石川県加賀地方の謡曲古跡
bP 安宅の関所 〔小松市安宅町〕

 山伏に身をやつし安宅の関を、弁慶の知略で通り抜ける義経一行。謡曲「安宅歌舞伎「勧進帳」の舞台になっているのは、小松市の安宅町です。高速小松インターより一キロ約三分で着きます。インターを出て右折しすぐの信号を又右折し、安宅の細い町中を抜けると河を渡り関所跡に突き当たります。大きい車は、案内板のとおりにぐるりと遠回りをしなくてはいけません。

 梯川の河口の松原の中に建つ「住吉神社」辺りに、関所が在ったと言われています。神社境内には、関所跡の碑や、弁慶・富樫・義経の銅像、与謝野晶子の歌碑
「松たてる安宅の砂丘其の中に 清きは文治三年の関」などがあり、後ろの海は海水浴場になっています。休憩所や資料館もあり、日本海に落ちる夕日が雄大です。写真は「関所跡の碑」です。
     安宅住吉神社 電0761-22-8896
   



bQ 小松市の曳山子供歌舞伎



 小松市に
謡曲「安宅」の古跡があるので、小松市は今、勧進帳で町おこしをしています。五月の祭礼「お旅まつり」に、子供歌舞伎の「曳山」が出ます。「勧進帳」が出る事もあります。 

 写真は安宅関跡にある歌舞伎・勧進帳の銅像です。

  小松市観光物産課 電0761-24-8076



小松市の曳山子供歌舞伎・演目

 私の住んでいる小松市では、曳山子供歌舞伎で町おこしをしています。勧進帳は謡曲「安宅」を元にして創られました。
。写真は役者のお宮参りです。
 小松市のHP http://www.city.komatsu.ishikawa.jp


 平成18年の子供歌舞伎の演目が新聞に載っていました。当番町の寺町は「碁盤太平記大石妻子別れ」八日市町は「絵本太平記十段目・尼崎の段」。上演は5月12日より15日まで、町内の曳山にて。なほ、13日(土)に市役所前に曳山八基曳き揃えがあり、上演されます。

 そのほかに第8回「全国子供歌舞伎フェスティバルin小松」が、13日(土)・14日(日)に、駅前にオープンの、こまつ芸術劇場うららであります。「福井県丸岡町子供歌舞伎・俊寛・喜界ヶ島の場」「北海道函館子供歌舞伎後援会・良弁杉の由来・東大寺門前の場・親子再会の場」「石川県小松市子供歌舞伎実行委員会・歌舞伎十八番の内・勧進帳」入場料二千円より四千円。売切れ御免との事。
  入場券問合せ 企画課 п@0761-24-8036



3 実盛首洗池 〔加賀市手塚池〕


 白髪を黒く染めて戦死した老武者の心意気。
謡曲「実盛」の舞台になっているのは、加賀市手塚町の篠原古戦場です。高速片山津インターより約五分で着きます。片山津温泉の柴山潟と片山津海岸とにはさまれた一帯が源平合戦の古戦場です。インターを出て右折し次の信号汐見橋詰を左折し、片山津温泉入り口の源平橋を渡ったすぐ右側に、実盛の「首洗池」があります。倶利伽羅の合戦で大敗した平家軍が、最後の抵抗をしたところです。




 
 七十才の斉藤別当実盛は、ここが最後の地と考え頭を黒く染めて出陣し、ただ一人ふみとどまって戦い、源氏の若武者手塚太郎に首を取られます。実盛は木曾義仲の父義賢が討たれた時、斬られる運命にあった幼名の駒王丸を託され、信濃国木曾谷に逃した義仲の恩人でもありました。義仲が幼いときの命の恩人実盛の、黒く染めた髪を洗った処がこの「首洗池」と云われています。義仲首実検の銅像も最近出来ました。後ろの岡が手塚山で小さな祠があります。



4 実盛塚 〔加賀市篠原新町〕

 原古戦場の海岸よりにあるのが、この実盛塚です。高速片山津インターを出て右折し、汐見橋の信号を直進して、橋を渡って五百メートルの左側にあります。駐車場は右側にあります。
 寿永二年〔1183〕六月、実盛は手塚太郎光盛に首打ち落とされ、その遺骸を埋めたところと言われています。康應二年〔1390〕時宗総本山の十四世遊行上人太空が、この地へ来錫の折、実盛の亡霊が現れ、上人の回向を受けて妄執をはらし、上人に「真阿」という法名を与えたと伝えられており、この伝説に基いて、謡曲「実盛」が創られました。立派な老松が植わっています。与謝野晶子の歌に「北海が 盛りたる砂に あらずして 木曾の冠者が きづきたる塚」があります。


 ここで私の親父の一句も披露。

「篠原や 矢叫びに似し 秋の風」
。もう亡くなりましたが親父の自慢の一句です。絶対に名句だと私は思っているのですが。


 さて謡曲「実盛」十四世遊行上人太空が、この地へ来錫の折、実盛の亡霊が現れ、上人の回向を受けて妄執をはらしたという、伝説にもとずいて創られています。それ以来代々の遊行上人が北陸巡錫の折には、必ず実盛兜の回向をされました。このたび五十年ぶりに第七十四代遊行上人、他阿真円上人の兜回向祭が行われました。日程表によれば、平成十七年五月十三日(金)八時に篠原「実盛塚」回向。十時に今江町「上人河道」回向。十三時に多太神社「兜回向祭」とのことです。稚児行列や三代夫婦行列やお練りなどがあり、にぎやかそうです。「上人河道」とは昔は今江潟を舟で渡って多太神社に赴いたのでこの名が残るが、潟を埋め立ててしまったので今は碑だけがある。なほ、十五日は敦賀の「気比神社」でお砂持ち神事があるようです。若狭のページを参考にしてください。



5 実盛の兜 〔小松市上本折町〕


 小松市内の上本折町に、延喜式内の古社「多太神社」があります。この神社に謡曲「実盛」の兜があります。高速小松インターを出て右折し、梯川を渡り信号を左折して市内に入ります。市内の真ん中の「京町」の交差点を右折し2キロ位、道が二股に分かれる左側に神社があります。








 木曾義仲はここに詣でて、平家追討を祈願しました。合戦後「実盛の兜」をこの神社に寄進しました。兜は宝物殿のガラスの容器に収まっています。頼めば見せてもらえます。国の重要文化財に指定されていいます。







 芭蕉は「奥の細道」の途中、この神社に立ち寄り
「むざんやな 兜の下の きりぎりす」と詠みました。この句は謡曲「実盛」をふまえて詠まれています。境内に句碑があります。又「虫枯るる 宵を不覚の かがみぐせ」木隹(小松の人)などの句碑もあります。芭蕉の像も新しく建てられました。


