。すると、関節炎のラットはインターロイキン-6もコルチゾール値も人間と同じように変動しました(図:動物実験でのインターロイキン-6値の変化126ぺージ)(図:動物実験でのコルチゾール値の変化127ぺージ)。つまり、この二つの物質のうち、インターロイキン-6の値は過度のストレス刺激下では著しく上昇しましたが、麻酔によりストレス刺激を無にすると、楽しい笑いの実験結果と同じように、この値も急激に低下する動きを見せました。正常なラットでは、インターロイキン-6の値は人間と同じようにまったく変動しませんでした。しかし、コルチゾールの値は両グループともストレス負荷とともに上昇しました。

このことについては、推測の域を出ませんが、人間では神経・内分泌・免疫系の連携に対してのストレス刺激の負荷を前頭葉がコントロールして、この系にできる限り影響を与えないようにしている。しかし、ラットなどの動物では前頭葉があまり発達していないので、神経・内分泌・免疫系の連携が正常であっても、ストレス刺激がそのままストレートにこの系に伝わり、その影響があらわれるのではないかと考えられました。


(加茂)

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加茂整形外科医院