bP 気比神宮 〔敦賀市曙町〕 |
謡曲「安宅」の道行に、「気比の海 宮居久しき 神垣や」とあります。源義経一行は頼朝の追手を逃れて、山伏に変装して琵琶湖を船で渡り、海津に上陸し有乳関を越えてここに着きました。 |
bQ 気比神宮の芭蕉の銅像 |
芭蕉は元禄2年3月27日に江戸を出発、敦賀に杖を止めたのはその年の8月14日の夕刻でした。まず気比神宮に詣で社頭で、二代遊行上人の砂持ちの古例を知り、「なみだしくや 遊行のもてる 砂の露」と詠みました。砂持ちの古例とは、遊行上人自らが、参拝往来の煩い無き様、土砂を運んで参道を造ったという伝説です。この句は更に推敲されて、奥の細道には「月清し 遊行のもてる 砂の上」として載せています。翌15日の中秋の名月は雨だったのですが、芭蕉が敦賀で詠んだ月の句には次のようなものが有るそうです。 |
bR 金ヶ崎城址と金崎宮 〔敦賀市金ヶ崎町〕 |
金ヶ崎城跡は気比神宮より北へ1キロ、敦賀湾に張り出した山城跡で、国の指定史跡になっています。南北朝の時代、延元元年〔1336〕10月、南朝方の新田義貞は、後醍醐天皇の皇太子の尊良親王を奉じて、恒良親王、嫡男の義顕、それに出迎えた気比神宮の大宮司気比氏治らと共にこの城に篭もり、北朝の高師泰率いる六万の兵と激しい攻防戦を繰り広げました。翌延元2年3月6日落城、尊良親王、新田義顕、気比氏治以下将兵三百余人ことごとく城を枕に殉じた悲劇の場所です。恒良親王は落城の直前小船で脱出しましたが、やがて捕えられ京都に送られ、翌3年毒殺されました。 |
bS 玉の井戸 〔小浜市遠敷〕 |
敦賀より国道27号線を小浜に向って走り40分位、小浜市の郊外遠敷に着きます。ここ若狭の遠敷(オニュウ)の里は古寺古神社の宝庫です。ここに「若狭姫神社」と「若狭彦神社」があります。今は2キロほど離れていますが、もとは一つで若狭国一ノ宮と呼ばれていました。若狭姫神社の祭神は「豊玉姫命」で、若狭彦神社の祭神は「彦火火出見尊」と言います。豊玉姫命は龍宮の乙姫様で、彦火火出見尊は山幸彦です。現行の謡曲に、謡曲「玉井」があります。宝生流には無いので北陸では見る機会がありません。能の筋書きは神話のとおりで次の様です。 |
5 若狭姫神社の能舞台 |
若狭姫神社の境内に野外の能舞台があります。もうだいぶ昔から朽ちて倒れかけですが、何とか今でも形を留めています。立派な舞台ですので、何時までもここにあって欲しいです。すぐ前にめずらしい「オガタマノキ」の大樹があります。また大きな銀杏の木があります。妹神の玉依姫も別社に祭られています。妹神は豊玉姫の子(ウガヤフキアエズノ命)の乳母をしたので、この神社は安産や子育てに神徳があるそうです。 |
bU 八幡神社の能舞台 〔小浜市男山町〕 |
小浜駅の西500メートルにある「八幡神社」に、野外の能舞台があります。近年まで時々使われていたみたいで、どっしりとした良い舞台です。この神社は地元の産土神として崇敬を集めています。 |
bV 空印寺の八百比丘尼伝説 〔小浜市男山町〕 |
この「空印寺」に(八百比丘尼)の伝説が伝わっています。「昔、漁師が珍しい魚を釣ってきました。それは人魚でした。だれも気味悪がって食べなかったのですが、たまたまある少女が、それとは知らず食べました。それ以来少女は年をとらず何時までも若々しかった。年頃になり結婚したのですが、夫だけが年を取り死んでいった。こうして何人かの男に嫁ぎ、その男達が次々と死んで行くのを見て、世の無常を感じ尼となった。年すでに800才、人々は若狭の八百比丘尼とよんだ。なお、容色衰えず諸国を遊歴してから、寛徳元年(1044)に若狭に帰り、空印寺の洞穴に入って食を断ち入寂した。」 |
bW 須部神社の能舞台 〔上中町末野〕 |