6 多太神社の能舞台 〔小松市上本折町〕

 この多太神社の境内に、野外能舞台があります。私の親父の若い頃、ここで演能がありましたが、それ以来、長い間使っていないので、今では多分痛んで使えないでしょう。

 毎年7月24・25日に、実盛の武勇を偲ぶ
「兜祭」が行われ、本殿で氏子の有志が謡曲「実盛を奉納しています。

 2003.10.13、多太神社の1500年大祭があり神社前の交差点広場で、能と狂言の薪能がありました。能は
「土蜘」藪俊彦師。狂言は野村萬斎師。

 大祭を機会にこの舞台は改修されて、使えるようになりました。ぜひどなたでも使ってほしいとの事です。



7 鏡の池 〔加賀市深田町〕

 尼御前岬から橋立魚港を過ぎ、北前船の里を通り、信号を「百万石時代村」の方へ曲がるとすぐ深田の村を通ります。村の入り口で左に入り百メートル、又左に入り百
メートル、左側の民家の後ろに、清水の湧き出す鏡の池があります。



 謡曲「実盛」のシテ実盛は、この池の水で白髪を黒く染め、形見の鏡をこの池の底に沈め、死を覚悟して出陣し、篠原で首を取られます。実盛は七十才を越えていました。篠原の古戦場まで五キロくらいの所です。
 立札によれば池の底には本当に、凝灰岩製容器に入った、直径八・五センチの柄の無い銅鏡が沈められているのだそうです。裏に鶴亀の模様があり、年代は平安後期以降のものだそうです。この鏡が実盛の持物である確証は残念ながら無いそうです。片山津インターより十分で着きます。



8 歌占の滝 〔白山市鶴来町白山町〕



 頓死して三日目に蘇生した男巫女が、白髪となり地獄巡りを舞うと言う、
謡曲「歌占」の舞台になっているのが、石川郡鶴来町の「歌占の滝」の辺りです。高速小松インターより30分くらいで着きます。石川県一の手取川をさかのぼると、獅子吼高原の山裾に鶴来町があります。鶴来町には、全国の白山神社の総本社の、白山比盗_社があります。加賀一ノ宮の名社で‘しらやまさん’と親しまれています。霊峰白山が御神体で、昔は加賀よりの登山道の入り口として栄えました。




 この神社にお参りしてから、白山の方へ2キロ5分くらいで、この小さな滝があります。国道157号線沿
いの左側です。鳥越へ分かれる白山町交差点のすぐ先です。うっかりしていると通り過ぎてしまう小さな滝です。山からではなく、一段高い田圃よりこの滝は落ちています。横に宝生流愛好者でエバラ製作所の創立者、畠山一清氏の碑があります。氏が白山比盗_社に「歌占」の能を奉納した時に建てたものらしいです。シテの男巫女が、この滝の辺りで、弓に短冊をつけて歌占をしていて、吾子とめぐり合ったといいます。



9 仏御前火葬の地 〔小松市原町〕

 白山禅定を志す旅の僧が、加賀国仏の原の草庵で、仏御前の亡霊と出会うと言う謡曲「仏原」の舞台になっているのは、小松市の郊外の原町です。仏御前はこの町の出身です。

 嵯峨野の奥に庵を結び尼となった祇王のもとに、仏御前が尋ねて同じく尼になります。やがて故郷の原に戻った仏御前は、ここで24才の生涯を閉じます。村の背後の山裾の火葬の地に、写真の五輪の塔があります。徒歩5分位です。登り道は、屋敷跡の碑の前より村中に入り二百メートル位で、民家の間を左に折れ畠をだんだんと登った所にひっそりと在ります。
地元では仏御前は、その美貌ゆえに、村の女房達に妬み殺されたという話が伝わっています。


 この
謡曲「仏原」は宝生流では廃曲になっています。宝生流の盛んな石川県だけでも復曲して欲しいと思います。私の住んでいる小松市が舞台となっている謡曲ですからね。
 小松インターより八キロ、十五分くらいで着きます。小松市街より鳥越町に通ず国道360号線をそのままず−っと直進し、国道八号線を横切り、加賀産業道路を横切り、道が少し狭くなってくると原町を通ります。



10 仏御前屋敷跡 〔小松市原町〕

 謡曲「祇王」によれば、清盛の前で祇王と仏御前が合舞をし、二人の友情を契りますが、やがて清盛の寵愛は仏に移り、祇王は「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわで果つべき」の一句を残し嵯峨野に去って尼となります。先輩祇王に対しての懺悔の気持ちから、やがて仏御前もみずから黒髪を切って、嵯峨野に祇王を尋ね、共に仏道に精進します。

 平家物語ではここで終わりですが、仏御前はやがて古里の小松に戻り、ここがその屋敷跡だそうです。
小松市から鳥越村に抜ける国道360号線沿いの、原町入り口の右手にあります。



11 仏御前の尊像 〔小松市原町〕

 原町の真中に「佛御前尊像安置所」と書いた大きな石碑の建っている、林様のお宅があります。代々仏御前の墓守をされているようです。このお宅に厨子に安置された、仏御前の像があります。京都嵯峨野の「祗王寺」にお参りした事がありますが、そこに安置されている、祇王、祇女、母刀自、仏御前の四像とまったく同一に造られた物のようです。祇王は仏御前の訃報を聞き、いたく悲しみ、祗王寺に安置されているものと同型の物を作って送ってきたものだといいます。40センチくらいの可愛らしい尊像です。祗王寺の住職が墓参に来られて、「麻の雨に ぬれて御像 拝みけり」智照尼 と詠まれて句碑になっています。
 だいぶ以前に仲間と訪れ、
謡曲「祇王」など謡を謡わせていただきました。
  林様 電0761-47-1465



12 仏御前お産石 〔白山市吉野谷村木滑〕

 歌占の滝より白山に向かって国道157号線を15キロ、十五分くらい行くと、吉野谷村の木滑村を通ります。白峰と一里野の分かれ道の少し手前です。村の左の高台に「木滑神社」キナメリジンジャが見えます。ここの境内に、小さな堂に入った大きな石があります。
 
謡曲「仏原」謡曲「祇王」のシテ仏御前は、嵯峨野の祗王寺に入りましたが、清盛の子を宿していることに気ずき、嵯峨野より古里に帰るとき、この村で産気付きこの石につかまって清盛の子を出産しました。子供は数日で亡くなったといいます。仏御前はここで半年ほど静養を兼ねて子供の菩提を弔い、小松市の原町に帰って行きました。




 この石は安産に霊験あらたかで、今では安産祈願の石として村人に崇められています。正面からだと手が届きにくいので、堂の横に窓があり、手を入れて触れられるようになっていました。原町では仏御前が亡くなった九月十八日に、旗を立ててお祭りをしたと伝えられています。
「風涼し 仏御前の お産石」清嗣 の句碑があります。



13 井筒の井桁 〔金沢市卯辰山公園〕

 秋の夜、廃墟の在原寺で、恋の思い出を、業平の形見の衣装を着て男装で舞う井筒の女。世阿弥の代表作、謡曲「井筒」の舞台となっているのは、奈良県天理市の櫟本にある在原寺址で、天理インターのす傍にあります。謡曲の中でも「名ばかりは在原寺の跡ふりて」とある如く、まったく荒れ果て、小さな在原神社があり、申し訳程度に新しい井戸があり、ススキが植えてあり、後は荒地の広場だけで少々がっかりしてしまいます。

