藤 原 知 行 著 作 集

歴史家 藤原知行

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 大河ドラマ「平清盛」第1回〜第4回、とくに第4回「殿上の闇討ち」について重要情報

1.「殿上の闇討ち」事件の主会場(殿上)に、19歳の藤原俊成が居合わしていた。

2.闇討ち事件の40年前、平清盛の祖父の平正盛が、加賀国国府に検非違使として在庁していた。永長2年(1097年)に平家が日本史の表舞台に突如として登場するわずか5年前。

 1月29日放送の大河ドラマ「平清盛」の第4回「殿上の闇討ち」で描かれていましたが、その闇討ち事件(長承元年1132年11月23日)が起こった表舞台の宮中で「豊明節会(とよあかりのせちえ 新嘗祭)」と4人の舞姫による「五節の舞」が行われていました。

 今まで、『平家物語』でも、その解説でもまったく語られたことがないのですが(もちろん歴史学者や歴史小説家も知りません)、その宮中行事の中心に、平安末期から鎌倉時代初頭にかけて、和歌の第一人者となる藤原俊成(藤原定家の父、当時19歳で藤原顕広という氏名だったのでほとんど気づかない)がいました。これは某(それがし)の日本史上での大きな発見だと自負しております。

 この時、俊成が加賀守(今の石川県知事のことで、6年間今の小松市古府町付近にあった加賀国国府に赴任していた)として、能登守(もちろんこれも今の石川県知事)とともに、このドラマの主題となった「殿上の闇討ち」事件が起こっていた表舞台の殿上で行われている「豊明節会(新嘗祭)」の最重要な幹事役(4人で構成)をつとめており、能登守ともに節会のハイライトである「五節の舞」の4人の舞姫のうち2人を提供しておりました。これは、『中右記』(長承元年11月20日〜23日条)その他で確認できます。

 また、この事件の40年前の寛治6年ごろまで、平正盛が 、加賀国国府に在庁官人の検非違使(今日の石川県警本部長・金沢地方裁判所長・金沢地方検察庁長官にあたる)として実際に赴任していました。永長2年(1097年)年に平家が所領を六条院に寄進し、日本史の表舞台に登場するわずか5年前です。これは、『平家物語』「南都牒状」や『為房卿記』(寛治4年〜5年条)その他で確認できます。

 正盛が、「加賀国府の在庁官人として何をしていたか」については、某(それがし)の歴史小説『幻の湖』(【「平家物語」集のページ】】に掲載予定) をお読み下さい。


[1] 町の歴史をくつがえす二つの大石 
[2] 石灯籠の日月文 
[3] 小松菜の名称と地名〈小松〉 
[4] 金沢城の地は真言寺院の伽藍跡 




[1] 町の歴史をくつがえす二つの大石

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内容紹介
浄土真宗では、他の宗派で普通に見られる仏塔や石仏(地蔵菩薩など)をたてない。むしろ徹底的に破壊してきたほどである。浄土真宗寺院跡に築城された城の跡地から石塔類が発掘されるということは、真宗以外の寺院が以前そこに存在したと考えるべきである。
金沢城内心礎金沢城内心礎 芦城公園内水輪芦城公園内水輪

