富山県呉西地方の謡曲古跡

bP 田子藤波神社 〔氷見市下田子〕

 富山県高岡市から氷見に続く国道百六十号線に入り、六キロ十分くらい、坂を越えて氷見に入り坂を下りきると、左の小さい丘に藤波神社があります。氷見市下田子です。
 藤の花の妖精が、美しい女性の姿で現れて、舞う能。ここが
謡曲「藤」の舞台になっている所です。社殿に登る石段の傍らに万葉に詠まれた藤の老樹があります。境内に「藤波の 影なる海の 底清み 沈着(シヅ)く石をも 珠とぞ吾が見る」の家持の万葉歌碑があります。越中国司として五年間高岡に居た大伴家持の書いたものによると、当時はここは海の入江だったのです。藤は白の山藤で、謡曲の「松にかかれ」るではなくて老杉に懸かっています。藤も老木の故に、めったに花を着ける事が無いようですが、開くときは二メートルもの房を着けるそうです.藤の世話していてこんな話をしてくれた、謡曲好きの氷見の「本川藤由」さんも若くしてガンで亡くなりました。残念です。写真・階段の左が藤の木の幹。後ろにもあります。右は老杉。 


bQ 埴生八幡宮 〔小矢部市埴生〕




 国道八号線で石川富山の県境の倶利伽羅トンネルを抜けると
小矢部市石動に入ります。すぐ陸橋を渡って小矢部インターへ出る道を行くと、五分で「埴生」という村にでます。高速小矢部インターからだと、インターを出て左へ曲がり小矢部市の方へ一直線。突き当たりが埴生の村です。
 この村の真中に八幡宮があり「護国八幡宮」とも言われています。戦勝を祈って神に願書を捧げる、
謡曲「木曾」の舞台となっているのがここです。写真は本殿。




寿永二年五月、利伽羅峠で平惟盛との合戦前に、木曾義仲はこの神社に願書をあげ戦勝を祈願しました。以来武将の崇敬厚く今の社殿は前田氏の寄進で重要文化財です。宝物殿があり願書などが見せてもらえます。後ろの山が源平の古戦場で、ドライブウエイが通じています。巴塚・葵塚などあり惟盛本陣跡の猿ガ馬場に
「義仲の 寝覚の山や 月かなし」の芭蕉の句碑があります。八重桜の名所です。宝生流では残念ながら能は廃曲になり謡曲「願書」だけが三読物として残っています。写真は境内の義仲の騎馬像です。


bR 俊寛塚 〔小矢部市宮島緑の村〕


 とも綱にすがりつく俊寛、船頭は綱を切って出て行きます。独り孤島に残される俊寛。謡曲「俊寛」の舞台となっているのは 鬼界ガ島であり、現在の鹿児島県の硫黄島であると言われています。康頼、成経は赦免され、俊寛は三十七才でこの島で亡くなったと伝えられています。








 ところがなんと俊寛の古跡が、
富山県の小矢部市宮島峡にあります。この地の伝えでは、
流罪の執行にあたったのが成経の義父の前越中国司・平盛俊で、俊寛を鬼界ヶ島でなく、自領のここに流したというのです。国道八号線の石川・富山の県境の倶利伽羅トンネルを抜け、新しい源平トンネルを抜けて峠を下ると、左に宮島峡に入る道があります。別所の観音滝のそばに、観音堂と俊寛お手植えの杉があり、滝は康頼が打たれて観音に祈念しおかげで赦免になったといいます。俊寛はこの地で亡くなり、宮島峡をどんどん上り詰めたところにある〔宮島緑の村〕の、傍にある俊寛塚がその墓だと言われています。

 配流中の俊寛が、尋ねてきた妻と娘に出会ったという伝説のある、出合橋も近くにありますが、ただのコンクリートの橋です。


bS 俊寛杉と観音滝 〔小矢部市宮島別所滝〕



 国道八号線から宮島峡・宮島温泉の方へ入っていくと、五キロぐらいで洋館建の宮島公民館に出ます。ここが
別所滝という村です。ここから橋を渡ってまっすぐ行けば別所滝〔別名・観音滝〕に出ます。またはもう一つ先の、高坂村の橋を渡って少し戻っても滝に行けます。小さな滝ですが「那智の滝」に似ているところから、平康頼が滝に打たれて観音に祈ったので赦免されたのだそうです。傍らの観音堂には、康頼の守り本尊の観音像が納められているそうです。写真の大杉は、謡曲「俊寛」の俊寛お手植えの杉の木だとの事です。向こうに滝が見えます。。