 ところがこの「在原寺の井筒」が、金沢にあると言うのです。浅野川の天神橋を渡って卯辰山に登っていくと、花菖蒲園があります。その脇の石段を登ると「卯辰山三社」に出ます。豊国神社と卯辰神社〔天満宮〕と愛宕神社の三古社が並んで建っています。この境内の左に写真の井桁があります。「井筒の碑」が昔あって、それには漢文で次のようなことが書いてあったそうです。
 「慶応三年に卯辰山に天満宮が出来たときに、遠近の者こぞって樹木や石を境内に寄付した。その中に井筒があった。非常に古色を帯び数百年前のもので、これは大和在原寺にあったものと言う。それがいつしか豪商斉藤という人に渡り、三・四人経て郷土の幕末豪商木屋孫太郎の手に帰した。木氏は自分の子孫ではこの宝は守る事が出来ないとの事で、この宮に寄贈した。そしてこの様な事は年経れば煙滅する事を恐れて、私に碑銘として書けと言う。この井筒は昔在原業平が好んだもので、今ここにある。明治巳巳仲春之月 中井順撰」。

 この石碑は残念ながら、いまは行方知れずとの事です。まことに静かで誰もこない場所です。本当に井筒の女が現われそうです。一度見に行って真偽のほどを想いめぐらして下さい。



14 熊坂長範出生地 〔加賀市熊坂町〕

 熊坂長範の亡霊が長刀を振るい、無念の最期を語る謡曲「熊坂」の舞台は、岐阜県美濃垂井町青野辺りで、長範物見の松などが残っています。
 その長範の出生地が加賀市熊坂町と言うことになっています。高速加賀インター出てすぐの国道八号線辺りが熊坂町です。スッポン堂本店のお店の前に、「熊坂長範生誕の地」の大きな看板があります。長範屋敷なるものも造ってあります。このお店の中に面白い事が書いてあったので其のまま載せてみます。
 「長範の隠れ家からの通路に、大きな松ノ木があった。長範はこの松ノ木に登り、北陸街道と金津街道を睨んで往来する旅人を覗った。この松は嘉永5年(1852)の旱魃で枯れてしまったが、その枝で臼が造られ(
金津町熊坂辻橋清右衛門氏蔵)、幹では仏像(安政3年1856完成)が彫られた。熊坂の大仏である」。写真まで添えてありました。熊坂長範は義賊であり、晩年は美濃尾張まで出没したとの事であります。

 この記事を元に熊坂大仏を見つけました。福井県越前地方に載せました。
   スッポン堂本店は、店を閉めたようです。



15 梅田の里 〔金沢市梅田町〕



 謡曲「鉢木」
によれば、
「ある一冬、佐野源左衛門常世が、最明寺時頼のために秘蔵の盆栽、梅、桜、松を焼き暖をとらしめた。時頼は其の行為に感じ、鎌倉に帰ると関八州の軍勢を召し集め、その中から常世を探し出して、横領された所領を返し、加賀に梅田、越中に桜井、上野に松枝、の土地を常世に与えた。」との事であります。


 
金沢市の鳴和の交差点をず−っと郊外へ出て、森本を過ぎると左に「鉢木食堂」があります〔謡曲鉢木より採った名前らしい〕。横の道をを入っていくと梅田の村に出ます。村の真中の「梅田菅原神社」の境内に、謡曲鉢木ゆかりの地「梅田の里」の碑があります。ここの地が、謡曲「鉢木」に出てくる、加賀の梅田だそうです。
 



16 鳴和の滝 〔金沢市鳴和町〕
 謡曲「安宅」の最後の場面、「これなる山水の、落ちて巌に響くこそ、鳴るは瀧の水」と出てきます。この瀧のあるのが金沢市鳴和町の「鹿島神社」の境内です。弁慶の舞った時代には、よほど水量が多い瀧だったのでしょう。弁慶が舞ったおかげで、この辺りの地名が「鳴和」となってしまいました。

 鳴和の広い表通りの山側に、細い旧北陸道が走っています。この一方通行の道の途中の左に曲がる角に、「石川縣十名所義經旧蹟鳴和瀧」と書いた古い大きな案内の石柱があります。電柱の陰になっているので見にくい石柱です。左に折れ、突き当たりに鹿島神社があります。今は木樋よりチョロチョロと水が落ちています。どう見ても瀧には見えません。ちょっとがっかりします。車で行くと道は細く袋小路ですので気を付けてください。


17 弁慶の法螺貝 〔小松市安宅町〕



 謡曲「安宅」
の関所跡と、梯川の河口をはさんだ、ちょうど反対側の安宅の町の中に「勝楽寺」と言うお寺があります。昔、喧窮会で押しかけて、ここの和尚さんに話を聞いたことがあります。

 勝楽寺の前の細い通りが昔の北陸道で、関を通った義経一行は舟で梯川を渡り、この寺で富樫のはからいで、関飯〔赤飯〕を御馳走になりました。そのお礼に、弁慶は法螺貝をを置いていったのだそうです。この法螺貝は寺宝になっており、お寺の紋も法螺貝になったのだそうです。


 またこの寺は富樫とも関係があり、富樫の使っていた棒も伝わっています。

  勝楽寺 電0761-22-4663



18 弁慶謝罪の地 〔能美市根上町道林町〕

 安宅関から北へ四キロくらいの、道林町の道林寺跡に「弁慶謝罪の地」の碑が立っています。
 立札によれば
「時は文治三年二月十日のこと、義経は安宅の関所を、弁慶と富樫との勧進帳の問答により、無事通過する事が出来た。そのあと当道林寺で弁慶は「主を金剛杖で打った罪」を心から謝罪した。義経は「機智の働きは天の加護」とその忠誠を心厚くねぎらった。ここがその伝承の地である」
 まったく
謡曲「安宅」の一場面です。謡曲では金沢の鳴和の滝となっています。

 歌舞伎役者の植えた記念松もあります。
「主従の あつき涙や 春しぐれ」の句碑もあります。場所は小松精練の大きな工場の隣りです。隣り町の山口町には、〔松井秀喜・野球の館〕もあります。ヤンキース松井はここの生まれです。
 最近、碑の横に立派な銅像が出来ました。



19 尼御前岬 〔加賀市美岬町〕

 高速道路の下り線、加賀インターから入ると、片山津インターとの間に、「尼御前サービスエリア」があります。ここの駐車場から、すぐ後ろの尼御前岬に出ることが出来ます。ここから謡曲「安宅」の関所まで十キロ位です。
 「義経主従一行のなかの一人の尼が、この先の安宅関の取締りが厳しいことを聞き及び、足手まといになることを憂いて、深く意を決し、主君の無事を祈ってこの岸壁より身を投げた」
と言う話が伝わっています。尼御前の銅像も出来ていました。