小浜から敦賀に抜ける国道27号線を行くと、小浜市より上中町に入ります。三方町に入る少し手前を左に折れると、「須部神社」スベジンジャがあります。陶器造りの元祖、陶津耳大神と恵比寿様と大黒様をを祭り、古来、招福除災の効験あらたの神様として、近隣の信仰を集めています。恵比寿神社とも呼ばれる境内に、野外の能舞台があります。この舞台は敷板が全部横に敷いてあります。楽屋が広々としていて使いやすそうです。この舞台で毎年10月28日の例祭に、新穀感謝祭のお能が奉納されます。奉納しているのは地元の「倉座」と言う能楽の座です。猿楽の時代から続いている座で、自分達で面や装束を持っている本格的なものです。元は独特の型附けがあったみたいですが、今は各自師について、観世流で行われています。後継者難で大変みたいですが是非頑張ってください。ちなみに平成十三年の演能曲目は、午前10時より能「花月」と「羽衣」でした。十四年度は「金札」「杜若」「岩船」でした。 |
bX 宇波西神社の能舞台 〔三方町気山〕 |
敦賀より国道27号線を行くと、美浜町より三方町に入ります。三方五湖の近くです。JR気山駅の裏500mの所に「宇波西神社」があります。延喜式神名帳(一千年以上も前に書かれた)、この本に依れば、当時北陸七ヶ国に祭られていた、352座の御祭神の中で、年3回朝廷より幣帛を奉られたのはこの宇波西神社(ウワセジンジャ)だけ、と言う若狭屈指の古社です。多くの古文書や社宝が有ったのですが、何度かの兵乱で焼失しました。小浜線気山駅の後ろより社まで、古い松並木が続いて感じが良かったですが、今度訪れて見たら、道路拡張のため松並木消失。まことにがっかりしました。この能舞台は橋懸かりが無いので、演能の時は隣の建物まで廊下を渡します。毎年8月19日に「風折能」カザイノウ、と呼ばれる風鎮めの豊作祈念のお能を「倉座」が奉納しています。平成十三年の番組は正午より、能「花月」と「羽衣」でした。十四年度は「金札」「杜若」「岩船」でした。この度、神社と駅の間に若狭梅街道が通りました。 |
10 弥美神社の能舞台 〔美浜町宮代〕 |
敦賀より国道27号線を走り、美浜町の河原市という交差点を左折して2キロほど走ると田圃の真中に「弥美神社」があります。 若狭には、神社で橋係りを有する能舞台が16あり、橋係りは無いものの、舞台を有する神社は60以上あるといわれています。一国でこれほど能舞台の有るのは、恐らく「若狭」と「佐渡」だけではないかとの事であります。ここ弥美神社(ミミジンジャ)も延喜式神名帳に名を残す古社です。参道の老樹がそれを物語ります。ここでも毎年、宇波西神社の翌日、8月20日に「風折能」が「倉座」によって奉納されます。今年の曲目は正午より能「花月」と「羽衣」でした。十四年度は「金札」「杜若」「岩船」でした。現在若狭で毎年恒例に演能のあるのは、8月19日の宇波西神社、8月20日の弥美神社、10月28日の須部神社の3箇所だけのようです。曲目は3箇所とも同じです。祭神は「室毘古王」というこの地方開拓の祖神だそうです。 |
11 若狭「倉座」と「一人翁」 |
現在の能楽の流儀は「大和猿楽」の四座が発展しものと言われています。すなわち結崎座⇒観世流。外山座⇒宝生流。円満井座⇒金春流。坂戸座⇒金剛流です。それぞれ寺社に属し宗教的な行事に参勤していました。出来たのは鎌倉中期頃と言われています。同じ頃ここ若狭にも猿楽の座が出来ました。「気山座」と言われています。江戸時代になって、やがて「倉座」が気山座に取って代わります。十五世観世大夫元章が寛延三年(1753)に、江戸で興行した十五日間の勧進能に「倉小左衛門」が出演しています。この人物が若狭倉座の役者であると云われています。倉小左衛門は五番の能のシテを勤めていることから、彼は観世大夫元章の高弟であり、当時の若狭の能の水準がかなりのものだったことを示しています。その倉座が現在でも続いているのです。82代倉大夫の今井靖之助が最近引退されて、83代目の新大夫が就任されたらしいです。 |
倉座に、謡曲「恋松原」が伝わっています。敦賀の方から「若狭梅街道」を行くと、宇波西神社に着く少し前に、道路際の「恋の松原古墳」に着きます。 |
13 多田満仲の墓 〔小浜市多田〕 |