本文
 石川県金沢市の金沢城址内にある一つの大石、そして石川県小松市の小松城址内にあるもう一つの大石についてお話ししたい。
 前者は自然石を加工したもので、長径約百七十ab、上部に直径約六十abの穴が掘られている。手水鉢として使われていたという。後者は凝灰岩を和太鼓状に丸く加工したもので、胴回り百二十ab。両石とも調査は行われていなく、今は正体不明とされている。
 石造物の専門学者に鑑定を依頼すればよいのであるが、専門家でなくても石塔類に興味をもつ方は、ある程度は直感的に察しがつくであろう。以下は、筆者の乏しい知能や知識を動員し、歴史をふまえて試みた考証である。
 金沢城址のそれは「心礎」つまり、木造五重塔の床下から最上階の屋根をつらぬく心柱の礎石に違いない。心礎は塔の最も重要な部分で、火事や戦乱などにより塔が喪失した後は地面から掘り出され、手水鉢などに転用されて寺社の境内に置かれていることが多い。
 小松城址のそれは五輪塔の水輪とよばれる部分である。五輪塔特有の梵字は風化によりはっきり確認できないが、大きさや形からみて典型的な鎌倉時代の貴重な遺物である。
 どちらの石も何度か移動された形跡があるが、当初は今ある場所から遠く離れないあたりにあったと考えざるをえない。そうだとすれば、現在の定説となっている金沢城と小松城の来歴に大きな齟齬を来すことになる。五重塔の心礎や五輪塔の水輪があるということは、両城の歴史から見て道理にあわないことなのである。何かの用があって城外から運び込んだ、という確実な記録や、後世の附会ではない伝承があればそれまでであるが。
 「金沢城の歴史」の定説は、「文明年間に浄土真宗の信徒により建造された金沢御堂という寺院の跡地に天正八年佐久間盛政が築城したもので、天正十一年に前田利家が城主とになった。以後、江戸時代を通じて加賀前田本家の居城であった」というものである。
 考古学的な発掘調査で、金沢城の本丸跡地から石塔類の残欠が出土している。キリスト教プロテスタントではマリア像をたてないのと同様に、蓮如上人以降の浄土真宗では、他の宗派で普通に見られる仏塔や石仏(地蔵菩薩など)をたてない。むしろ徹底的に破壊してきたほどである。真宗寺院跡に築城された城の跡地から石塔が発掘されたり、心礎が残っているということは、真宗以外の寺院が以前そこに存在したと考えるべきである。
 一次史料優先の文献史学によって立つ歴史学者は取り上げないが、江戸期の地誌や寺伝など二次的な史料から、金沢城のあたりに真言宗「金沢寺」があったことがうかがえる。その法灯を受け継ぐという真言宗「永久寺」が金沢市東山の寺院群の中に今もある。
 金沢市中心部の歴史は金沢御堂以降の五百年足らずとされているが、「金沢寺」が確かに存在していたなら、金沢中心部の歴史はさらに数百年以上さかのぼることになる。
 「小松城の歴史」の定説は、「天正年間のはじめに一向一揆の部将若林長門守によって築かれたとされる。一揆と越前朝倉氏さらに信長軍との長期攻防の末、村上頼勝ついで丹羽長重が小松城主になった。関ヶ原の戦いを期に加賀前田本家の支城となり、一国一城令のもとでも存続が許されたが、明治維新になりすべて取り壊された」というものである。
 小松城の前身は一向一揆の城というより、戦国時代前期までの典型的な城砦であって、今日でいう高い石垣と水堀に幾重にも囲われた見上げるような天守閣を持つ立派な建造物ではなく、館のまわりに空堀と土塁をめぐらした小さなものである。
 一向一揆の以前、小松の地は人の住まない芦原だったというのも定説である。なにも無かった所に浄土真宗の一向一揆がはじめて城砦を築をいた、というのなら、小松城の跡地から石塔類が出土するはずがないのに、その石塔の一部が近年にも発掘されている。
 能美市の八幡神社にある七重石塔は、明治の初めに解体された小松城から運ばれ再生されたものであり、かつて城内三の丸だった公園内に、寺院境内の石塔であった痕跡のある石造物が点在する。そのうちの一つが凝灰岩製の太鼓状の大石すなわち水輪である。
 一次史料は失われており、寺伝などいくつかの二次的史料から検討するほかないが、それでも城地がもともとは寺地(寺院領)であったことがわかる。大寺院が存在したのは確実で、それは平安時代末期に平重盛(小松内大臣)により建立された「小松寺」を核とする寺院群である。その法灯を受け継ぐという浄土宗「法界寺」が今も市内に存在する。
 小松城の地が「小松寺」の寺地であったとすると、金沢の中心部と同じように、小松の中心部の歴史は五百年どころか八百年以上前の平安時代までさかのぼることになる。(了)

「一向一揆の砦か小松寺か30224北國」
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[2] 石灯籠の日月文

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内容紹介
神社とか寺院だけでなく、庭やその他いたる所で見られる石灯籠。その火袋という部分に対になって彫られている〈日月文〉という円型と月型の窓は「何を意味するのか」を考察してきた。伊勢信仰(神明宮)や民間信仰などいろいろ検討してみたが、筆者は石灯籠のそれは特定の信仰にもとづくものでなく、日本人の永遠の願いである〈日月清明〉〈天下太平〉を象徴化したものと結論づけるにいたった。

