bP 気比神宮 〔敦賀市曙町

 謡曲「安宅」の道行に、「気比の海 宮居久しき 神垣や」とあります。源義経一行は頼朝の追手を逃れて、山伏に変装して琵琶湖を船で渡り、海津に上陸し有乳関を越えてここに着きました。
 敦賀の町中にある気比神宮がそれです。祭神の伊奢沙別命は、笥飯大神〔ケヒノオオカミ〕とも称し、太古よりこの地に鎮座し、文武天皇の勅命により702年に社殿が造営されたと言います。








 以来崇敬を集めて社運は隆盛。南北朝時代には大宮司氏治が南朝に味方し、金ガ崎城に篭りました。1570年織田信長の兵火にかかり、
社殿は焼け神領は没収。1614年復興するも戦災で焼失。木造では日本一の重文の鳥居だけが残っています。社殿は昭和の大造営により復興されました。境内に芭蕉の銅像があります。

 高速敦賀インターを降りて、市内へ入ると敦賀名物小牧かまぼこの工場を通って、気比神宮の横に出ます。インターより5.6分です。


bQ 気比神宮の芭蕉の銅像

 芭蕉は元禄2年3月27日に江戸を出発、敦賀に杖を止めたのはその年の8月14日の夕刻でした。まず気比神宮に詣で社頭で、二代遊行上人の砂持ちの古例を知り、「なみだしくや 遊行のもてる 砂の露」と詠みました。砂持ちの古例とは、遊行上人自らが、参拝往来の煩い無き様、土砂を運んで参道を造ったという伝説です。この句は更に推敲されて、奥の細道には「月清し 遊行のもてる 砂の上」として載せています。翌15日の中秋の名月は雨だったのですが、芭蕉が敦賀で詠んだ月の句には次のようなものが有るそうです。
 
「国々の 八景更に 気比の月」
 「古き名の 角鹿や恋し 秋の月」
 「月いずく 鐘は沈むる 海の底」

 
「名月や 北国日和 定めなき」
 また敦賀の西村家には「奥の細道」原本〔弟子素龍の清書本で国の重要文化財〕が残されており、玉井家には芭蕉の竹の杖が残されているそうです。芭蕉は謡曲とは特に関係有りません。


bR 金ヶ崎城址と金崎宮 〔敦賀市金ヶ崎町〕

 金ヶ崎城跡は気比神宮より北へ1キロ、敦賀湾に張り出した山城跡で、国の指定史跡になっています。南北朝の時代、延元元年〔1336〕10月、南朝方の新田義貞は、後醍醐天皇の皇太子の尊良親王を奉じて、恒良親王、嫡男の義顕、それに出迎えた気比神宮の大宮司気比氏治らと共にこの城に篭もり、北朝の高師泰率いる六万の兵と激しい攻防戦を繰り広げました。翌延元2年3月6日落城、尊良親王、新田義顕、気比氏治以下将兵三百余人ことごとく城を枕に殉じた悲劇の場所です。恒良親王は落城の直前小船で脱出しましたが、やがて捕えられ京都に送られ、翌3年毒殺されました。


 今は市の公園となり、尊良親王、恒良親王を祭る金崎宮が建っています。

10月の御船遊管弦蔡には、拝殿で舞囃子や太鼓連調が奉納されます。また例年4月桜の開花期に、延元の昔を偲び親王や将士を慰める、
「花換祭」が行われるそうです。毎夜神社で福運つきの桜の造花を売り、これを求めた人々は境内で行き逢う人々と、「花換えましょう」と造花を交換し合い、夜9時頃の合図の太鼓が鳴るまで何度も交換を続けます。やがて拝殿で抽選となり福運が授けられます。なんとほほえましい行事でしょうか。
 南北朝を舞台にした謡曲に、観世流
楠露、金剛流「桜井駅」があります。


