医療の新しい基本的理念

[知っておくべき新しい診療理念]より

日本医師会雑誌第133巻・第3号平成17年2月1日発行[付録]


 U 医療の新しい基本的理念

  1. 患者の安全

  2. セカンドオピニオン

  3. EBM

  4. 診療ガイドライン

  5. 臨床決断分析

  6. NBM

  7. PUS

  8. スピリチュアリティ

6.NBM

T 定義

医師と患者の間にあるものは「言葉」が主役を演ずる「対話」である。病気とは,患者を主人公として患者本人によって語られる「物語」である。病気の経験も医師の説明も「言葉」で語られる。検査の結果や治療の効果も「言葉」によって理解される。どんなに高度先進医療が導入されても、どんなにEBM (evidence based medicine)が普及してもそうであり、医療において「言葉」「対話」「物語」の重要性は色褪せることはない。いや、われわれ医師は今以上に「言葉」「対話」「物語」に配慮する必要があるだろう。

現在のところ、NBM (narrative based medicine)に確固たる定義があるわけではなく、このようなnarratiVe(言葉・対話・物語)を重視する医療のアプローチがNBMと呼ばれ、診療や研究での方法論が模索されている段階である。

7.PUS

T PUSとは

PUS (public understanding of science;一般市民の科学理解)とは、現代科学論の領域で近年注目されている概念であり、一般の市民が科学の専門知識を理解し、科学技術政策などの意思決定に参画するという知的な活動を意味している。

第二次世界大戦後、米国では科学ジャーナリズムを通じて一般市民への科学技術の啓蒙が盛んに行われた。また、遺伝子学者Walter Bodmerによる1985年の報告書(Bodmer Report)を刊行した英国学士院や全米科学財団(NSF; National Science Foundation)は、一般市民に対して科学技術研究への予算の重点的配分についての了解を求め,科学技術振興による経済成長を企図し、さまざまな科学リテラシー教育や啓蒙・普及活動を精力的に推進した(「トップダウン式」「啓蒙主義的」PUS)。一方、住民運動などの領域では,住民自身が専門家と協力し科学的知識を得て、公共政策にインパクトを与えている(「ボトムアップ式」「社会学的」PUS)。

8.スピリチュアリティ

中根允文(長崎国際大学人間社会学部教授)田崎美弥子(東京理科大学 理学部教養助教授)

表1 WHO QOL/SRPB 最終版における下位項目

絶対的な存在とのつながりと力
人生の意味
畏敬の念
統合性・一体感
スピリチュアルな強さ
心の平安・安寧・和
希望・楽観主義
信仰

T 定義

医療においてスピリチュアリテイ(spirituality)が話題とされるのは、末期癌やHIV/AIDS感染症の患者に対してであったが、ここ数年では、より広範な疾患患者の治療過程において重要な側面として考えられている。ただ、この用語そのものがいかに翻訳されるか、あるいはどのように認識・理解されていくかはいまだ大きな問題が残っている。霊性、霊魂、魂、精神性といった訳語が想定はされるが、霊とつくだけで、非科学的であると反応する医療関係者は多いかもしれない。英語でmindは思考・判断・知覚・感情・意思などの働きをする知的な精神活動を指し、heartは文字どおり感情の中心としてのこころや気持ち、そしてspirit(ラテン語のspiritusを語源)は生気や魂と区別されており(そうした用語からは,soulとの区別が困難)、その意味でspiritualityは宗教的な
崇高さや霊性を意味する。おそらく日本語としては鈴木大拙の用いた「霊性」が欧米のspiritualityに近いものと思われるが、霊性からは日本ではお化けの霊魂といった感覚をもつ人
が多いかもしれない。そこで,山口や葛西は宗教や宗教的慣習から独立した「普遍的本質」としてのスピリチュアリティの用法を論じている。

世界保健機関(WHO)は、スピリチュアリティの定義を概念的に明確化するために、1998年からWHO Quality of Life (QOL)のSpirituality Religiousness and Personal Be1iefs(SRPB)調査票を開発するべく、さまざまに異なる文化圏のなかで適用可能なスピリチュアリティの概念構成に関する国際調査研究を開始した。世界5大陸をカバーした18か国での2年に及ぶ質的調査・量的調査の結果、2002年にWHO QOL/SRPB調査票は表1に示す8つの下位項目で構成されることが明らかになった。同調査票は,その8下位項目におのおの4つの質問が含まれ、合わせて32項の質問から構成されている。

U 背景

スピリチュアリティが注目されるようになったのは、2000年のWHO総会を前に、従来の健康の定義である「身体的・心理的・社会的な良好状態」に加えて、spiritualな良好状態を伴う、よりダイナミックな状態に改定しようとした経緯による。

この提案は、1983年に国連の小委員会で議題とされて以来の懸案事項で、基本的にキリスト教、イスラム教、ユダヤ教といった一神教を信仰する欧米や中東諸国、そしてシャーマニズ
ムがまだ息づくアフリカ諸国では,スピリチュアリティは日常生活のうえで人々の健康に多大
な影響を及ぼすと考えられている。