はじめに
 〈日月文〉とよばれる文様がある。円形(○)と月形(D)の二つを対にした文様である。日本に住んでいれば、日常ごく普通に目にしているはずである。すぐに思い付かない人に、「神社や寺院、墓地、日本式庭園あるいは庭先などにある石灯籠によく彫られているあの模様」と話せば、「ああ、あれか」と思い出されるであろう。
 石灯籠の火袋という部分の四角形をした火口の左右にそれぞれ対になって彫られている。日・月の文はすべてのものにあるわけではないが、それ以外のものが彫られている石灯籠に比べて圧倒的に大きな比率をしめているといえる。ためしに、明暦三年(1657)に当時の小松城主前田利常公によって建立された小松天満宮の境内にある石灯籠を調査してみた。総数五十四基のうち全体の三分の一強が日月文の施されたものであった。この三分の一強という割合はほぼ全国的に共通するものと考えられる。
 ところが不思議なことに、「なぜこの文様が石灯籠に、しかも定番のように刻されているのか」ということについて、石灯籠について解説した書籍にいくつかあたってみたが、どれにもまったく触れられていなかった。石灯籠を造っている地元の石材店にも問い合わせてみたが、「知らない」あるいは、「同業者に話して調べてもらったが、わからなかった」というのが答えであった。逆に「わかったら教えてほしい」という石材店もあった。
 
南加賀のいたるところにある〈日・月の石の祠〉
 筆者の地元小松市周辺の旧村落にある氏神社に、一例として、高さ70a、幅50a、奥行き40aで、前面に直径10aの円と同じ大きさの三日月が彫られた石の祠がたいていある。しかし、その大部分の由来は不明で、地元民から忘れられた存在として境内の片隅などにおかれている。所によっては、堂を建立し、その中に〈日・月の石の祠〉を安置して、〈神明宮〉あるいは〈神明さん〉として祀っているのが少数ながらある。国内の他所ではどうであろうか。
 歴史というものの常ではあるが、ひとたび、事実が発生した時点の当事者による正確な記録や伝承が失われてしまうと、あとは100l正しいとは永遠に断定しえない後世における推定でしかなくなる。

天照大御神と豊受大神
 日本の歴史にもっとも大きな影響を残した神仏習合を代表する両部神道では、伊勢神宮は天照大御神を祀る内宮と豊受大神を祀る外宮から成り立っており、それぞれを金剛、胎蔵両界の象徴とした。天照大御神は胎蔵界の大日如来であり、日天子(日天)であるとする。豊受大神は金剛界の大日如来であり、月天子(月天)であるとする。仏教では日天子は観音菩薩、月天子は勢至菩薩とすることもある。(親鸞『唯信鈔文意』)
 全国各地に鎮座する〈神明宮〉〈神明神社〉は伊勢神宮の内宮および外宮の、天照大神と豊受大神を祀ったものである。察するに、〈日・月の石の祠〉を神明宮あるいは神明さんとして祀ってあるのがいくつかあることから、〈日・月の石の祠〉の大部分は、もとは神明宮として建立されたものと判断してもよいであろう。天照大御神が日天子、豊受大神が月天子なら、その象徴として日月が刻されていることに合点がいく。
 江戸時代以来、一生に一度は伊勢参りをするものとされ、数人の仲間と近畿を巡り、また京都見物をかねた参宮旅行にでかけることが、日本の各地にひろまった。そのために伊勢講あるいは神明講というものが組織され、講金をつみたてて代表者により参詣(代参)がおこなわれた。〈日・月の石の祠〉はその折りに結成した講の記念として氏神社に寄進したものである可能性が強い。

