慢性疼痛   

灘岡壽英 (米沢市立病院精神神経科)  

こころの科学84   March 1999  ●特別企画  心療内科【心身症の周辺疾患の症例】


痛みという体験

痛みはわれわれが日常生活の中で最も多く体験する感覚の一つである。しかし単に不快な感覚というだけではなく、虫歯になると歯が痛くなり、虫垂炎で腹が痛くなるように、痛みはからだのある部位に何らかの異常が発生したという信号を送る役割を果たしている。

一方、痛みはわれわれの情動とも深く結びついている。突然起こる痛みはわれわれに不安を引き起こすし、痛みがとれないで長く続くと抑うつ的になってくる。また逆に不安があれば痛みの閾値は低下するし、リラックスしている状態では閾値が上がることも知られている。

もう一つの痛みの重要な特性はそれが主観的な体験であり、本人が何らかの伝達手段を取らない限りその存在が周囲の者にはわからないということである。すなわち「痛い!」という叫び声や、顔をしかめる、痛みの場所を押さえるなどの動作や態度で表現される必要がある。この場合の痛みはコミュニケーションとしての役割も果たしていることになる。

痛みは医療場面においてしばしば遭遇する訴えであり、その原因を調べ、痛みを取り除くことは、医療における重要な問題である。しかし、従来の医学は必ずしも痛みそのものにはあまり注意を拡ってこなかったと言われる。それは一つには、痛みの発生が単純に身体の異常と結びついており、痛みは病気が治るまでの一時的なものだから我慢するしかないという考えがあったためと思われる。ところが実際には病気は治ったはずなのに痛みだけが続くことがあるし、癌による痛みのように治る見込みのない痛みもある。

このような背景から痛みそのものを治療の対象とするペインクリニックという診療部門が独立し、一方で近年の分子生物学の進歩は痛みの発生の解明に大きな進展をもたらし、痛みの診療と研究は新たに脚光を浴びることになったのである。

慢性疼痛とは

治療の対象として痛みを扱うようになると、比較的短期間で治る痛みとなかなか治りにくい痛みがあることに気づかれるようになってきた。短期間で治る痛みとは原因がはっきりしている痛みであって、その原因が治れば痛みもそれに伴って消失するものである。それに対し、原因としての病気やけがは治癒したはずなのに痛みだけが長期間続いたり、そもそもの原因がはっきりしない痛みがあり、前者を「急性疼痛」、後者を「慢性疼痛」と区別するようになった。

慢性疼痛は従来の身体医学のみでは理解されず、生物学的、心理的、社会的要因が複雑に絡み合っていることが多く、心身医学的観点からの対処が必要な病態である。

症例から




本症例の考察

原因がはっきりしない痛みについては、従来「心因性疼痛」という病名が用いられることが多かった。心因性とは、からだの異常によるものでなく心理的な原因に由来するという意味で、心因性咳、心因性難聴、心因性嘔吐、心因性発熱など多くの心身症に心因性という用語が従来用いられてきた。しかし心因性という言葉を厳密に考えれば、症状の発生以前にその原因となる心理的な問題があり、それが症状の発生に密接にかかわっていることを証明する必要がある。心因性と判断されれば、治療はその表れている症状そのものでなく、心理的問題の解決を目指すものとなる。

心因性疼痛についても以前は同様の考え方がなされ、心理的な原因で痛みが表れる機序として、精神力動的立場からは同一視、攻撃性、罪悪感、疾病利得と疾病逃避などの心理機制が考えられた。しかし身体的原因が特定できない痛みがすべて心因性であると言い切るのは難しい。

たとえば交通事故にあった後長年にわたって首から肩の痛みを訴える患者の場合、身体的な検査では異常が見つからないとしても、事故の際に頚椎や筋肉などに微細な損傷を起こしている可能性がないとは言えないし、加害者との問で示談が成立していなかったり、痛みのために生活にさまざまな支障が出たり、仕事ができなければ経済的にも困るなどの問題がある。一緒に暮らしている家族は患者の痛みがどれほどのものかわからないし、病院で特別な異常がないと言われれば本人の気持ちのもちようではないかなどとつい考えたくもなってくるであろう。患者は自分の痛みを誰にも理解してもらえないと抑うつ的なり、どうにかわかってもらいたいという気持ちからその痛みの表現も次第に強くなってくるかもしれない。こうなってくると、どこからが痛みの原因でどこからが結果であるのかはっきりした線は引けなくなってくる。

