「精神療法」より

中野完 野添新一(鹿児島大学・行動医学講座)

Pain Clinic 2003.12  Vol.24 No.12


慢性疼痛の心理社会的因子

当科における慢性疼痛患者の心理社会的因子を検討した。平成12年1月から平成13年10月までの22ヵ月間に当科外来を2回以上受診した患者72名(男性34名,女性38名,平均年齢48.5歳)を対象に,CMI,心理社会的因子(家族・家庭内問題,家族以外の対人関係問題,学校・職場の問題,社会的支援,経済的問題)を調査した。

CMI(65名施行)ではI・II領域の健常レベルが21名(32.3%)にみられた.心理社会的因子の有無については”あり”64名(88.8%),”なし”8名(11.2%)であった。”あり”64名のうち,学校・職場の問題30名,家族・家庭内問題29名,経済的問題14名,社会的支援なし8名,家族以外の対人関係6名であった。

このように慢性疼痛の64名(88.8%)に心理・社会的要因が明らかにできた。しかし,8名(11.2%)は不明のままであり,これは,心身相関の気づきのない例や心理社会的因子への介入を拒否する例の存在を示している。心理社会的要因が,慢性疼痛患者の準備状態,発症・強化・持続のどの段階に,どの程度かかわっているかを症例ごとに詳細に検討することが治療において重要になってくる。

慢性疼痛の精神療法

Freudは彼の「ヒステリー研究」の中で,痛みはヒステリーの主要症状の一つであり,不快感情は抑圧過程を通して身体痛に転換されると述べ,また「悲哀とメランコリー」では,痛みと悲哀は対象と分離したことへの感情反応であると述べた。

Engeは,難治性の痛みを訴える者の中には疼痛を心理的な調節機構として利用する一群の患者(painprone patient:痛がりな患者)が存在し,彼らは以下のような特徴を示すと述べた。

@強い罪悪感を抱いた時に疼痛を償いの方法として利用する。

A成功に耐えられないマゾヒスティックな人格構造があり,外傷や手術を通して疼痛を追い求める。

B強い攻撃的衡動が満たされないと代わりに疼痛が体験される。

C対象関係が脅威にさらされたり,喪失された時に代償として疼痛が出現する。


さらに長沼は,表1に示す『痛みに生きる人(person alive in pain)』という概念を掲げている。彼はその概念を,「長年にわたって痛みを訴え続け,その間あらゆる身体的治療に抵抗し,最終的には精神療法的接近も受け入れず,決して消失することのない痛みに苦しむ人々」と定義している。

このように慢性疼痛患者の心理的側面をみていくと,深刻で複雑な心理社会的因子が関与しており,身体的アプローチ単独では反応するはずもなく,極めて解決困難であることが明確になってくる。

しかし,言語的アプローチだけではなかなか成果が上がらないことも多く経験する。丸田はその原因として,慢性疼痛患者では,@精神療法で洞察を得るような心理的志向性がなく心理的葛藤を患者と共有するのが困難である,A社会的・経済的・家族的問題を合併していることが多く,患者だけの問題として処理できない,B基底に何らかの器質的疾患が存在していることが多く,全面的に心理問題として対処しても十分ではない,などを挙げている。

しかし,精神療法を全面的に否定するものではない。慢性疼痛患者はそれまで,ドクターショッピングを繰り返し,抑うつ感や無力感にさいなまれ,あるいは医療に対する不信感を抱き攻撃的になっている者が多い。そういう患者に対して,治療者は受容的態度で暖かく受け入れ,あなたのことを見捨てることはないという姿勢を示しながら,まずは患者の訴えを傾聴していくことが重要である。もし痛みが身体言語として作用しているならば,患者の抑圧された感情や苦悩を共感的に理解し解き放つことで,症状が軽快する例もある。このような受容・共感的態度で,傾聴を繰り返すことにより良好な医師ー患者関係が自然と構築されると,その患者の内部に存在する問題点を一緒に探る共同作業がより行いやすくなる.Wolbergによる精神療法の定義を一部修正して示すと,「精神療法とは,不適応現象などの情緒的問題を持つ人々に対して,訓練を受けた専門家が,患者との間に一定の特殊な関係を結び,その働きかけを通して,現存する症状や障害を除去したり,変容緩和するのみならず,さらにはその人格の発展や成長を促すことを目的とする営みである」という。

池見は『続・心療内科』の中で,「(患者が)『自分にも責任がある』という自覚に達してこそ,長きにわたる難病からの解放への道が開かれるのである」と記している。慢性疼痛患者においても,器質的要因とともに存在する,自己の心理的な問題に対して,そこにある心身相関への気づきを促し,また患者の成長を促すようなアプローチが必要となろう.長年,痛みにとらわれ続けている患者にとって,これは困難なことかもしれないが,自己の心理的な問題に直面させることが重要といえる。

Balintは,問題の所在を身体・心理・社会・倫理の各視点に求めるだけでなく,治療者-患者関係,または治療者側にまで求めることにより,患者白ら全人的自己理解を深め,自ら問題解決に至るように導くような,治療者側の姿勢について述べている。彼はこの姿勢を『医師という薬(doctor as a medicine)』と述べた.Watkinsは,このような医師の態度を『治療的自己(therapeutic self)』と呼んだ。慢性疼痛を扱う治療者は,この『治療的自我』を磨き上げ,『治療者という薬』を最大限に生かしながら患者と接していくべきである。それらを通して,治療者は医師としての人間性を発展させることにもなり,患者とともに成長できるのではないだろうか。

表1『痛みに生きる人』

  1. 彼らは幼少時における両親との不幸で歪んだ交流の中で,真に甘え,かまわれた経験がない。また両親の離婚や死別などによる交流の断絶を経験していることもある。
  2. 痛みの発生状況は,身近な愛の対象者から拒絶される不安,もしくは現に拒絶された抑うつに端を発している.痛みは自分を拾てた人への恨みと攻撃感情の象徴であるが,それでもなおその人を求める絶望的願いでもある。
  3. 彼らは自分の愛を拒絶した人への両価的な恨みや憎しみの攻撃感情が強く,それを周囲の対人関係にも示し,より攻撃的,抗争的になるため孤立化していき,痛みのみに生きざるを得ない状況を作り上げてしまう。
  4. その中で彼らは,自己の生存の理由と社会的役割を証明する最後の手段として痛みに固執していく。そしてその痛みは身体的,器質的痛みでなければならず,慢性の自己評価の低下した現実状況の中で,誇り高く痛む人の役割を担い,理想自我の満足を得ている。もはや彼らの痛みは生きていく上で必要不可欠なものとなっている。
  5. かくして彼らの“恨みの構造"はもはやかまわれることを受け付けないほどに強固なものになっており,治療者の態度にも強い攻撃性を向けはじめ,解消に向かうことは甚だ困難である。

加茂整形外科医院