民間信仰
 民間信仰には、たとえば道祖神、産土神、庚申待信仰、日待、月待、大師詣、北斗信仰、地神信仰などがある。いずれも、多くは講の形をとっている。しかし、〈日月信仰〉という民間信仰はなかったようである。
 日待信仰と月待信仰および庚申待信仰は、当日は特定の場所に前夜から仲間が集まって、日の出を待ち(日待信仰)、月の出を待つ(月待信仰)などをして一夜を眠らずに過ごす。何もせずにいるのではなく、念仏をとなえたり、飲食したりしながら語りあうのである。江戸時代には、徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものとなって非常に盛んであったが、現代では多くがすたれてしまっている。
 日待信仰も月待信仰も講の記念として供養塔をたてたが、それらは今も全国いたる所に残っている。特に青面金剛や猿田彦を祀った庚申待信仰はかつてはたいへん興隆し、今も多数の庚申供養塔(庚申塔、庚申塚)が各地に存在する。
 庚申供養塔は文字だけのものもあるが、典型的なものは青面金剛像を彫り、下部に〈見ざる、言わざる、聞かざる〉の三猿、そして上部の左右には瑞雲をともなった日・月が彫られている。この供養塔にある日・月は日待と月待の信仰からきている、と一般に考えられているが、筆者はこの見解に疑問を持っている。他に、「日月清明を表わし、五穀豊穣の願いを表わしている」と説く人もいる。後述するが筆者はこの後者の説に賛同する。

六十六部廻国塔
 民間信仰には入らないようだが、庚申供養塔と同じような〈六十六部廻国塔〉といわれる石塔が全国各地に多数残っている。日本の六十六か国すべてを巡拝し、国ごとに自ら写経した法華経を一部ずつ納める廻国修行で、略して六十六部あるいは六部といった。塔は修行の満願成就を記念して立てられたものである。江戸時代に大流行し、明治四年に太政官より六十六部廻国修行の禁止の布達がでたほどである。
 この供養塔に日・月が彫られているものもあるが、ほとんどは〈天下泰平〉〈日月清明〉といった文字が刻まれている。

日月灯明仏と日光・月光菩薩
 仏教に〈日月灯明仏〉という仏様がある。『無量寿経優婆提舎願生偈註』というのに《日月灯明仏、『法華経』を説きしに六十小劫なり》とある。
 〈三十日秘仏〉という行事では、一ヶ月三十日に三十の仏を配して礼拝する。一日目は定光仏、二日目灯明仏、三日目多宝仏と続き、十日目が日月灯明仏である。十五日目は阿弥陀如来、十八日目観世音菩薩、二十四日目地蔵菩薩、そして三十日目が釈迦如来である。〈縁日〉の源流はこの三十日秘仏であるという。
 太陽と月を灯明としているという意味で日月燈明仏なのであるが、観音信仰や地蔵尊信仰のように、日本ではお堂や祠を建ててまで、この日月燈明仏のみを特別に信仰した例はない。また、『薬師如来本願経』に〈日光菩薩〉と〈月光菩薩〉が薬師如来の脇侍として説かれているが、この両菩薩を特に信仰した例もない。

日・月と陰陽と家紋
 「陰陽思想や陰陽五行説では太陽が陽で月が陰(太陰)だから、日・月の文はそれにちなむもの」というもっともらしい見解がよく出るが、〈陰陽〉では日月をあえて文様にすることはない。〈陰陽〉を象徴するものとして〈太極図〉があるが、わが国では韓国の国旗として以外にほとんどみかけることはない。似たもので日本の家紋に〈陰陽二つ巴〉〈陰陽まが玉巴〉がある。
 日本人の一族一家で使用する家紋は極めて多数あり、その種類は一万をはるかに超えるという。それほど多くの家紋が存在するわりには〈日月紋〉というのが使われることはない。じつは、〈日月紋〉は皇室の御紋である。大嘗祭に立てられる錦の御旗に日・月がついている。それが家紋として日月紋が一般に使われていない大きな理由と想像される。
 皇室の御紋としては、菊紋(正確には十六弁八重表菊紋)が定着している。後鳥羽上皇が特に菊を好まれ、お印として使用されたことにはじまるという。その後の天皇も菊紋を使用され、明治二年の太政官布告により公式に皇室の御紋とされた。