 子供の頃よくキャンプに行ったものです。
片山津インターから入ると、「尼御前サービスエリア」が山側になり岬には出られません。下道を走って十分くらいで行けます。



20 岩根宮の義経通夜 〔能美市辰口町岩本〕

 国道八号線から、寺井町より鶴来までの鶴来街道を行くと、手取川の天狗橋を渡る少し前に、岩本と言う村を通ります。村に入っていくと岩本神社に突き当たります。ここは昔は、白山比盗_社の三社〔金釼宮、別宮、岩根宮〕の一つ、岩根宮の址だそうです。昔は神仏一緒に拝んでいたので、ここには本尊十一面観音像が奉られていました。建物も、もっと多数ありました。
 室町時代の「義経記」に
「文治二年(1186)二月十日、源義経通夜す。」と書いてあるのだそうです。謡曲「安宅」の義経一行は安宅の関を越えたあと、岩根宮の十一面観音像に詣で、武運を祈願し、通夜をしたのです。境内に「義経通夜記念の碑」があります。 



21 大野湊神社 〔金沢市寺中町〕

 金沢市内より、金石に通ずる金石街道を行くと、左側の寺中町に「大野湊神社」があります。延喜式神名帳に載っている古社です。
 ここも「義経記」によれば、
謡曲「安宅」の源義経一行が奥州下向の時、社殿で一夜を明かしたことが記されているそうです。この神社は今は町の中にありますが、昔はもっと海岸近くにあったので、一行はここから船で脱出しました。佐渡へ行くのもりが、能登のほうへ流されたのだそうです。「義経が 一夜泊りの 宮桜」九樟、などの句碑があります。清水九樟さんはとっくに亡くなられましたが、能楽師だったので存じています。商傑銭屋五兵衛の子孫だそうです。
 すぐ近くに銭屋五兵衛記念館もあります。
 大野湊神社 電076-267-0522



22 大野湊神社の能舞台 〔金沢市寺中町〕


 大野湊神社境内の能舞台で、毎年五月十五日の祭礼に能楽が奉納されています。四百年近く綿々と続いているのは、全国でも珍しいと思います。現在は金沢能楽会が奉納しています。社殿が舞台の前にあり、裃を着けて、社殿に一礼してから座付きます。新緑を眺めながら、舞台を勤めるのは実に気持ちの良いものです。最近はアマチャカメラマンの方が大勢見えます。境内の絵馬堂には、謡曲奉納額がたくさん揚がっています。
 平成十七年度「396回」の番組は正午過ぎより、
能「花月」、狂言「引括」、能「胡蝶」です。見学無料。



23 布市神社 〔野々市市本町〕


 野々市
町の文化会館フォルテの横から、金沢工業大学の方へ入っていくと、布市神社の前を通ります。昔、布の市が開かれていて、野々市町の語源となりました。
 この神社は代々、
謡曲「安宅」のワキ、富樫家の氏神でした。一時富樫が木曾義仲に加担し、鎌倉幕府に睨まれた時も、この神社に祈り、加賀の国守護職に復職しました。境内に〔弁慶の力石〕なるものがあります。義経一行が大野湊神社に泊っている時、弁慶だけが富樫邸を訪問し、軽々と投げたのだそうです。
  布市神社 電076-248-1610



24 小松天満宮の能舞台 〔小松市天神町〕

 小松天満宮は、加賀三代藩主利常が小松城に隠居し、前田家の氏神の菅原道真を祭神として、小松城鎮護のために創建されました。以来前田家歴代によって敬愛され、手厚い庇護を受けました。本殿・拝殿、神門などが国の重要文化財になっています。
 境内にある「能舞台」は、加賀藩の能役者[波吉太夫]の能舞台を、小松の能楽愛好者の有志によって、明治29年〔1896〕に移築されました。もう百年以上っ経っています。私の親父はここで「巻絹」のツレで初舞台を踏んだと言っていました。時々使われていたみたいですが、以来何十年も埃にまみれていました。数年前に我々仲間が大掃除をして、未だ使えることを証明しました。以来、年に一度はお稽古会など開いています。


 菅原道真をシテにした曲に、謡曲「雷電」があります。讒言で死んだ菅原道真の霊が、雷となって宮中を暴れまわる能です。宝生流では能の後半があまりにも悲惨だとして
[前田家の祖先が菅原道真と云うことになっているので、遠慮したらしい]、後半を和解と祝福の能に作り変えて、謡曲「来殿」となりました。

 小松市の北を流れる梯川の岸にあります。小松インターより五分で着きます。
  小松天満宮 電0761-22-2539



25 フォルテの富樫像 〔野々市市本町〕

 野々市町の文化会館フォルテに富樫氏の銅像が出来ました。石碑によれば「富樫氏が野々市に居館を構えたのは、平安後期の第7代富樫介家国の時代であり、以来加賀の代表的武士団に発展し、南北朝・室町期には守護職を歴任しました。謡曲「安宅」の関守・富樫左衛門尉は任・情ある武人として特に有名です。1488年、一向一揆によって、第24代政親が戦死。富樫氏は滅亡しましたが、四百年の善政は加賀の基礎を築きました
 写真は富樫介家国の像だそうです。謡曲「安宅」の富樫の先祖です。

 文化会館フォルテ電076-248-8000



26 富樫館跡 〔野々市市本町〕


 また、北陸鉄道石川線の「野々市工大駅」の構内に「富樫館跡」の碑があります。第7代富樫介家国が、ここに館を創建したのだそうです。布市神社のすぐ近くです。

 富樫氏は平安時代より続く名門なのですね。
謡曲「安宅」のワキは、その後裔にあたります。



27 故郷の山・白山〔小松市木場潟より〕 

 謡曲「藤」「雪晴るる白山風も長閑にて」謡曲「歌占」「雪み越路の白山は夏陰いずくなるらん」謡曲「仏原」「よそは梢の秋深き雪の白山尋ねん」などと、白山は謡曲や万葉集に良く出てきます。いずれも雪が出てきます。白山の名前も雪を頂いたその姿によるものです。富士山、立山、と並び日本三名山といわれ、標高2702米です。麓からでは、加賀市から小松市根上町美川町辺りから良く拝めます。
 「日本百名山」を書いた深田久弥は石川県
加賀市の人で、朝晩白山を仰ぎ見たと書いています。私にとっても心の山、もう20回以上も登ったでしょうか、想い出はつきません。
 私が白山に誘い、それですっかり白山好きになって、白山の本まで自費出版した従兄弟の久保信一君、癌で亡くなりました。あくる年、写真を小壜に詰めて想い出の白山に埋めてきました。白山で安らかに御休み下さい。



28 故郷の河・手取川〔能美市美川町河口より〕

 石川県の故郷の山は白山。この白山を源に日本海に向って流れるのが、石川県の故郷の川「手取川」です。石川県はこの川より上水道を取っているので水が美味いと評判です。昔は暴れ川でしたが、上流にダムが出来ましておとなしい川になりました。謡曲「安宅」の義経弁慶一行が急な流れを、手に手を取って渡ったので「手取川」と言われるようになりました。高速道路を走っていると、手取川の河口に「美川県一の町」という大きな看板が目に付きます。歌手美川憲一をもじったものです。美川の地名も、手取川からきているのだと思います。石川県の県庁が美川町にはじめて置かれました。写真を良く見ると白山が見えます。
 美川県一の大看板は、老朽化で取り壊しが始まりました>