bS 玉の井戸 〔小浜市遠敷〕

 敦賀より国道27号線を小浜に向って走り40分位、小浜市の郊外遠敷に着きます。ここ若狭の遠敷(オニュウ)の里は古寺古神社の宝庫です。ここに「若狭姫神社」と「若狭彦神社」があります。今は2キロほど離れていますが、もとは一つで若狭国一ノ宮と呼ばれていました。若狭姫神社の祭神は「豊玉姫命」で、若狭彦神社の祭神は「彦火火出見尊」と言います。豊玉姫命は龍宮の乙姫様で、彦火火出見尊は山幸彦です。現行の謡曲に、謡曲「玉井」があります。宝生流には無いので北陸では見る機会がありません。能の筋書きは神話のとおりで次の様です。
 「地神第四代彦火火出見尊(山幸彦)ワキは、兄の火闌降命(海幸彦)の釣針を魚にとられ、剣をくずして作った釣針を返しても兄は承知せず、元の釣針を探すため塩土翁に教えられ、龍宮のわたづみの宮に着きます。門前に銀色に輝く玉の井戸があり、傍らに桂の木があるので登って様子を覗うと、豊玉姫(シテ)と玉依姫(ツレ)が水汲みに現れ、水に映った尊を見つけます。やがてワキは姉妹に導かれて宮殿に入り父母に仔細を語ると、父母は必ず釣針を見つけて返す事を誓い、それでも兄の怒りが解けぬ時のために、潮満珠と潮干珠をワキに捧げると言う。ワキは豊玉姫と結婚し三年が過ぎ、帰国することになり、父の海神(後シテ)は、釣針を探し出してワキに捧げ、姉妹(後ツレ)に珠を持たせ、ワキと姉妹を大きな鰐に乗せて故郷に送り届け、また龍宮に帰ります。」ワキ方の重い習曲で、めったに演能されないようですね。


 若狭姫神社の境内に「玉の井戸」と「桂の木」があります。
謡曲「玉井」の舞台である龍宮界のわたづみの宮は、ここ若狭の遠敷の里だったのかも知れません。近くの遠敷川に尊と姫が降臨したと伝えられているそうです。


5 若狭姫神社の能舞台

 若狭姫神社の境内に野外の能舞台があります。もうだいぶ昔から朽ちて倒れかけですが、何とか今でも形を留めています。立派な舞台ですので、何時までもここにあって欲しいです。すぐ前にめずらしい「オガタマノキ」の大樹があります。また大きな銀杏の木があります。妹神の玉依姫も別社に祭られています。妹神は豊玉姫の子(ウガヤフキアエズノ命)の乳母をしたので、この神社は安産や子育てに神徳があるそうです。


bU 八幡神社の能舞台 〔小浜市男山町〕

 小浜駅の西500メートルにある「八幡神社」に、野外の能舞台があります。近年まで時々使われていたみたいで、どっしりとした良い舞台です。この神社は地元の産土神として崇敬を集めています。

 隣に
「空印寺」というお寺があります。江戸時代の初めに創建された曹洞宗のお寺で、小浜藩主「酒井氏」歴代の菩提寺で、本堂の裏手に酒井家代々の墓所があります。


bV 空印寺の八百比丘尼伝説 〔小浜市男山町〕

 この「空印寺」に(八百比丘尼)の伝説が伝わっています。「昔、漁師が珍しい魚を釣ってきました。それは人魚でした。だれも気味悪がって食べなかったのですが、たまたまある少女が、それとは知らず食べました。それ以来少女は年をとらず何時までも若々しかった。年頃になり結婚したのですが、夫だけが年を取り死んでいった。こうして何人かの男に嫁ぎ、その男達が次々と死んで行くのを見て、世の無常を感じ尼となった。年すでに800才、人々は若狭の八百比丘尼とよんだ。なお、容色衰えず諸国を遊歴してから、寛徳元年(1044)に若狭に帰り、空印寺の洞穴に入って食を断ち入寂した。」
 境内に、八百比丘尼入定洞があり、尼の化身の白玉椿が咲いています。長寿を願う人は一度お参りしてはいかがですか。


bW 須部神社の能舞台 〔上中町末野

 小浜から敦賀に抜ける国道27号線を行くと、小浜市より上中町に入ります。三方町に入る少し手前を左に折れると、「須部神社」スベジンジャがあります。陶器造りの元祖、陶津耳大神と恵比寿様と大黒様をを祭り、古来、招福除災の効験あらたの神様として、近隣の信仰を集めています。恵比寿神社とも呼ばれる境内に、野外の能舞台があります。この舞台は敷板が全部横に敷いてあります。楽屋が広々としていて使いやすそうです。この舞台で毎年10月28日の例祭に、新穀感謝祭のお能が奉納されます。奉納しているのは地元の「倉座」と言う能楽の座です。猿楽の時代から続いている座で、自分達で面や装束を持っている本格的なものです。元は独特の型附けがあったみたいですが、今は各自師について、観世流で行われています。後継者難で大変みたいですが是非頑張ってください。ちなみに平成十三年の演能曲目は、午前10時より能「花月」「羽衣」でした。十四年度は「金札」「杜若」「岩船」でした。