祈念語と祝聖文
 石灯籠の日月文をはじめ、この文様は宗教施設以外でもいたるところで目にすることができるが、はたしてこれはあまり意味のない単なる文様にすぎないのであろうか。
 先にあげた各地の六十六部廻国塔に、〈天下太平〉〈天下泰平〉〈日月清明〉〈五穀成就〉〈萬民快楽〉〈國家安全〉といった祈念の語が刻まれていることが多い。庚申塔にも上部に日月の文や三猿の像が刻まれ、文字として〈天下泰平・五穀成熟・日月清明・風雨順時〉の文字が刻まれている例が多い。六十六部廻国塔ではとくに〈天下泰平〉〈日月清明〉の二句のみのものが多い。
 この佳句ともいわれる二句は、六十六部廻国塔にかぎらず、他にも仏教寺院の梵鐘などに銘文として刻まれている。木喰上人は、日本廻国という大願をたて、千体を越える仏像神像(木喰仏)を彫刻したが、いずれもこの〈天下和順〉〈日月清明〉の願意を込めたものだったという。
 「歌舞伎十八番 勧進帳」において、武蔵坊弁慶は安宅の関で関守富樫の求めに応じ、東大寺と大仏の建立のためとして〈勧進帳〉を即席で読み上げる。ひき続いて、山伏の由来を次のように口上する。
《おお、その由来いと易し。それ修験の法と云っぱ、胎蔵金剛の両部を旨とし、険山悪所を踏みひらき、世に害をなす悪獣毒蛇を退治して、現世愛民の慈愍を垂れ、或いは難行苦行の功を積み、悪霊亡魂を成仏得脱させ、日月清明、天下太平の祈祷を修す。かかるがゆえに云々…》
 このように日月清と天下太平というのは、昔日のわが国において、王法と仏法(政治と宗教界)および神仏宗派をこえて日頃よく唱えられた願文であり金言であったに違いない。日月清明・天下太平は、今なら人類平等・世界平和であろうか。
 筆者はその出典は『無量寿経』という日本仏教、特に浄土系仏教においてもっとも重要な教典にあると考える。
仏所遊履 国邑丘聚 靡不蒙化 天下和順 日月清明 風雨以時 災歯s起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲
【読み下し】仏の遊履するところの、国邑・丘聚、仏の化を蒙らざるはなし。天下和順し、日月清明たり、風雨時をもってし、災視Nらず、国豊かに民安んじ、兵戈用いることなし。人々、徳を崇め仁を興し、務めて礼譲を修む。
【現代語訳】仏が遊歴されるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そして世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである。
 岩波文庫『浄土三部経(上)』にある注釈が参考になる。(傍線は筆者)
仏の遊履するところ……以下、「礼譲を修むまで」の八句は古来、しばしば、引用される句として有名である。徳川時代、真言宗でも鎮護国家や除災の祈祷に、この八句をかきつけて唱えたという。(中略)また以下の一節は日本の神道にもとり入れられている。中世における伊勢大神宮の神学を完成した神道五部書の一つである『宝基本記』においては、人間のうちに至誠正直の至徳を完成したならば、〈天下和順、日月清明にして、風雨は時を以てし、国富み民安し」という状態になり、さらに進んでは兵戈も無用となる、とさえもいう。天下和順―国中、上下のものすべてがやわらぎ合い、乱れることがないこと。「漢訳」・「呉訳」は「天下太平」と訳している。(*筆者注 今日広く普及している『無量寿経』は〈曹魏の康僧鎧訳〉のものである)
 日本の仏教寺院では、年のはじめに修正会という法要が勤められる。とくに浄土宗の寺院では、修正会にこの八句《天下和順 日月清明 風雨以時 災歯s起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲》を〈祝聖文〉として念誦する。
 この一節は『大無量寿教』の〈五善五悪〉といわれる段にあり、もっともよく称えられる経文で、人間社会の究極の理想を示す。宗教宗派をこえて、神仏の恩恵を蒙ったところにはすべて、このような理想郷が現出するということである。
 〈東洋の君子国〉といわれた、わが国ではこれまで、天皇をはじめ、各時代の為政者から庶民にいたるまで、この理想を目指して努力したのである。その精神は「聖徳太子十七条憲法」に結実しているが、日本の各時代をあらためてながめてみると、それぞれの前中期にあたる期間は多くの人々にとって比較的平和で良い時代であったようだ。江戸時代のいわゆる〈元和偃武〉(偃武とは、中国古典『老子』の中の語に由来し、武器を偃せて武器庫に収めること)は兵戈無用(兵戈用いることなし)のことである。さらに遠くさかのぼれば、平安中期宇多・醍醐天皇のころもその名のごとく平安な時期であったであろう。
 大戦後の昭和後半期はというと、異論はあろうが、国内平和と経済発展で安寧の時代であったように見える。が、皇族をはじめごく少数の方々をのぞいて、いわゆる〈戦後民主主義〉のせいであろか、多くの人々は肝心の〈礼譲を修む〉ことを止めてしまった。その結果、国会論戦のあり様をみるまでもなく、東洋の君子国とはとうていえない喧々囂々としておぞましく、礼節をすっかり忘れた普通の国になってしまった。