29 杜若の像〔金沢市石引四〕

 謡曲「杜若」の銅像が金沢能楽堂の前庭に建てられました。その銅像の碑文によれば、「杜若は、世阿弥が伊勢物語よって創作したもので、能として最も流麗典雅な曲である。加賀宝生重鎮、二代目佐野吉之助をモデルに、金沢出身の巨匠、芸術院会員の彫刻家、吉田三郎氏が製作したものである。謡曲の盛んな金沢の玄関を飾るのにふさわしい。金沢兼六ライオンズクラブ」とあります。元はJR金沢駅の正面にあったのですが、駅前改修に伴い、3年間お蔵入りしていましたが、この2001年の櫻の春「金沢能楽会創立百周年」に合わせてここに移転してきました」

 
謡曲「杜若」の舞台となっているのは、愛知県知立市八橋町の「無量寿寺」で五月には境内の池に3万本のカキツバタが咲きます。
 石川県立能楽堂 電076-264-2598



30 義経腰掛石〔白山市鶴来町〕

 金沢より旧鶴来街道をゆき、鶴来の入口の警察署の交差点をバイパスに入ると、すぐ道の左に「金剣宮」が鎮座しています。鶴来町の古地名は剣(つるぎ)といい、町の発生と共に剣宮は出来たものと思われます。中世以来とみに栄え、岩本宮と共に白山比盗_社の三社の一つとして七堂伽藍を誇りました。

 義経記七によれば、
謡曲「安宅」の一行はこの金剣宮に参拝しています。古来武神として崇敬を集めていました。境内に「義経腰掛石」があります。
  金剣宮 電07619-2-0131



31 金剣宮の能舞台〔白山市鶴来町〕





 この鶴来町の金剣宮の境内に「野外能舞台」があります。楽屋も改修されて、数年前に演能がありました。
 現在でも覗いて見ると、今すぐにでも使えそうで嬉しくなってしまいます。是非時々使って欲しいものです。



32 白山神社の能舞台〔加賀市山中温泉白山町〕



 山中温泉へ行き、町に入らなくて、国道364号線の温泉の上を通るバイパスを行くと、いつも白山神社の境内に、この「野外能舞台」が見えます。もう崩壊寸前で、能舞台のように見えますが、ひょっとすると能舞台で無いかもしれません。だって橋掛かりが反対側に付いているのです。能舞台か、そうでないのか、皆様はどちらだと思いますか。



33 菅生石部神社の能舞台〔加賀市大聖寺菅生町〕

 大聖寺の東北の街外れに「菅生石部神社」スゴウイソベジンジャの古社があります。古来朝廷の尊崇厚く、木曾義仲、富樫昌家、足利義持、豊臣秀吉などの武将の崇敬もありました。境内の「野外能舞台」で、何年も続けて薪能がありました。今は市内の広場に場所を移して続いています。この舞台は、正式は神楽殿です。橋掛かりが無いので演能の時は付けなければいけません。舞台は広く後座もあり、切戸口もあり、鏡松も書いてあります。ただ欄干があって演能鑑賞にはちょっと邪魔になります。
 この神社の2月10日の御願神事「竹割まつり」が有名です。
  菅生石部神社 電0761-72-0412


 大聖寺にお住まいの、仲間の笛方吉野晴夫師に最近聞いた話ですが、この神社を舞台とした謡曲「敷地物狂」が有ったとの事です。詳しい事が判ったらお知らせします。



34 泉鏡花の瀧の白糸〔金沢市橋場町〕

 泉鏡花の小説に「歌行燈」があります。「能楽界の御曹司恩地喜多八は、按摩宗山と芸比べして彼を憤死させます。宗山の娘お袖は父の死後芸者に売られお三重となります。そして同じく破門され流浪の門付けで博多節を歌う、喜多八とめぐり合います。芸者としての無能を嘆くお三重に、喜多八は仕舞を教えます。ある寒い夜桑名の宿で、恩地源三郎が謡い、鼓の名人雪叟が打ち、お三重が舞い、折しも軒下では勘当された喜多八が佇み、叔父の謡いに合わせて謡います。」

 曲は、
謡曲「海人」の玉の段です。久しぶりに読み返しましたが、名文です。




 泉鏡花は明治六年金沢の生まれです。父は腕の良い彫金師、母は江戸葛野流の大鼓家の娘、兄は宝生流の能楽師という家柄だそうです。市内を流れる浅野川のほとりに住んでいました。写真の浅野川と梅の橋の辺りに女芸人「瀧の白糸」の像があります。鏡花はここを舞台に「義血侠血」と言う小説を書いています。その主人公が瀧の白糸です。
  泉鏡花記念館 電076-222-1025



35 宝生紫雪の墓〔金沢市東山〕

 「獅子の座」と言う映画がありました。たぶん小学生の頃で、学年全員が町の映画館に出かけて参観しました。江戸の弘化大勧進能を描いたものです。第十五代宝生大夫弥五郎友干に長谷川一夫、その子石之助、後の第十六代九郎知栄に子方の津川雅彦、その母に田中絹子。親が子供のお稽古をする場面が厳しくて、子供心に泣いたのを覚えています。謡曲「石橋」を二人で演ずるのがクライマックスになっています。
 宝生大夫一世一代の晴天15日の勧進能のとき、弥五郎50歳、石之助12歳でした。加賀よりは波吉宮門が何番もシテを勤めています。それより五年後、弥五郎は家督を石之助に譲り、金沢に隠棲して紫雪と号します。映画では最期に親子二人で屋根に登って
謡曲「小袖曽我」のキリを仲良く謡っています。

 しかし実際は二人の仲はあまり良くなくて、それで金沢に来たのではないかと言われています。紫雪は65歳で金沢で亡くなりました。九郎は一度も金沢に足を向けず、お墓のある全性寺に墓参りもしませんでした。

 全性寺は浅野川の「梅の橋」を渡った先の、卯辰山の麓の寺院郡の中にあります。大きな赤い門があるので「赤門寺」と呼ばれています。紫雪の墓のほかに、波吉宮門の墓も在るそうです。毎年七月第一日曜の金沢定例能の終了後に「紫雪忌」があり。有志が謡曲を奉納しています。
  全性寺 電076-252-8404
 



36 深谷温泉の能舞台〔金沢市深谷町〕

 金沢市の北部、JR森本駅前から富山県福光に抜ける国道304号線に入り約2キロ、表示にしたがって左手に折れると山峡に深谷温泉があります。1200年前に行基によって発見されたと伝えられる温泉で、道沿いに、少しずつ離れて、口の湯、中の湯、元湯とあり、それぞれ一軒ずつの宿屋があります。深谷温泉は昔からお湯が茶色で、痔病に良く効くと評判です。国道より一番奥の「元湯・石屋旅館」に、写真の野外能舞台があります。加賀宝生流を愛した先々代の二左衛門という方が建てたのだそうです。先日お会がありましたので、写真を撮ってきました。見所は二階の広間のテラスからとなります。なほ、この広間にもちゃんと舞台が付いているので、荒天でも冬でも室内で大丈夫です。料理もおいしいですから、是非お稽古会などに活用をお勧めします。