このような痛みを先に述べたようなような意味で心因性というのは適切ではないという考え方から、その発生因には直接触れず単に長期化する痛みという意味で近年は慢性疼痛と呼ばれることが多くなってきたのである。

その背景には行動医学的な考え方があり、心身医学全般についてもその発祥時期の精神分析的な考え方から行動医学的な考え方への変遷が見てとれる。行動医学的な立場から慢性疼痛を考えるとき、それを痛みという主観的な体験としてでなく痛み行動という客観的に観察できる行動としてとらえようとする。痛みが長期化するにはそのような痛み行動を遷延化させる、すなわちその行動の持続ないしは反復を促す因子(強化因子と呼ぶ)が働いていると考えるのである。したがって慢性疼痛の治療は痛み行動の強化因子を少なくし、それに代わる健康的な行動を強化しようとするのである。特に米国においてこの考え方は受け入れられ、pain management program として全国に普及したと伝えられている。これは患者に対する行動療法的な働きかけに加え、運動療法や家族療法を組み合わせたものである。

今回紹介した症例について考えてみると、患者は農家の跡取りとして大事に育てられ、元々ストレスに対する耐性が低かったと考えられる。発症は十二指腸潰瘍の穿孔であるから明らかに身体因性の痛みである。しかしその痛みを主治医は重大に取り扱ってくれなかった(と患者は感じている)。その不満や不安から痛みは増強し、その訴えが強くなりますます主治医から疎んじられる存在となってしまう。患者はそれと意識はしていないが、医療に対する不信感を強め、本来依存すべき対象を失った不安から医者めぐりをするようになり、その行動はどの医療機関でも単に異常がないという理由で門前払いを食う形になってしまっている。さらに患者は家族からも見放され、依存対象が種々の鎮痛剤からアルコールヘと移っていったように見える。

このようになった慢性疼痛に対し、痛みという感覚を治療の対象ととらえている限り有効な手段はない。治療すべきは痛みをコミュニケーションの手段としている患者の行動パターンである。したがってわれわれが取った治療法は痛みの訴えに対しては特別な注意を払わないし、それに対する医療的処置という形での「強化」も行わないというものであった。その代わり痛みがあってもそれに負けない行動を示したときには賞賛、支持という形で保証を与えるというものである。この際注意すべき点は、痛みの訴えを無視するということではなく、患者の訴えは事実としていちおう受け入れるが、その行動をとくに強化しないということなのである。このような治療が痛みの行動療法と言われるものであるが、患者がこの治療を受け入れるという同意がなければ成り立たないのは当然で、治療者と患者との間に治療関係が成立していなければならない。この患者の場合、それまでどの医療機関においても痛みを受け入れてもらえるという形での関係ができず、われわれのところで初めて自分の痛みが認められたと患者が感じたことが治療の出発点になったと考えられる。

おわりに

痛みを感覚ととらえれば非常に単純化して考えることもできるが、痛みを抱える人間としてとらえると複雑になってくる。痛みの感じ方もその対処法もまたその痛みがもつ意味もそれぞれ異なってくるからである。心身医学の対象は症状そのものでなくその症状をもつ人間全体であり、その意味では慢性疼痛はまさに心身医学的に考えられるべき問題である。

慢性疼痛についてさらにくわしく知りたい読者は、いくつか成書が出ているので参考にされるとよいと思う。

〔参考文献〕
(1)R.メルザック、P.D.ウォール『痛みへの挑戦』誠信書房、1986年
(2)丸田俊彦『痛みの心理学』中公新書、1989年
(3)北見公一『脳の痛み心の痛みー慢性痛からの解放をめざして』三輸書店、1998年

加茂整形外科医院