bT 巴御前の塚 〔小矢部市倶利伽羅峠〕

 巴御前の亡霊が、木曾義仲の悲痛な死と、慕情のせつなさを語る、謡曲「巴」の舞台となっているのは、琵琶湖大津近くの粟津ガ原です。謡曲「兼平」とおなじ舞台で、兼平の墓が残っています。木曾義仲はここで自害し、今井兼平もここで戦死します。義仲の墓は大津の〔義仲寺〕にあります。巴は義仲の愛妾で兼平の妹です。
 謡曲では木曾へ落ちて行くので終わっていますが、巴はやがて和田義盛と再婚して豪勇を誇った朝比奈三郎義秀を生みます。やがて朝比奈滅亡、未亡人となった巴は越中の福光城主石黒光弘に寄食します。石黒氏は倶利伽羅合戦において共に平家を攻めた親しい仲でした。巴は剃髪して尼となり慧生と号し、九十一才で亡くなります。



 石黒氏が倶利伽羅山中に、先の合戦の時死んだ妹の葵御前とともに
「巴葵寺」を建てて菩提を弔ったのが、ここ〔巴塚〕上の写真、であると言いいます。すぐ近くに〔葵塚〕下の写真、もあります。
 場所は倶利伽羅峠より源平ラインを、平家本陣猿ヶ馬場を通り、源氏本陣源氏ヶ峰を巻いて下って行くと、左手にあります。道より三百メートルも入った雑木林の中です


bU 巴塚の一本松 〔福光町天神町〕


 謡
「巴」の巴御前は、越中福光の石黒光弘に身を寄せて余生を過ごしましたが、その福光にも〔巴塚〕があります。福光駅前大通りを直進し、小矢部川を渡り東町交差点を左折し、信号を二つ過ぎると道は右の方へ曲がり少し細くなります。その先に道の左に大きな松があり、「巴塚」の碑があります。ここは巴が九十一才亡くなり遺骸を埋めた所で、しるしに一本の松を植えたところだそうです。

 また一説には、戦いに際して一子を産み落とした巴は、その子を殺して土中に埋め、そこに一本の松を植えたのがこの松の由来であるとも言うそうです。


 

bV 西住塚と西行歌碑 〔庄川町三谷〕

 この古跡は寺尾温泉へ遊びにいったとき偶然に見つけたものです。西行の夢の中に、老櫻の精が現れ、西行と歌を論じる、謡曲「西行桜」の舞台となっているのは、京都西山の〔勝持寺〕、通称〔花の寺〕です。

 ここ庄川町の塚は謡曲の舞台とは関係ありませんが、立札よると
〔西行法師が、心の友の西住法師と諸国を巡り、西住法師の郷里のここ三谷村に至ったとき、西住は病気にかかり急死。西行は追悼し塚を築き、法師手向けの桜を植え、碑石に西行直筆の歌を刻んだ。この西住塚は県道が拡幅される以前はもっと大きくて、西行桜という桜の老木があり、近くに西行庵跡もあった。「越中志徴」「越の下草」などの旧記によると、慶長十六年〔1611〕、碑石は大清水村に移され、永願寺に引き取られ、この石碑は二代目のものである〕


 西行直筆碑の歌とは
「もろともに ながめながめて 夜の月 ひとりにならん 事ぞ悲しき」西行。 道柴の 露のいにしへ かへりきて 馴れし三谷の 里ぞ恋しき」西住。 
 若木の桜が植えてあるこの塚は、砺波より庄川を渡り寺尾温泉へ行く道を、庄川ぞいに左折すると、すぐ右側にあります。


bW 如意の渡し 〔高岡市伏木古国府〕




 氷見線の伏木駅の裏辺りに、如意の渡しがあります。小矢部川の河口で、対岸までの間を今でも、写真の小さな船が行き来しています。片道二百円です。何時行っても閑散としているので、経営は大変だろうと思っています。







 室町時代の軍記物語「義経記」のなかに、次の様なことが書いてあるそうです。
〔如意の渡しにて義経を弁慶打奉るの事・文治三年奥州へ落ちる義経弁慶一行が、如意の渡しを通る時、渡し守の平権守が義経を怪しみました。弁慶はあれは加賀白山より連れてきた御坊で、判官殿と思われるのは心外だと言って、とっさに扇で義経を散々に打ちのめした。〕