bX 宇波西神社の能舞台 三方町気山

 敦賀より国道27号線を行くと、美浜町より三方町に入ります。三方五湖の近くです。JR気山駅の裏500mの所に「宇波西神社」があります。延喜式神名帳(一千年以上も前に書かれた)、この本に依れば、当時北陸七ヶ国に祭られていた、352座の御祭神の中で、年3回朝廷より幣帛を奉られたのはこの宇波西神社(ウワセジンジャ)だけ、と言う若狭屈指の古社です。多くの古文書や社宝が有ったのですが、何度かの兵乱で焼失しました。小浜線気山駅の後ろより社まで、古い松並木が続いて感じが良かったですが、今度訪れて見たら、道路拡張のため松並木消失。まことにがっかりしました。この能舞台は橋懸かりが無いので、演能の時は隣の建物まで廊下を渡します。毎年8月19日に「風折能」カザイノウ、と呼ばれる風鎮めの豊作祈念のお能を「倉座」が奉納しています。平成十三年の番組は正午より、能「花月」「羽衣」でした。十四年度は「金札」「杜若」「岩船」でした。この度、神社と駅の間に若狭梅街道が通りました。


10 弥美神社の能舞台 美浜町宮代

 敦賀より国道27号線を走り、美浜町の河原市という交差点を左折して2キロほど走ると田圃の真中に「弥美神社」があります。
 若狭には、神社で橋係りを有する能舞台16あり、橋係りは無いものの、舞台を有する神社は60以上あるといわれています。一国でこれほど能舞台の有るのは、恐らく「若狭」と「佐渡」だけではないかとの事であります。ここ弥美神社(ミミジンジャ)も延喜式神名帳に名を残す古社です。参道の老樹がそれを物語ります。ここでも毎年、宇波西神社の翌日、8月20日に「風折能」「倉座」によって奉納されます。今年の曲目は正午より能「花月」「羽衣」でした。十四年度は「金札」「杜若」「岩船」でした。現在若狭で毎年恒例に演能のあるのは、8月19日の宇波西神社、8月20日の弥美神社、10月28日の須部神社の3箇所だけのようです。曲目は3箇所とも同じです。祭神は「室毘古王」というこの地方開拓の祖神だそうです。

11 若狭「倉座」と「一人翁」 

 現在の能楽の流儀は「大和猿楽」の四座が発展しものと言われています。すなわち結崎座⇒観世流。外山座⇒宝生流。円満井座⇒金春流。坂戸座⇒金剛流です。それぞれ寺社に属し宗教的な行事に参勤していました。出来たのは鎌倉中期頃と言われています。同じ頃ここ若狭にも猿楽の座が出来ました。「気山座」と言われています。江戸時代になって、やがて「倉座」が気山座に取って代わります。十五世観世大夫元章が寛延三年(1753)に、江戸で興行した十五日間の勧進能に「倉小左衛門」が出演しています。この人物が若狭倉座の役者であると云われています。倉小左衛門は五番の能のシテを勤めていることから、彼は観世大夫元章の高弟であり、当時の若狭の能の水準がかなりのものだったことを示しています。その倉座が現在でも続いているのです。82代倉大夫の今井靖之助が最近引退されて、83代目の新大夫が就任されたらしいです。
 この倉座に
「一人翁」が伝わっており福井県無形民俗文化財に指定されています。文化財の継承にますます頑張ってください。写真は弥美神社です。