一般的な欧米の社会において、デカルト心身二元論以降、身体と精神を切り離し、意識の対
象としての身体を捉えることで科学や医療の発展があったといえるが、その反面、一神教が文化の根底にあることで、魂の存在も常に意識されていたことと、科学の発展の副産物としてもたらされた環境破壊や、さまざまな社会問題に対する反省と自然回帰に伴い、従来の宗教には縛られない新しい自然と共生する人間存在のあり方を模索し始めたことが機運となっていたのではないだろうか。特に、北米では相補医療あるいは代替医療への関心が高まり、心身両面からの全人的アプローチが盛んになったことも要因として考えられる。また、若い世代には、自分自身は「宗教的でもスピリチュアルでもない」と宗教とスピリチュアリティを区分して考える傾向が強くなったことも影響していると思われる。

しかし、現実の医療場面においてスピリチュアリティが重要視されるのは、末期癌患者や
HIV/AIDS感染症患者であった。癌患者などの疼痛を単に肉体的な深い要素としてのみ捉え
るのでなく、恐怖・不安・抑うつ・絶望などの心理的痛み、親密な人間関係の解体という社会
的痛み、そして孤立・失望・破壊・混乱・死の不安など情緒的危機を伴う実存的なスピリチュ
アル的痛みを含むとする「総体的な痛み」の理解に変わってきた。

一方、初期のHIV/AIDS感染症患者にとって、社会的差別やそれによってもたらされる孤立や孤独ななかでの死を受容するためにスピリチュアルな側面での救済が必要であった。さらに、医療の究極の目的が生存率の延長から、より高いQOLを維持した生存期間の延長であり、医療の場において人の尊厳を求める全人的ケアヘと変化したことによるのではないかと思われる。

V 海外での趨勢と日本の現状

スピリチュアリティの側面がさまざまな疾患患者に及ぼす影響に関する諸外国での研究は2003年の時点で、Pub Medデータベース検索によると1,000件を超えており、医学・看護学教育現場でもspiritual careがカリキュラムに採用されてきている。

日本においては、理念的な研究はあるが、いまだ数は限られている。数字的には全国民の総数より多い宗教加入者がいるとされる一方、7割が特定の宗教をもたないと考えている日本人にとって、日常的に、あるいは盆に先祖の霊を弔うことに違和感はないものの、宗教的な色合いの濃いスピリチュアリティは生理的に理解できないように思う。先の質的調査のなかで当初18項目が問われたとき、日本人のスピリチュアリティ概念において最も重要な項目は、「心の平安を保つこと」「内的な強さ」「他者に愛着をもつこと」であり、「特定の宗教をもつこと」や「宗教儀礼をすること」は下位2項であった。しかし、日本のホスピス活動においても、スピリチュアリティは重視され、多くのホスピス・プログラムではさまざまな宗教家の介入活動を認めている。

W 今後の診療に与える影響

日本において,これから急速に臨床場面に大きな変革をもたらすとは予測しがたいが、欧米でのヘルスケアにおける心身両面からの包括的医療法は、従来の高度なテクノロジーを強調する西洋医学の流れとは異なるアプローチとして今後急速に成長することが予測されるので、スピリチュアルな側面でのケアも同様に高い関心を集めるであろう。

文献:

1)鈴木大拙:日本的霊性.岩波書店,東京,1972.

2)山口昌哉:「霊性」ととりくみはじめたWHO.季刊仏教1998;45:190-198.

3)葛西賢太:WH0が“spirituali1y"概念の標準化を求めた経緯について.国際宗教研究所ニュースレター2003;No.38:1.

4)World Health Organization: WHO QOL and Spirituality, Religiousness andPersona1Beliefs(SRPB).Report on WHO Consultation, WH0/MSSA/98.2,WHO,Geneva,1998.

5)World Health Organization: Fifty-Second World Health Assembly,A52/24, Provisional Agenda Item16,"Amendments to the Constitution," report by the Secretariat, Apri17.1999.

6)Wooton JC, 津谷喜一郎:オルタナティブ医学米国の動向.からだの科学1997;195:15-20.

7)Princeton Religion Research Center: American remains vely religious, but not necessarily in conventional ways. Emerging Trends 2000;22:1.

8) Gregory SR : Growth at the edges of medical education : spirituality in American medical education. Pharos Alpha Omega Alpha Honor Med Soc 2003 Spring ; 66 (2) : 14-19. 

9)藤井美和:病む人のクオリティオブライフとスピリチュアリティ.関西学院大学社会学部紀要2000;85:33-42.

10)田崎美弥子,松田正己,中根允文:スピリチュアリティに関する質的調査の試み一健康およびQOLの概念のからみの中で一.日本医事新報2001;4036:24-32.

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