 下の石仏は道路に面して、石屋旅館の敷地の一角にあるものです。小松市の、私の家のすぐ近所にお住まいの、お茶の宗匠の「岩谷登美子」様にお聞きした話です。岩谷様の義父さんもお茶の大先生でしたが、器用な方で仏像も彫られました。お友達であった石屋様の先代が亡くなられたので、供養にこの石仏を彫ってここに小さな塚を造りました。



37 加賀の千代女〔白山市松任西新町〕

 「朝顔や つるべとられて もらい水」。俳人加賀の千代の代表句です。江戸時代の女流俳人で、元禄16年(1703)に、加賀松任に表具商、福増屋六兵衛の娘として生まれました。幼い頃から俳句を好んで、千代の俳名は娘時代より評判でした。18歳の時金沢に嫁ぎますが、夫と死別、実家に戻った千代は、句作に専念します。52歳の時剃髪して素園と号しました。晩年に句集を刊行するなど、73歳で亡くなるまで名声は落ちませんでした。松任市の中心地に「聖興寺」浄土真宗のお寺があり、境内に「千代尼塚」があります。塚は寛政11年(1799)に建てられたもので、自然石に「月も見て 我はこの世を かしくかな」の、辞世の句が刻まれています。庫裏に「千代尼記念館」があり、遺墨、遺品が集めてあります。



 下は、JR松任駅前近くの「おかりや公園」にある句作中の千代尼像です。

 宝生流の新作能に、
謡曲「朝顔」があります。松任市の要請で、梶井幸代氏の詞作で、佐野萌師の節付で、もう五・六回も演能されました。和歌が主題の謡曲は多数ありますが、俳句をちりばめた謡曲もなかなか良いものですよ。謡本は松任市役所が発行していて分けてもらえます。



38 本光寺〔小松市本折町

 謡曲「満仲」があります。観世流では同じ曲を謡曲「仲光」と言います。多田満仲は一子美女丸を僧にするために、中山寺に預けていますが、学問をしなく武勇ばかり好むので、仲光に命じて殺させます。主命とはいえ幼君を殺すことが出来ず、わが子を身代わりにします。シテ仲光の武士ととしての悲しみを描いた、少し毛色の変わった能です。
 ところで事件の張本人の美女丸は、身代わりになった幸寿丸を弔うため、本当に僧になりました。恵心僧都の弟子となり、源賢僧都になりました。詳しくは存じませんが、偉い坊様で歌人としても有名で、著作も残っている人だそうです。

 小松に「本光寺」と言うお寺があります。この寺のホームページで次の一文を見付けました。「本光寺の前身である天台宗円満寺は、今からちょうど1千年前に清和天皇の曽孫多田満仲の子、幼名美女丸、後の源賢僧都によって小松八幡の地に草庵が建てられた事に始まります。それから472年後円満院41代の連慶が、当時吉崎にご逗留していた蓮如上人の教化を受け、真宗に改宗、本光寺となる」とありました。
 意外なところで謡曲ゆかりの地を見つけてびっくりしました。本光寺さんの苗字も多田さんです。多田満仲の血を引いているのでしょうかね。


 うんと若かりし頃、ここのお嬢さんと音楽サークルで知り合いだった事があります。私の憧れの的でした。お元気でいらっしゃいますか。



39 日吉神社〔小松市本折町


 私の住んでいる
小松市は、芭蕉の奥の細道に出てきます。「しほらしき名や 小松吹く 萩すすき」の小松です。7月24日に金沢を出発、夕刻小松着、近江屋に泊る。25日雨、小松の門人に引き留められ、多太神社で、実盛の兜を見て「むざんやな 兜の下の きりぎりす」と詠み、日吉神社(山王神社)の神主「藤井伊豆」宅で句会を催して、神主宅で泊る。26日は雨激しく降り、夜越前屋宗右衛門宅で句会。27日晴、山中温泉に向けて出発、和泉屋に泊る。





 写真は日吉神社にある「芭蕉留杖の碑」です。芭蕉は和泉屋より、小松の塵生と言う人宛に手紙を書いています。それによると
「芭蕉は、乾うどん二箱贈られたお礼を述べ、参加を依頼された小松天神句会に参加するために小松に戻る約束をしています。」
 
芭蕉は小松のうどんが恋しくて、また戻る約束をしたのに違いありません。しかし当日は大雨のため、残念ながら約束は果たせられませんでした。そしてそれ以来、小松は今でもうどんが美味しいのだそうです。

 本光寺のすぐ前に日吉神社があります。
小松市は南北に細長い町並みで、その中心に昔の旧国道が走っています。その国道上に、日吉神社、本光寺、多太神社、それに我が家もあります。

 最近小松市は「小松うどん」で町おこしをしようと考えています。



40 猿丸神社〔金沢市笠舞三丁目〕

百人一首に「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」があります。猿丸太夫の歌です。この平安初期の歌人は謎の人物らしいです。その存在すらあやしくて、柿本人麻呂と同一人物ではないかと言う説まで有るそうです。猿丸太夫の名は謡曲「草紙洗」のシテの言葉に出てきます。 立札に依れば、三十六歌仙の一人、猿丸太夫の旧房跡に、太夫を祭神として、千年前の平安時代に神社創立との事です。それにしても珍しい神社だと思います。犀川にかかる下菊橋を渡り、犀川大通りを右折してすぐ、レストラン・ガストの隣りの笠舞町にあります。この笠舞と言う地名は、旅に立つため庵を出、犀川のほとりで突風により、太夫の笠が舞い上がった事に由来しているのだそうです。

 また、メル友のかっちゃんによれば
柳田国男の「神が助けた話」の中に、猿丸太夫が赦免に遇って、嬉しさの余り、衣服が破れて見苦しいのを、笠で隠して舞いを舞ったので、笠舞の地名が付いたと言う言い伝えがあるとの事。その後、猿丸太夫は禁裏の歌会に列するため都に上って、それっきり帰ってこなかったらしいです。

 もう一つ付け加えると、これはこの近所にお住まいの、謡曲教授嘱託のSさんに聞いた話ですが、
謡曲「鉄輪」の様に、丑の刻詣でが最近まで行なわれていたらしいとの事。そう言えば街の中にありながらそんな雰囲気があります。



41 菟橋神社〔小松市浜田町〕

 小松市の中心を横切っている、空港・軽海線の道路沿いに、菟橋神社があります。本殿の左横に「牛若松」と呼ばれる高い松があります。
謡曲「安宅」の、源義経一行が安宅関の無事通過を祈願して植えた、と言い伝えているそうです。この松の幹内部が空洞になっていて、神社が補強に乗り出したと新聞に載ったので、初めて「牛若松」を知りました。すぐ近くに住んでいながら、うかつにも初めてこの松を知りました。