 この話が謡曲「安宅」や、歌舞伎「勧進帳」になり、扇が金剛杖になったと言うのです。この話が本当ならば、私の住んでいる小松市の安宅の関跡はどうなるんでしょうかね。

 岸辺に弁慶が義経を扇で打つ銅像があります。


bX 義経雨晴らし岩 〔高岡市雨晴〕



 高岡よりJR氷見線に乗ると、伏木駅を過ぎ、やがて雨晴駅に着きます。景色の良い海岸に大きな岩があり、下の方に大きな穴が空いています。
 謡曲「安宅」を通った義経一行が雨に遭い、ここで雨を晴らしたのが岩の名前になり、地名になりました。義経を奉った小さな社が、岩の頂上あり、覗くと義経の坐像が祭ってありました。
 この辺りは海水浴でにぎわいます。お天気だと海の向こうに立山連峰が聳え立ちます。


10 宮島の弁慶岩〔小矢部市矢波〕


 謡曲「俊寛」
の古跡を探しに宮島峡へ行ったとき見付けました。縦八米幅七米の大岩で〔弁慶岩〕といいます。道路と川に跨っています。岩の表面に人の足跡のようなくぼみがあり、これは謡曲「安宅」の関より奥州に下る途中に通った、弁慶の足跡だそうです。

 国道八号線より宮島峡へはいる道を1キロ位。二又道を左に折れて又1キロ位で、道のかたわらにあります。


11 宮島の鼓ヶ滝 〔小矢部市矢波〕

 弁慶岩を通りすぎて1キロ位進むと、横を流れる川が段々と深くなります。少し手前の道幅の広いところに車を置いて、石段を降りて行くと素敵な滝が現れます。ナイヤガラの滝みたいに広く幾条にも流れ落ちています。滝の裏が洞になっており水の少ない時など、音が響いて鼓の音に聞こえるのだそうです。洞は〔岩屋洞〕と呼ばれており、愛染明王が祀られてあり、右の岸壁に五体の磨崖佛が彫られています。 
 謡曲「安宅」
の関を抜けた義経が、静御前の鼓を懐かしみ、笛を吹いて合奏して偲んだと言う話です。


12 弓の清水 〔高岡市常国〕

 立札によれば「寿永二年〔1183〕源平般若野の合戦に、木曾義仲の軍勢、人馬とも渇することはなはだしく、この土地の松原大助の進言により、義仲この地に弓を射たところ、清水わき出だし、渇を癒して士気大いに揚がったといいます。」このあと合戦は倶利伽羅に舞台を移し、謡曲「木曾」に続きます。
 
場所は砺波より高岡に続く、国道百五十六号線の中間、〔戸出狼〕の交差点を富山に抜ける道に入り、中田橋を渡り二キロぐらいで、道の右にあります。隣りに清水で冷やしソーメ
ンを出す店があります。


14 朝日山の上日寺 〔氷見市朝日本町〕

 謡曲「藤」の曲中に謡われる「朝日山」は、氷見市内にあり眺めがよろしいです。公園として整備され、桜につつじに賑わいます。その朝日山公園の麓にある「上日寺」は有名な能面師、氷見宗忠が僧として居た所とされています。境内に「観音菩薩霊水」が涌き出ています。[痩男面]などで有名な室町期の面作り師「氷見宗忠」も、この霊水で心身を清め、写真の観音堂にこもって能面を彫ったと云われています。












 門前にすごく大きな銀杏の木があり天然記念物に指定されています。


14 北条時頼自作の像 〔山田村鎌倉〕

 矢傷を負った猿が、温泉に入って傷を癒しているのを村人が見つけて発見したという、山田温泉があります。富山市より車で30分位で行けます。
 温泉の少し先に[鎌倉]という集落があります。村の中の道のほとりに、小さな地蔵堂があります。









