腰痛の地獄の苦しみ

アンドルー・ワイル 「癒す心、治る力」  角川書店  より


Andrew Weil,M.D.医学博士。ハーバード大学医学校卒業後、国立精神衛生研究所の研究員、ハーバード大学植物学博物館の民族精神薬理学研究員などをつとめる。また、国際情勢研究所の研究員として北米・南米・アジア・アフリカなどの伝統医学やシャーマニズムをフィールドワーク。その実践的研究から、代替医学・薬用植物・変性意識・治癒論の第一人者となる。現在はアリゾナ大学医学校社会医学部副部長、同学校統合医学プログラム部長、合衆国議会「がんの代替療法研究委員会」の評議員などをつとめるかたわら、自宅で自然医学および予防医学の診療にあたっている。医学研究と治療分野での功績により「ノーマン・E・ジンバーグ賞」受賞。家族6人、馬1頭、犬5匹、猫1匹とともにアリゾナ州トゥーソン市に在住。

(加茂)ヘルニアで手術を考えている人は是非読んでください。


イーサン・ネーデルマンがはじめて腰痛を自覚したのは1981年、24歳の夏のことだった。思いあたる原因もないまま、「どこからともなく」出現した激痛が腰を襲ったのだ。バスケットボールのプレイが好きで、健康状態も良好だったイーサンが、突然、身体障害者になった。実際に、ほとんど歩くこともできなくなったのである。ところが、10日後、痛みは少しずつひきはじめ、やがて出現したときと同じように、どこへともなく消えていった。

イーサンは政治学者で、国際的に知られた麻薬政策の専門家である。はじめての腰痛に襲われた1981年は、ハーバード大学政治学部で博士論文を書きながら、秋にはハーバードの法学部にはいることを考えていた時期だった。2年後、法学部2年、大学院3年に在籍中で、猛勉強に追われていた彼に、また腰痛が起こった。そのときは、ウエイトトレーニソグのやりすぎだという自覚があった。痛みは耐えがたく、右脚にまでひろがってきたので、整形外科に助けをもとめた。CTスキャンで、腰椎下部の椎間板ヘルニアがみつかった。医師はイソドメタシン(イソドシン)という、強力な抗炎症剤を処方した。それでも痛みは数か月残っていた。最初の医師から別の整形外科医にセカソドオピニオソをもとめるようにすすめられ、二番目の医師からは「あと1か月で改善がみられなかったら手術しかない」といわれた。腰痛は一か月以内に消え、イソドシンを手放せるようになった。一連の経験で、彼はすっかり萎縮していた。「バスケットボールもウエイトマシーンのオーバーヘッドブレスもやめました。すっかり用心深くなってしまって」

それから数年は、腰痛も小康状態をたもっていた。「またバスケットボールやラケットボール、それにウエイトリフティソグもはじめたんですが、そのあとで軽い腰痛が起こりました」と彼は回想する。「たいがいは2、3日、せいぜい1週間つづくだけでしたが」1986年に結婚し、2年後に父親になった。わたしが彼と知り合ったのは、そのころのことだった。当時、彼はプリンストン大学助教授として精力的に活動し、ストレスの多い学究生活を送っていた。

1991年6月、ヨーロッパ出張から帰ったイーサンは腰に「ちょっとした」異常を感じた。だが、痛みはひろがり、夏のあいだに激しさをましていった。八月の末、バスケットボールの試合を終えた直後に、痛みは「最悪の状態に」たって、消えようとはしなかった。1週間後の9月初旬、いよいよ耐えられなくなり、マッサージや指圧を受けはじめた。マッサージ療法家のひとりから、治療のあとに具合が悪くなるかもしれないといわれたが、そのとおりになった。2、3日後、彼にしては珍しく早朝に目が覚めると、なんともいえない不安を感じた。少し外にでて歩き、家に帰ったときには寒けを感じ、熱が四〇度近くになっていた。翌朝、熱はさがり、腰痛も消えたが、こんどは右の坐骨神経痛がはじまった。またマッサージ療法を受けに行った。