 さてこの菟橋神社に、松尾芭蕉もも訪れています。曾良旅日記によれば、7月27日、この日は折りよく、菟橋神社の祭礼の日でもあったので、ここに詣でてから山中温泉に向って旅立っています。この祭礼は現在の夏祭り・西瓜祭りなのでしょう。神社の鳥居前に
「しほらしき名や小松吹く萩薄」の句碑があります。


42 松任運動公園舞台〔白山市松任倉光町〕

 松任市の国道八号線よりに、大きな運動公園があります。写真はその中にある野外の水上舞台です。ここで毎年薪能があります。なかなか雰囲気のある舞台です。
 しかしここで薪能をするのは大変です。橋係りは狭いし、舞台はセメントでザラザラ、大掛かりな装置を作らねばなりません。何とかいい方法が無いものでしょうかね。

 松任だけあって新作、
謡曲「朝顔」が時々出ます。


43 若宮八幡宮の能舞台〔白山市松任若宮〕

 明治に入り、幕府というパトロンを失った金沢能楽界は絶滅の機におちいりますが、佐野吉之助を中心とする、お能好きの素人によってだんだんと復興に向かいます。明治33年(1900)に吉之助は自宅に
「佐野舞台」立てました。翌年「金沢能楽会」が設立され、以後百年、一千百回に及ぶ定例能の歴史が始まりました。この舞台は白州が青天井で、天候の影響をうけ傷みが烈しく、昭和7年(1932)に金沢能楽堂として建て替えられました。この舞台が、市役所の拡張により移転したのが現在の県立能楽堂です。



 さて最初の
「佐野舞台」は松任市のここ「若宮八幡宮」に移築されました。しかし火事で焼失。今はありません。写真は境内にある松任出身の俳人「加賀の千代女」の像。


44 手折らじの館〔加賀市山中温泉〕
 謡曲枕慈童、観世流では菊慈童があります。誤って帝の枕をまたいた慈童は深山に流されます。流罪を哀れんだ帝は、枕に法華経の詞を書いて与え、その文句は菊の葉に写され、その葉に置く露が不老不死の薬となり、慈童は七百歳まで生きました。

 ここは山中温泉。芭蕉は奥の細道で、私の住んでいる小松から、この山中温泉に来ています。芭蕉は温泉を称える「温泉頌」を残しています。
「皮肉うるほひ、筋骨に通りて、心神ゆるく、偏に顔色をとどむるここちす。彼の桃源も舟をうしなひ、慈童が菊の枝折りもしらず。ばせお  山中や 菊はたおらじ 湯のにほひ  元禄二仲秋日」



 この句は奥の細道にも載っています。この句は
謡曲「枕慈童」を踏まえています。慈童は菊の露を飲んで長寿を保ったが、山中温泉ではその必要も無いというもの。

 写真は、川のほとりの「芭蕉堂」と、温泉街の中央に
出来た、芭蕉資料館の「手折らじの館」の前に出来た芭蕉と曾良の石像です。二人はここで別れます。


45 都もどり地蔵〔加賀市八日市町〕

 動橋イブリバシより大聖寺へ抜ける県道の、JR線の上を高架橋で過ぎて1キロ位先の道の左側に、小さな石の祠に入った地蔵さんがあります。立て札によれば
「歌人西行が、西住と共に諸国行脚の途中、大聖寺川上流の西住村に滞在し、その渓谷美を愛でた。やがて西行が都に帰るとき、都戻り橋という辺りで、別れたのがこの付近である。終生の師弟、西行と西住が、別れを惜しんだこの場所にいつしか地蔵が祀られ、人々はこれを都もどり地蔵と呼んだ」。そのとき西住法師が詠んだ歌「もろともに ながめながめて 秋の月 ひとりにならん ことぞかなしき」


 鎌倉時代の歌人西行法師は、
謡曲「西行桜」「遊行柳」などに名前が出てきます。
この地蔵さんのことは、金沢のT・M様よりメールにて教えて頂きました。ありがとうございました。又、西住の歌「もろともに 」は富山県呉西の7番に載せた西住塚では、同じ歌を西行の作としています。西住村の事は、判りましたら又載せます。
 


46 西住霊碑〔加賀市山中町市の谷〕
 これも金沢のT・M様より教えて頂いた、西住の墓の写真です。探してきました。


 都もどり地蔵の立て札に寄れば、西行法師は弟子の西住と諸国を行脚し、大聖寺川上流の西住村に滞在したとあります。大聖寺川を遡ると、山中温泉の鶴仙峡を過ぎ、我谷ダムに出ます。左折して新設の九谷ダムを過ぎ、九谷の村を左折して県民の森のほうへ走ります。なかなかの山奥です。やがて道の左に「福寿草の里」という施設があり、その左隣にこの墓があります。西住霊碑とあり側面にいわれが彫ってあります。汚れていてよく読めません。どうも富山県庄川町にある西住塚と同じ話のようです。詳しく判りましたらお知らせします。


47 江沼神社〔加賀市大聖寺八間道〕

 大河ドラマ「利家とまつ」は、金沢藩の初代藩主前田利家の話でしたが、三代藩主利常の三男利治が、支藩として出来た大聖寺藩の初代藩主になりました。以来大聖寺十万石は14代二百年間、金沢に劣らぬ発展を遂げました。14代藩主前田利鬯マエダトシカは最後の殿様で、大変お能が好きでした。210番全曲を舞ったとの事です。明治になり前田家は東京に出ましたが、東京でも舞台を造り、能楽師を集めてお能を舞い、能楽復興に力を尽くしました。大聖寺では、殿様の影響で今でも能楽が盛んです。正月二日に、利鬯殿様の写真を飾って、舞囃子をする「お松ばやし」が今でも続いています。


 江沼神社は藩祖利治を祀ります。大聖寺藩は城を造らず、江沼神社の辺りに屋敷を構えていました。神社は昭和9年の大火で全部燃えましたが、写真の「長流亭」だけが残りました。3代藩主利直の休息所として作られたもので、重要文化財に指定されています。
能舞台も有りましたが燃えてしまいました。神社所蔵のの能面能装束は市文化財に指定されています。境内には武家庭園も残っています。






 また、
「日本百名山」を書いた大聖寺の作家、深田久弥の文学碑もあります。
 江沼神社は大聖寺駅より北1キロ位。錦城山公園のふもとにあります。



48 白山比盗_社〔白山市鶴来町〕
 全国に2,700社の末社を持つ白山神社の総本山。白山比盗_社は鶴来町に鎮座しています。わが故郷の山、霊峰白山を御神体とし、イザナギ・イザナミの神を祀っている古社です。白山は僧泰澄によって開山し、平安時代初期に参拝の禅頂道が開かれ、ここが加賀よりの登山の基地となりました。境内は、杉、桜の大樹が多く神域を保っています。古社にふさわしく社宝類も豊富です。謡曲の奉納額もあります。
 物の本によると、白山は謡曲の四曲に謡われるとありました。
謡曲「藤」の道行。謡曲「歌占」の次第。謡曲「仏原」の次第道行、と見つけましたが、もう一曲が見つかりません。どなたか教えて下さい。