12 謡曲「恋松原」 〔三方町気山

 倉座に、謡曲「恋松原」が伝わっています。敦賀の方から「若狭梅街道」を行くと、宇波西神社に着く少し前に、道路際の「恋の松原古墳」に着きます。
 立札によれば「三方郡誌に次の記載あり。恋の松原気山にあり。宇波西神社の東北の地を言う。恋の松原は[八雲御抄]並びに[夫木抄]にも若狭とあり。里人は此処とし常に[こみの松原]と称す。伝えいう、往古一男一女あり、密にここに会せんことを約す。女、先ず到りて待つ。時に大いに雪降り男来らず。女、約を守りて去らず、遂に椎橋の下に凍死したりき。当時、この地松原なりき。故に恋の松原と称すと。後の人その墳を築き、また謡曲を作れり。」
 この能は現在では演じられていませんが、倉座では、復曲に取り組んでいます。地元で演能できるといいですね。


13 多田満仲の墓 〔小浜市多田

 小浜駅の東3キロ、国道27号線の木崎の信号を南へ1キロほど入った所に「多田寺」があります。高野山真言宗のお寺で天平勝宝元年(749)に、孝謙天皇の勅願により、勝行上人が開いたとされています。一般に「多田の薬師さん」と呼ばれ、眼病の治療に御利益ありとして信仰されています。本尊は木造薬師如来立像で平安初期の作で2メートル位。国の重要文化財になっています。隣接するこの寺の墓地の一番奥に写真の「多田満仲」の墓と伝えられる塔があります。下は多田寺の山門です。




 
謡曲「満仲があります。観世流では同じ曲を謡曲「仲光」といいます。シテは藤原仲光で、ツレは多田満仲です。多田の満仲は一子美女丸を中山寺に預けているが、お経も読めず学問もしていないのに怒り、仲光に命じて美女丸を切り捨てるよう命じます。仲光が途方に暮れていると、一子幸寿が様子を知ってあらわれ、自分の首を斬って美女丸にかへてくれという。仲光は迷うが自分の子幸寿の首を斬り、美女丸を比叡へ落とします。やがて比叡山の恵心僧都が美女丸を伴って現れ、始終を語り、満仲は許し喜び、仲光に喜びの舞いを舞わせます。仲光は複雑な気持ちで舞います。
 現在では一寸考えられない話です。歌舞伎にでもあるような話です。お能にもこんなのがあるのですね。

 清和天皇より三代目経基が源姓を賜り清和源氏の祖となり、ツレの多田満仲はその子です。以後の源氏の基礎を築いた人のようです。多田満仲と多田寺はどうゆう関係なのか判りません。どうしてここに多田満仲の墓があるのかも判りません。


14 鵜ノ瀬 〔小浜市白石〕

 春の訪れを告げる年中行事として、全国的に知られるのが奈良東大寺の「お水取り」です。3月に二月堂で行われる「修二会」と呼ばれる法要で、二月堂の十一面観音に国土の安泰と人々の豊楽を祈ります。2週間にわたる修行の後3月12日の深夜に、堂下の若狭井より仏に捧げる香水を汲み上げ、大きな松明が内陣を駆け巡る「ダッタン」と呼ばれる妙法が行われます。
 さて、若狭の小浜市の遠敷(オニュウ)より遠敷川を遡ると、
「お水送り」の寺として知られる「神宮寺」があります。そのさらに1.5キロ程の所に、鵜ノ瀬があります。遠敷川の激流が岩に突き当たって底に洞穴を作って流れが渦を巻いています。ここは奈良東大寺二月堂の若狭井の水源だと言われています。

 3月2日に神宮寺で「修二会」が行われ、ダッタンの大松明で水を清め、鵜ノ瀬までまで松明行列をして運び、水を奈良まで送る行事を行います。10日かかって水は奈良まで届く事になります。

 さてさて、この遠敷川の鵜ノ瀬をずーっと上流まで上っていくと、段村という村が在るそうです。
謡曲小袖曽我」「夜討曽我」に鬼王と団三郎の二人が出てきます。実は是は、遠敷郡(オニュウ)の段村(ダン)の三郎、つまり鬼王団三郎と言う、一人の人物ではないかという話があるそうです。実に面白い話ではありませんか。


15 曽我兄弟の墓 〔小浜市多田

 謡曲小袖曽我」「夜討曽我に鬼王と団三郎の二人が出てきます。これは遠敷の段村の三郎という一人の人物の事かもしれません。この団三郎が主人の死後帰郷して、供養の墓を建てたのに違いありません。

