痛み自己増殖する・慢性痛が増幅し過敏に/術前の予防鎮痛に応用


最近の生物・医学領域でよく用いられている可塑性という言葉がある。元来は物理学で使われ、固体に強いカを加えた時、力を取り去っても歪みが残る性質を示す言葉である。ちなみに、記憶も脳における可塑的変化と言うことが出来る。

痛みが可塑的に残る

痛み研究の領域では、最近、慢性痛のメカニズムの研究から「可塑的」という言葉が使われるようになった。すなわち、慢性痛もからだのどこかに可塑的変化が起こったのではないかという想定である。痛みの刺激が長時間続くと、繰り返し繰り返しその信号が中枢に伝えられることによって、入力が増幅されるような回路ができ上がると考えられる。いわば痛みの自己増殖回路のようなものである。慢性痛は、その自己増殖回路が中枢を含めた神経系にできて、侵害刺激がストップしても、この増幅された変化が可塑的に残った状態であると想定される。前に述べたように、痛覚系は神経系の中で発生的に古く、原始的な系である。それゆえに、未分化で何にでも変わり得る自由度の大きいこの原始性が、痛覚系のもつ高い可塑性を作っている。

脊髄内で活動亢進

痛みの自己増殖回路が形成されることを示した動物実験がある。動物の末梢へ持続的に侵害刺激を加え、炎症を起こさせる。その結果生じた炎症物質によって痛覚受容器の活動が高まり、その入力を受ける脊髄内の侵害受容ニューロン(神経細胞)の活動が亢進する。この状態で騒初に刺激を加えた末梢からの入力を、局所麻酔薬を使ってブロックしても、なお脊髄内の侵害受容ニューロン活動の亢進が持続する。これは痛覚過敏状態が、末梢だけでなく脊髄にも生じることを示唆している。脊髄内での痛覚過敏状態のメカニズムについても実験的研究がある。末梢からの痛み刺激の入力は伝達物質を介して脊髄内ニューロンに働き、その膜にあるイオンチャネル(細胞膜にあるイオンの通り道)を開き、興奮を引き起こす。持続的な刺激が伝わると、通常では働かない種類のイオンチャネルもロックを外してそのゲートを開く。そのために、イオンが流入し、痛み増強物質をつくる細胞内酵素系の活性化を起こす。これらの痛み増強物質は細胞外に遊離されて、広範囲の痛覚系ニューロンの活動を促す。脳における記憶の場といわれている海馬(かいば=大脳の部位)の働きにおいても、このタイプのチャネルが関与していることが知られており、脊髄で見られたこれら一連の現象を、痛覚系における記憶現象と呼んでもよいかもしれない。末梢へ侵害刺激が続けて加わると、脊髄内のニューロンにおいて、ある種の遺伝子の活性が噌加することも明らかになった。この遺伝子は、最初はがん遺伝子として見つけられたものであるが、もっと一般的に、タンパク合成の初期過程の促進因子として働くことがわかってきたので、おそらく侵害受容に関与する伝達物質、修飾物質、およびそれらの受容体の増加に働くと考えられている。このように痛み刺激が持続的に加わると痛みは自己増殖的に増殖し、痛覚系に過敏状態を作りあげ、痛覚系回路のどこかに可塑的な変化が起きると考えられる。臨床手術例でも、あらかじめ術前に硬膜外鎮痛(脊髄の周囲に薬剤を注人する鎮痛法)を施した群と、同じ鎮痛法を手術開始後に施した群とに分けて術後痛を比較すると、術前投与群の方が有意に少ないという報告がある。

切断部位に幻肢痛

また、手や足の切断手術を受けた患者で、切断されて存在しないはずの部位が痛む幻肢痛とよばれる不思議な痛みが生じることがあるが、この幻肢痛の出現率は、切断前三日間にわたり硬膜外鎖痛をした群では低いという報告もある。このように術前に鎮痛を施すことを予防的鎖痛というが、予防的鎮痛が有効であるということは、末梢からの侵害性の入力が、脊髄内で痛覚系の可塑的な促進状態を作ることを意味しており、不必要な痛みを放置することが、いかに難治性の痛みを作っているかを示している。

加茂整形外科医院