 見知らぬ方より、メールであとの一曲を教えていただきました。
謡曲「花筐」の後シテのサシの謡です。「物の本」とは、「謡曲ゆかりの古跡大成・木本誠二著」の事です。自分でろくに探しもせず、教えて頂きありがとうございました。


 白山比盗_社の奥ノ院は「白山」です。社も頂上にあります。2010年の写真です。


49 弁慶の足跡〔小松市西尾地区松岡町〕


 小松市より国道416号線を、旧尾小屋鉱山に向かってドライブしていたら、西尾村布橋の国道傍の「十二ヶ滝」の上に、鯉のぼりが泳いでいました。











 この村の右手の林道を少し入っていくと、「布橋の水芭蕉の群生地」があります。こんなところにも水芭蕉が咲くのですね。見頃でした。




 十二ヶ滝の所の「西尾八景」の立て札に「弁慶の足跡」の字を見つけて探しに行きました。。布橋の先を左に折れて2キロほど行くと、松岡の集落を通ります。

 ここの松岡大橋の辺の立て札に拠れば
「松岡大橋の下の両岩の傍らに、巨人の足跡があり、弁慶がここを通った時、この岩から一跨ぎに向かい岸に渡ったので、岩に足跡がのこり弁慶岩と言われる」とあります。近くに象岩もあります。写真は橋の上より写したものです。謡曲「安宅」の主人公弁慶さんは、こんな所にも現れて、忙しいですね。




 また集落の中に大きなしだれ桜が満開でした。「千恵子桜」と名称がつけてありました。どんないわれがあるのでしょうか。

 名前の由来見つけました。ここに住んでいた千恵子さんが、ブラジル移住の時、記念に植えたのだそうです。
   小松市内の自宅より30分で着きます。


50 全昌寺〔加賀市大聖寺神明町〕


 大聖寺の全昌寺は、奥の細道で芭蕉が泊まったお寺です。山中温泉で芭蕉と別れた曾良も前夜この寺に泊まり、「
よもすがら秋風聞くやうらの山」と詠み、芭蕉も「庭掃いて出ばや寺に散る柳」と詠んでいます。
 お寺は最近、山門が作られて立派に成りました。









 芭蕉塚と曾良の句碑があり、芭蕉の泊まった部屋も再現されました。






 またこの寺には極彩色の五百羅漢が全部そろった羅漢堂があります。縁があって、その内の一体を私が受け持っています。羅漢堂を建てる時、寄進者がわからなくなった像の整理をした時、大聖寺に住んでいる笛方の吉野師に頼まれて、太鼓方の私に、太鼓を打っている像を紹介してくれたものです。両手に撥を持っているのがそうです。



 全昌寺は謡曲には関係ありませんが、お隣の正覚寺に、
謡曲「祇王」謡曲「仏原」の主人公の仏御前が、清盛から拝領し、故郷小松まで背負ってきた「履行弥陀如来」が伝わっているとの事。また仏御前の木像があるとの事です。
  何時訪ねても、どなたも不在の、不思議なお寺です。


51 中村神社拝殿〔金沢市中村町〕

 金沢駅より南下し御影大橋を渡り、2百m先の信号を左折するとすぐ中村神社に突き当たります。ここの拝殿はこのたび「文化庁登録有形文化財」に指定されました。この拝殿は、旧金沢城の二の丸御殿にあった能舞台を移築したものだそうです。桃山風建築様式で総ケヤキ造り、四方の欄間には龍が彫られ、塗り格天井には極彩色の絵があしらわれ、金の金具が使われているとの事です。加賀百万石の歴代藩主が、居並ぶ家老を前に能を舞った光景がしのばれます。





 この能楽堂は二の丸御殿に隣接して建てられた独立の建物で、白州を挟んだ御殿の座敷が見所でした。明治3年に明治維新で戦死した加賀藩武士を祀るため、卯辰山に「顕忠祠」を建てる事になり、明治維新で主を失ったこの能舞台が社殿として活用され移築されました。二の丸御殿はその後、明治14年の火災でことごとく焼失してしまい、金沢を見下ろす卯辰山に運命的に能舞台だけが残ることになりました。昭和10年「顕忠祠」は石川護国神社に合祀され、元能舞台はポツンと残され荒れるにまかされました。昭和40年、この中村神社の拝殿を建て替える話が持ち上がり、再び白羽の矢が立ったのが放置された元能舞台でした。



52 仏御前の子供地蔵〔小松市尾小屋町〕

 最近、里山歩きに熱中しているが、尾小屋の大倉岳の帰りに、「仏御前の子供地蔵」を見付けた。石碑由来に寄れば
「この地蔵さんは、尾小屋トンネルの山端、旧道脇にありました。トンネルの上出口の川端に、大岩があったので(昭和九年の洪水で流失)、その辺りを大岩畑と呼ばれていた。この地蔵さんは、昔から子供の地蔵さんと伝わり、立派な祠に奉られて大岩畑に鎮座し、代々の地元衆に護られてきました。






 その昔、平清盛に寵愛された白拍子の仏御前は、ここ大岩の所で清盛のの子を死産した由。それ故ここに、この地蔵さんを建立し、清盛との子供を懇ろに葬り弔った。産後の仏御前は長原村の中山家にお世話になり、別れに際し、深く信仰していた十一面観音像と、櫛と、こうがいをお礼品として旅立ったと云う。その品々は、現在中山家に手厚く所蔵されている由でございます。中山主人が、仏御前を見送った阿手坂峠は仏峠と云われている次第です。」

 仏御前は、謡曲「仏原」「祇王」のシテです。この地蔵さんと石碑は、新しい尾小屋トンネルの小松側の入り口広場にあります。


53 景清池〔白山市 町〕

 「口三方岳」という1269mの山に、登りに行きました。白山市河内町のセイモアスキー場の先より登ります。3時間20分、ひたすらに登って、
「景清池」に到着。6月の半ばなのに一面の雪渓でした。水が溶けたら池になる様です。この池は、平家の武将「悪七兵衛景清」の流した涙で出来た池だと云う伝説が残っているようです。

 
謡曲「景清」という名曲があります。能楽師の端くれとして、ぜひ一度訪れたいと思っていたので大満足です。同行のK君は再度の登山だが、まさか6月に雪に覆われているとは思わなかったらしい。どう見ても池には見えません。登山口の内尾の村に、平家の落人伝説が伝わっているようです。




 
謡曲「景清」の舞台は、九州宮崎の日向です。それなのに、なぜこんな、石川県の山の中に、景清の伝説があるのでしょうね。

 翌年また「口三方岳」へ登りに行きました。今度は6月下旬です。新緑の中に大きな池が見えました。同じ6月なのに、年によって違うものですね。


54 小坂神社〔金沢市鳴和町〕 

 里山歩きで、卯辰山から春日山を縦走して降りてきたら、この神社にたどり着いた。御祭神由緒を読むと、奈良の春日社の社領であり春日神を祀る。
 境内社に「瀧波社」があり清滝権現を祀る。義経一行が奥州下向の折、弁慶がここで「鳴るは滝の水」の舞曲を奏した、と書いてある。
 ここも鳴和町です。鳴和の滝も近いです。