 国道27号線の木崎という交差点をを多田寺の方へ曲がり、多田寺の少し手前の川の辺に、
「曽我兄弟、大磯虎女之墓 多田高齢者クラブ」という立札があります。橋を渡り車を置いて田圃の細道をまっすぐ500メートルも行くと、山すその杉林に着きます。杉林の中に3基の五輪の搭があります。曽我兄弟の墓といわれるものです。真中の小さいのが十郎の恋人虎女の墓に違いありません。後の二つはどちらが五郎でどちらが十郎か判りません。老人クラブがこの墓を守っているのですね。 


16 暦会館 〔名田庄村納田終

 世はまさに「安倍晴明」ブームだそうです。夢枕獏という小説家が書いた「陰陽師」オンミョウジ という本が元で、テレビではアイドル稲垣吾郎が主演し、映画では狂言師野村萬斎氏が主演しています。この間テレビでも放映されました。小説を読んでみましたが実に面白かったです。時は平安時代、主人公の安倍晴明 アベノセイメイ が、友人の武士源博雅 ミナモトノヒロマサ と土御門大通りの晴明の館で、美女(式神と称していろんな物を人物にする)に酌をさせ、酒を酌み交わしながら都を騒がせている鬼の話をし、その真相を確かめる為に「ゆこう」「ゆこう」と二人で出かけ、事件を解き明かしてゆきます。謡曲「蝉丸」「通小町」「鉄輪」「羅生門」「玄象」「泰山府君」などに関係のある話がどんどん出てきます。
 
謡曲「鉄輪」のワキは安倍晴明です。心変わりをした男を呪詛するために、貴船神社に丑の刻詣で鬼と化した妻は、夫の命を奪わんとするのを、晴明は退散させます。
 小浜市から京都府に抜ける国道162号線を30分も走り県境も近くなると、名田庄村納田終ナタショウムラノダオエに「道の駅」があり、その隣に「暦会館」があります。この会館には、土御門(安倍)家と暦の資料を展示してあります。この地方は安倍晴明に関係があるのです。晴明は宮中の陰陽寮に所属した国家公務員の陰陽師で四位という位でした。晴明以来、安倍家が陰陽道の中心となり、明治になるまで朝廷と幕府に抱えられていたらしいです。安倍家は「泰山府君」という中国の神様を司っていたので、その神領地として名田庄村のこの辺りが与えられ、実際に戦火を避けて安倍家はここに住んだこともあります。
 写真は「暦会館」と展示してある「安倍晴明像」です。


17 土御門家遺跡 〔名田庄村納田終

 暦会館の前に歌を刻んだ碑があります。「恋しくは゛たずね来てみよ 泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」。晴明が白狐の子であるという伝承があり、芝居になっているそうです。父の保名は悪人より狐を救い、狐は女となり保名の妻となり晴明を生みます。あるとき正体を知られた狐はこの歌を残して去ります。森の中で母狐と再会した晴明は霊力を授けられます。まだまだ続くみたいですが、詳しい事は知りません。

  夢枕獏の小説「陰陽師」は、岡野
玲子により漫画化されており、謡曲「鉄輪」のワキでもある安倍晴明が、美男子に描かれているので、ことさら晴明ブームになったみたいです。ついでに「陰陽師」の晴明の友達の源博雅の事ですが、彼も謡曲「蝉丸」に登場します。蝉丸の世話をする狂言方の役です。謡曲「蝉丸」のツレのせりふに「此の程をりをり訪ハれつる、博雅の三位にてましますか」とあります。博雅も実在の人物で、宮中に勤める武士で三位という位でした。武士でありながら笛の名手で琵琶も名手。逢坂山の蝉丸の元に通って琵琶を習ったと云われています。

 
謡曲「泰山府君」タイサンプクンが金剛流に在ります。めったに上演されない珍しい謡曲です。中国の泰山に住む府君という鬼神は、日本の閻魔大王みたいな神で、人間の寿命をつかさどります。ワキの櫻の好きな櫻町大納言は、櫻の余りに短い七日の命を惜しんで、泰山府君の祭りをして延命を祈ります。シテ泰山府君の神は現れ、花の命を三七日まで延ばしてくれます。


 まことに風流な話の謡曲です。泰山府君の神は陰陽師の神でも在り、ここ納田終の加茂神社に泰山府君が祭られています。日本でここ只1社との事です。近くに土御門家(安倍家)の墓があります。31代32代33代の安倍氏です。
 観世流で
謡曲「泰山木」が復曲されたようですね。この間テレビで拝見しました。金剛流の「泰山府君」と同曲です。写真は天壇と加茂神社と墓です。


