Rheumatoid Arthritis(関節リウマチ)

 リウマチ・・・私の場合part1 2001/02/01記

1973年2月〜(14歳)疲労感・消耗感があった。朝、手がこわばり、しっかり握れないが、学校へ行ってる間に治るので、そのままにしておく。
4月初め、両手首の痛みと左膝が腫れたため、受診。「多発性慢性関節リウマチ」と診断される。この時点で、血沈>20、RA+。
膝の水を抜き、ステロイドを注入。鎮痛消炎剤と胃腸薬服用。この頃は「リウマチ」に対して知識が無く、飲んでる薬や検査結果にも無頓着だった。
水のたまった左膝は曲がらないので右足だけで自転車を片足こぎして病院へ行き、水を抜いて貰うと普通に乗って帰ってきていた。

4月末、学校の修学旅行があった。主治医に行っても良いかと尋ねると、良いと言ったので、3泊4日の旅行に出かけた。
3日めから身体じゅうの関節が痛み出した。4日めは、半泣き状態だった。
母はこの件で、「なんであの時主治医が旅行を止めてくれなかったのか」と、何度も愚痴ったが、今から思えば、これが生涯唯一の「修学旅行」である。
これをきっかけに転院した。

学校生活は、拷問にも近かった。親にカバンを運んでもらうが、教室は4階である。72段の階段。和式のトイレしかないので、なるべく我慢した。
中学3年で試験がしばしばあるが、鉛筆をしっかり握れない。けしごむで消すときは、紙を手で押さえつけられないので、あごで押さえた。
自分が情け無くて、解答用紙の上にポタポタ涙が落ちた。
何よりもつらかったのは、友だちの話の輪に入っていけないこと。この頃は、抱きついたり、どついたりしながらおしゃべりする年頃だ。
手を握られただけで、激痛に顔がゆがむ。自然と友だちの輪から遠いところに自分を置くようになる。

6月4日〜、入院した。両手首・指のMIPの変形がはじまる。ステロイド・鎮痛消炎剤を服用。金療法(シオゾール)を1クール。
ホットパック・バイブラバス・パラフィン浴・温泉。病院には内緒で漢方薬や針を試す。病状は一進一退。
一学期が終わる頃、留年を決める。この頃、「リウマチ友の会」に入会する。しかしまわりは大人ばかりで、子供は私だけ。
リウマチの子なんてテッキリ自分一人だと思った。家族も一人娘の病気に、希望を無くしていた。
1974年4月〜、普通の学校へ行くには無理があったので、学校を併設した病院に転院した。(今この病院の存続が危ぶまれている・・・!)
ここでは「若年性関節リウマチ」と診断名が付いた。それで、あまり強い薬を使わず、安静を保つことをいわれた。
膝の尖刺の後にはステロイドの注入があるが、服用はサルチル散・ビタミンC・胃腸薬。金療法(ロモゾール)は1クール後も二週に一度のペースで続ける。
ベッドの上だけど、久しぶりに受ける授業。私と同じ歳の子もいた!みんなそれぞれ自分の病気と付き合ってる。精神的にホッとした。
80ミリを越えていた血沈が、秋には20ミリ以下まで回復した。

1975年3月、病院から公立高校を受験した。テッキリ落ちたと思ったのに合格した。みんながお祝いを言ってくれた。
ただ同じ病院に入院していたリウマチの人が、「あの高校はがんばりやさんが行くとこだから、みんなにつられて頑張り過ぎなさんなよ。」と言った。
入院中に、家のトイレを改造して貰った。母は、病院に見舞うために車の免許を取った。

4月から晴れて高校一年生。入学式の次の日、かつて同級生で、上級生となった友だち数人が私のクラスに会いに来てくれた。
ひとしきり話をして、私のまだ結び慣れないネクタイを手慣れた手つきで直し、私の知らない先生の話をしながら帰っていった。
「一年違い」が身にしみた瞬間だった。私は、この高校生時代、友達作りが上手く出来なくなっていた。
お弁当をそそくさと食べると昼休みは、図書館で中学の時の親友と過ごした。彼女が図書館に来ない日も、ひとり図書館で過ごした。
図書館は渡り廊下を隔てて教室から遠かったが、その一階に学校でただ一つ「洋式トイレ」があった。

欠席する授業を減らすため、みんなが解放される、楽しい行事は通院のために休まなければならなかった。
担任は親戚で、自分の母親もリウマチだったので、色々気にかけてくれたが、1学期が終わる頃でもまだクラスメートを覚えきっていなかった。

それでも1年は終え、2年になった。晴れの日は自転車(家が近いので特別に許可を貰った)で、雨の日は母の車で通っていたが、車の日は憂鬱だった。
下校時、部活に行く人達の群や、仲良くペアで帰宅する人を、ボーッと校門の前で車を待ちながら眺めていた。5分が30分に思える時間だった。
夏休み、車の免許を取りにいった。なるべく母の手を煩わせたくないと言えば孝行娘だが、親の干渉を逃れたいのが本音だ。
免許を取った後、初めてひとりで片道40分の病院まで通院した日、久しぶりの開放感を味わった。血沈が30ミリを越えていたのが気になったけど・・・。

秋風が冷たくなる頃、またあの覚えのある痛みが身体中に出てきた。英語の辞書が重くて、持てない。12月、後もう少しで2学期が終わる頃、入院した。
座薬を入れても、ちっとも効いた気がしなかった。しかし、トイレをベッドでしようか、という看護婦さんの言葉をふりきり、脂汗流してトイレに行った。
ここで気を抜くと、寝たきりになってしまうのではないか、という不安の方が大きかった。

1977年、3月、高校中退を決める。出席日数や単位が足りないが、2年を終了したことにしてもらえた。

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ここで、一般に言う「学校生活」はピリオドを打った。
学校生活を全うできなかったコンプレックスで、私はその後色々な「学校もどき」をかじり歩くことになった。

今、子供達がこの高校に通っている。「洋式トイレ」が普通のトイレに併設されている。これが私の時代にあればストレス半分だったのにと思う。
また、距離に関係なく全員自転車通学しても良い。自家用車で送り迎えしてもらってる子もたくさんいる。
海外に留学していたために、一年遅れてる子もチラホラいる。海外からの留学生もいる。
「留年」と「留学」は一字違いで、実際は大きな差だけど、私の時代に「特別」だったことが、今はさほど「特別」ではない。
また、重い辞書でなく、軽い電子辞書もある。インターネットで、周りにはいなくても、自分と同じような立場の人を探すことが出来る。

学校生活は辛いことの方が多かったけれど、先生方も同級生も、こちらが忘れてるのに私のことを覚えてくれてる人が多い。
昨年、高校の時、名簿順で隣だった人が亡くなった。
子供の中学で働いていて、学校で再会したとき、彼女の方から私に「元気そうね。」と声をかけてくれたのに・・・。
中学の同級生にも、亡くなった人がいる。みんなあの頃はキャピキャピして、私にはまぶしかった人達である。
自分がヨロヨロしながらも生きながらえていることに、生きて何か責任を果たすことが残っているんだと思う。

 リウマチ・・・私の場合part2 につづく

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