 立札によれば
「康元元年(1256)6月、謡曲「鉢木」のワキである鎌倉五代執権の北條時頼は、諸国行脚の折この地を訪れ、田中八輔方に滞在しました。その時、土地の地形が幕府所在地と良く似ているので、ここの地名を[鎌倉]と名付けました。やがてこの地を立ち去ろうとした時、村民は時頼の温かい人柄に感銘し、別れを惜しんで旅立つのを止めました。そこで時頼はしばらく留まり自分の姿を石の像に彫刻して、形見にせよと言い残して出発されました。それが現在の石地蔵堂で、横の樫の木も時頼が植えたものである」。
 この、樫の木をくりぬいて作った小さな地蔵堂を覗くと、小さな石像が見えます。


15 猿丸太夫の墓 〔山田村数納〕

山田村の鎌倉から、利賀村に続く細い道があります。その峠あたりに、謡曲「草紙洗」に名前の出てくる、猿丸太夫の墓がある事になっています。これは山田温泉にある観光立札で確認済です。この話最初は富山の能楽師「千章修」師からお聞きしたものです。千先生は実に博学でありました。謡曲古跡についてとても詳しく、本なども色々と調べられていました。奥様と二人で猿丸太夫の墓まで行かれた時の話をお聞きしました。山姥の洞窟探検も先生に教えて頂きました。



 千章修先生は昨年病気で亡くなられました。72歳とお聞きしています。未だお若いのにとても残念です。もっと色々とお話をお聞きしたかったです。猿丸太夫の墓は一度探したのですが、時間が無くて途中で引き返しました。さて今年8月又この碑を探しに出かけましたが、道路工事中で通行不可でした。そのうちに写真を載せます。


16 西明寺塚五輪塔 〔福岡町西明寺〕


 
福岡町に西明寺という地名があります。西明寺の村の外れより、裏山を二百メートルほど登って行くと、中腹に写真の五輪塔があります。鎌倉中期の作と推定され、約700年経って居ます。

 西明寺の地名が、最明寺入道時頼(北條時宗の父)の、諸国行脚の廻国伝説と結びついて、時頼がここにしばらく滞在したとかと云われています。また、単に西明寺というお寺が存在していて、その遺跡だとも言われています。
 最明寺入道時頼は、
謡曲「鉢木」「藤栄」のワキです。


 

17 高瀬神社 〔井波町高瀬〕

 福野から井波に到る中間にある「高瀬神社」は、創建は景行天皇の頃と伝え、越中一ノ宮として崇敬を集めていました。戦国時代に荒廃しましたが、藩政時代に前田家の保護により復興し、今も大きな神社です。

 ここにも最明寺入道時頼の話があります。
昔は神仏混淆の三百余坊の巨刹であったが、僧たちが豪奢に流れ、悪行乱行に走ったため、時頼が謡曲「鉢木」のシテ「佐野源左衛門」に命じて皆殺しにして、寺も大部分壊されてしまいました、と言うのです。
 
本当の話でしょうかね。



18 如意渡跡の碑 〔高岡市伏木国府〕


 氷見線の伏木駅を出て、まっすぐ行くと勝興寺という大きなお寺に突き当たります。地名の示す通り、ここに古代の越中国府がありました。万葉の歌人大伴家持が天平18年から5年間、越中国司としてこの地にありました。万葉集には越中在任中に詠んだ歌が200首もあります。門の手前の道を左に300mも行くと、八幡神社の境内にこの碑があります。ここは高台になっていて、この碑は河の方を向いて建っています。今は陸地の中ですが、昔はこの下まで河だったのかも知れません。
謡曲「安宅の一行はここから、渡し舟に乗ろうとしたのでしょう。


 この碑は、高い崖の上に外を向いて立っています。初めて写真を撮ったときは、裏を正面と勘違いして、家へ帰って初めて気ずき、又撮りに出かけました、ドジですね。



19 猿丸太夫の塚 〔八尾町小井波〕
 故、千先生より聞いた山田村の猿丸太夫の墓を、地図で探していて、隣村の八尾村にも塚があることを見つけ、写真を撮ってきました。盆踊りで有名な八尾の町なかを抜け、桐谷という村まで10キロ位バス道路を走ります。ここより橋を渡って3キロ位で小井波の水芭蕉の群生地を通ります。その先が小井波で、過疎の村らしく今では養豚団地だけがあるようです。そのはずれに「猿丸太夫塚」がありました。立て札によれば「猿丸太夫は歌人と神官を兼ねていたと言われるが、その出身地や墓は全国にあり、晩年はここ八尾町小井波に庵を結び、世を終えた」とあります。猿丸太夫は、謡曲「草紙洗」「草子洗小町]に名が出てきます。