18 世阿弥船出の地 〔小浜市台場浜公園〕

 能の大成者「世阿弥」に世阿弥十六部集と言われる著作があります。「風姿花伝」「花鏡」「至花道」「珠玉花」「金島書」などが在ります。世阿弥は足利将軍義教の怒りを買い、永亨6年(1434)、74歳の時佐渡に流されました。「金島書」の金島とは佐渡の事であり、佐渡へ流されていく道中、配所佐渡の国情、島における知見や心情などを紀行ふうにつづった「小謡曲舞集」です。
 八つの詞章から成っていて、先ず「若州」から書き始められています。若州とは福井県の旧国名で、永亨6年5月4日に都を出て次の日に小浜の港に着いた事が記されています。「海路」では日本海を北上していく船旅が記されています。東を見れば雪の白山が仄見え、続いて能登・珠洲の岬・七つ島と出てきて富山湾に入ります。立山も見えて5月下旬に佐渡の大田の浦に着きます。「配処」では笠取という峠を越えて、長谷寺へ詣でて新保の万福寺に着いています。
 現在、佐渡の金井町の正法寺に「世阿弥の腰掛石」が残っています。以前に訪れてこの石に腰をかけて世阿弥を想った事があります。世阿弥はこの書が絶筆で、以後まったく消息不明となります。許されて都へ戻ったという説もありますが、はっきりしない様です。
 
小浜市の「そとも巡り遊覧船」の出る港の前の、台場浜公園に「世阿弥船出の地」の記念碑があります。金島書の若州に基づいて、地元出身の観世流能楽師の「武田小兵衛」師が昭和62年に建てられたものです。小兵衛師の父親は、若狭猿楽の流れを汲む「倉座」の出身で、その後を継ぎ京都で修行され、若狭の観世流を盛り立てられました。もう亡くなられまして、御子息の武田欣司師が京都で重鎮として活躍なされています。


19 頼政と鵺退治 小浜市矢代

 謡曲「鵺」と、謡曲「頼政」に、源頼政が謡われます。文武両道に優れた人物で、謡曲「鵺」では、頭は猿、尾は蛇、足手は虎、鳴く声は鵺に似たりと言う、鵺ヌエ本人が、頼政に射落とされる有様を語ります。謡曲「頼政」では、平家に仕え三位まで上り詰めた頼政が、平家に反逆、高倉宮を奉じて兵を挙げるが、平家の大軍に攻められ、宇治川の合戦と平等院の自害を本人が語ります。
 さてこの頼政は若狭に領地がありました。
小浜市の宮川地区、内外海地区などです。ここら辺りに竹長、矢袋、矢代などの地名があります。頼政は弓の名人でした。この地方で出来た弓矢で鵺を退治したのに違い有りません。

 


 矢代の村の隣に田烏と言う村があります。ここの神社(上の写真)に
わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石 人こそ知らね 乾く間もなし」の歌碑があります。この百人一首にあるこの歌は、二条院讃岐のもので、讃岐は頼政の娘です。父の所領土であるこの地でこの歌を詠みました。沖の石とはこの海岸の沖合い7キロにある巨岩のことです。

 また矢代の村の神社に下の写真の「鵺退治」の額が揚がっていました。近衛天皇を悩ませた鵺を、頼政が射落とし郎等の猪早太が取り押さえているところです。


20 晴明神社 敦賀市相生

 敦賀市の中心部、気比神宮の近くの敦賀湾寄り、山車会館の裏あたりに晴明神社があります。このあたりは昔は清明町と云っていました。安倍清明を祭っています。安倍晴明は謡曲「鉄輪」のワキです。由緒の立札に寄れば、当社は往古より「保食神・食物を守護する神」の旧跡である。阿部晴明は正暦年間(990-994)当地に住み、天文地文の研究をし、日夜この神祠に参詣、信仰心甚だ篤かった。天文の奥義を究める為に供した「霊石」晴明の祈念石がある。この石は祭壇の下に鎮座しています。この敦賀の私のお稽古場は、鉄輪町にあります。謡曲「鉄輪」に関係が有るかと思いましたが、元国鉄の機関区跡に由来するようです。