そのころ、彼は麻薬政策改革にかんする3日間の重要な特別会議の議長をつとめていた。会議のメンバーの一員だったわたしは、イーサンのつらそうた姿をみてこころを傷めた。会議の2日目、彼は右ふくらはぎの痛みで目が覚めた。痛みはひろがりつづけていた。「夜中にも痛みで目が覚めるんですが、気がつくと涙がでてるんですよ」イーサンはいった。会議を終えるとすぐに病院に行き、デメロールの注射を打った。鎮痛効果は一晩しかもたなかった。

マッサージ療法も効果が持続しなくなったので、整形外科に行って、レントゲソ検査とMRI検査をした。そのときは、もうひとりでは立てなくなっていた。MRI検査ではふたつの椎間板にヘルニアが発見され、そのひとつは「ぐしゃとつぶれ、細かい破片になって」いた。整形外科医からは手術を急ぐべきだといわれ、麻薬系の経口鎮痛剤と精神安定剤を処方された。

電話でわたしにアドバイスをもとめてきたイーサンは、激しい痛みと麻薬と安定剤の複合作用で、まともな会話ができるような状態ではたかった。のちに彼自身も、そのときのことはよく覚えていたいというほど意識が混濁していたのだ。わたしは手術を承諾する前にセカンドオピニオンをもとめるべきだといい、ジョソ・サーノ博士が書いた『腰痛を癒す』を読むことをすすめた。サーノはニューヨークの医師で、「筋肉への血液供給と神経の正常なはたらきをこころのはたらきが邪魔して生じる、TMSー緊張性筋炎症候群ーと呼ばれる状態が大半の腰痛をひき起こしている」という仮説を裏づげる有力な証拠をあげている人だ。薬物によってろれつもまわらたかったイーサンは、腰痛が心身相関だなどという話はこれ以上聞きたくないと拒絶した。

しばらくして、またイーサンから電話がかかってきた。セカンドオピニオンを得たが、すぐに手術でヘルニアを切除して神経圧迫をとり除くべきだという、最初の医師と同じ判断だったらしい。イーサンの一方的な話しぶりには、とりつくしまもたかった。このままでは耐えられないので2、3日中には手術を受けるつもりだというのだ。わたしは待てといった。そして、鐵かヒプノ療法で一時的に痛みを止めて、サーノ博士との面会の予約をとるようにすすめた。

*******************

http://www.tvk.ne.jp/~junkamo/new_page_8.htm

*******************

1ヶ月後、イーサンはなんの心配もなく、ウェイトトレーニソグとバスケツトポールの練習を開始した。さらに1ヶ月後、「長年の悩みがふっ切れたような気がして」元気をとりもどし、体調も腰痛発症以前にましてよくなった。一年後、離婚が成立し、それでよかったのだと思えるようにたった。「腰痛とそれ、が治ったという経験が、離婚へのはずみになったんですね」と彼はいう。

医師をしているイーサンの兄は、治癒にたいする弟の解釈を認めなかった。「兄はコーチゾンの注射が効いたんだというんです。しかし、ぼくの知識では、コーチゾンの持続効果は3か月から長くて半年だというのに、あれからもう3年もたってるんですよ。運動のしすぎで、ときどき筋肉がこることはあっても、痛みは起こりませんからね。あるとき、わき腹が痛くなって、潰瘍かもしれないと思ったことがありました。そのときも、からだの痛みをひき起こしているのはぼくのこころだと思うことにしたんです。そう思ったとたん、痛みが消えました。あれから、サーノのやりかたで腰痛が治ったという人にたくさん会いました。じつにいろんなタイプの人たちです。サーノは科学者と信仰治療家を兼ねた人なんですね。彼の理論には説得力がありますし、直観的にもほんものだという感じがするんです。外科的な解決法はあまり信用できません。手術を受けてから数年後に再発した人をたくさんみてきましたからね」

わたしはイーサンに、腰痛に悩む人へのアドバイスをもとめた。「サーノの本を読んで、直観による判断を信じることです」が答えだった。「ほかの治療法をいろいろ試してみて絶望するか、ぽくのように、ナイフをつきつけられるかしないと、理論は素直に受けいれられないというのが人間みたいですね」

加茂整形外科医院