小浜駅の東3キロ、国道27号線の木崎の信号を南へ1キロほど入った所に「多田寺」があります。高野山真言宗のお寺で天平勝宝元年(749)に、孝謙天皇の勅願により、勝行上人が開いたとされています。一般に「多田の薬師さん」と呼ばれ、眼病の治療に御利益ありとして信仰されています。本尊は木造薬師如来立像で平安初期の作で2メートル位。国の重要文化財になっています。隣接するこの寺の墓地の一番奥に写真の「多田満仲」の墓と伝えられる塔があります。下は多田寺の山門です。 |
14 鵜ノ瀬 〔小浜市白石〕 |
春の訪れを告げる年中行事として、全国的に知られるのが奈良東大寺の「お水取り」です。3月に二月堂で行われる「修二会」と呼ばれる法要で、二月堂の十一面観音に国土の安泰と人々の豊楽を祈ります。2週間にわたる修行の後3月12日の深夜に、堂下の若狭井より仏に捧げる香水を汲み上げ、大きな松明が内陣を駆け巡る「ダッタン」と呼ばれる妙法が行われます。 |
15 曽我兄弟の墓 〔小浜市多田〕 |
謡曲「小袖曽我」や「夜討曽我」に鬼王と団三郎の二人が出てきます。これは遠敷の段村の三郎という一人の人物の事かもしれません。この団三郎が主人の死後帰郷して、供養の墓を建てたのに違いありません。 |
16 暦会館 〔名田庄村納田終〕 |
世はまさに「安倍晴明」ブームだそうです。夢枕獏という小説家が書いた「陰陽師」オンミョウジ
という本が元で、テレビではアイドル稲垣吾郎が主演し、映画では狂言師野村萬斎氏が主演しています。この間テレビでも放映されました。小説を読んでみましたが実に面白かったです。時は平安時代、主人公の安倍晴明 アベノセイメイ が、友人の武士源博雅 ミナモトノヒロマサ と土御門大通りの晴明の館で、美女(式神と称していろんな物を人物にする)に酌をさせ、酒を酌み交わしながら都を騒がせている鬼の話をし、その真相を確かめる為に「ゆこう」「ゆこう」と二人で出かけ、事件を解き明かしてゆきます。謡曲「蝉丸」「通小町」「鉄輪」「羅生門」「玄象」「泰山府君」などに関係のある話がどんどん出てきます。 |
17 土御門家遺跡 〔名田庄村納田終〕 |
暦会館の前に歌を刻んだ碑があります。「恋しくは゛たずね来てみよ 泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」。晴明が白狐の子であるという伝承があり、芝居になっているそうです。父の保名は悪人より狐を救い、狐は女となり保名の妻となり晴明を生みます。あるとき正体を知られた狐はこの歌を残して去ります。森の中で母狐と再会した晴明は霊力を授けられます。まだまだ続くみたいですが、詳しい事は知りません。 |
18 世阿弥船出の地 〔小浜市台場浜公園〕 |
能の大成者「世阿弥」に世阿弥十六部集と言われる著作があります。「風姿花伝」「花鏡」「至花道」「珠玉花」「金島書」などが在ります。世阿弥は足利将軍義教の怒りを買い、永亨6年(1434)、74歳の時佐渡に流されました。「金島書」の金島とは佐渡の事であり、佐渡へ流されていく道中、配所佐渡の国情、島における知見や心情などを紀行ふうにつづった「小謡曲舞集」です。 |
19 頼政と鵺退治 〔小浜市矢代〕 |
謡曲「鵺」と、謡曲「頼政」に、源頼政が謡われます。文武両道に優れた人物で、謡曲「鵺」では、頭は猿、尾は蛇、足手は虎、鳴く声は鵺に似たりと言う、鵺ヌエ本人が、頼政に射落とされる有様を語ります。謡曲「頼政」では、平家に仕え三位まで上り詰めた頼政が、平家に反逆、高倉宮を奉じて兵を挙げるが、平家の大軍に攻められ、宇治川の合戦と平等院の自害を本人が語ります。 |
20 晴明神社 〔敦賀市相生〕 |
敦賀市の中心部、気比神宮の近くの敦賀湾寄り、山車会館の裏あたりに晴明神社があります。このあたりは昔は清明町と云っていました。安倍清明を祭っています。安倍晴明は謡曲「鉄輪」のワキです。由緒の立札に寄れば、当社は往古より「保食神・食物を守護する神」の旧跡である。阿部晴明は正暦年間(990-994)当地に住み、天文地文の研究をし、日夜この神祠に参詣、信仰心甚だ篤かった。天文の奥義を究める為に供した「霊石」晴明の祈念石がある。この石は祭壇の下に鎮座しています。この敦賀の私のお稽古場は、鉄輪町にあります。謡曲「鉄輪」に関係が有るかと思いましたが、元国鉄の機関区跡に由来するようです。 |