日月清明と軍配
 〈日月清明〉すなわち「太陽が燦々と照り、清らかな月が朗々と輝き渡る」というのは、古来から日本人の理想であり願いであった。もちろん「季節ごとの天候が安定していて、異変が起きないこと」も意味する。
 弘法大師〈空海〉はその著『三教指帰』の冒頭で、《文の起り必ず由あり。天朗かなるときは則ち象を垂れ、人感ずるときは則ち筆を含む。云々》と記す。「天朗かなるときは則ち象を垂れ」は、「天気が晴朗で日月が清明なときは神仏が加護や恵みをあらわし示される」ということである。
 「本日天気晴朗なれど浪高し」という有名な美文がある。日露戦争の重大な局面で、秋山直之海軍参謀が付加し打電させた通信文の結語である。単なる報告文でなく、連合艦隊出撃時の非常な決意にあわせ、この〈神仏の加護〉を言外にもたせたものであろう。
 石灯籠にある日月文は意味のない単なる飾り穴ではない。それは鳳凰や鶴亀、雷文などの吉祥文のようでもあるが、それ以上に日本人としての永遠の理想や願望が込められているにちがいない。吉祥文の種類は多数あるのに石灯籠にはあまり使われていないのである。
 石灯籠以外に日月文が使われている例として軍配がある。相撲行司の軍配には〈天下泰平〉〈国家安全〉〈一味清風〉〈知進知退〉などいろいろ書かれているが、中でも日月文が描かれ、天下太平(天下泰平)の文字が記されたものが多い。この日月文は日月清明を文字でなく意匠として表現したもので、石灯籠にある日月文と共通するものである。

石灯籠に刻されて国中に遍満する日月文
 石灯籠の日月文に関しては、先に述べたように天照大神と豊受大神の二神を祀ったもの、とか、日待や月待あるいは庚申待といった民間信仰、あるいは日月燈明仏では説明できない。また陰陽道にちなむものでもない。明治初期まで神仏習合であったという事情はあるにせよ、神仏や宗派や信仰というものをこえている。
 筆者はそれは〈日月清明〉を意味しており、天子(天皇)から臣民(庶民)にいたるまで、神仏の加護への感謝や願いを込めて象徴化したものであると判断する。祝聖文の八句や〈五穀成就〉〈萬民快楽〉〈國家安全〉などの祈念語を簡潔に記号化すれば、畢竟するところ日・月に落ち着くであろう。六十六部廻国塔などのように文字で〈天下泰平〉〈日月清明〉と記すのでなく文様にして彫り込んだのである。
 日月清明は、「花鳥風月・雪月花が日本の文化である」というのと似ている。もっとも、文化(風俗習慣という意味での)というのは芸術と同様に、気づく気づかないにかかわらず、広義の意味での宗教(精神的行為)が根底に横たわっているのだが。
 日月紋が皇室のご紋章であるのに表だっていわれることがなく、また国民(臣下、臣民)は、その一族一家の家紋として使用してこなかった。
 考えてみるに、日本を象徴する〈日の丸〉とは別に、現憲法第一条に明記される「日本国の象徴たる天皇」のご紋章と同じ日月文が、石灯籠などにさりげなく刻されて国中に遍満し、美しい風景に同化しているのは、実にすばらしくまた誇るべきことである。(了)
参考文献 『「日・月」の石の祠の分布と謎を考える』(谷本慎吾)・『密教の本』(学習研究社)・『浄土三部経(上)無量寿教』(岩波文庫)・『浄土宗新聞(平成十一年一月一日)』


 
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[3] 小松菜の名称と地名〈小松〉

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内容紹介 「小松菜」という野菜は、江戸時代に東京江戸川区小松川辺りの産ということでその名が付いたという。では、その小松川の「小松」は何に由来するのか。筆者は、それは小松内大臣重盛(平重盛)の「小松」であると推理する。地名は貴重な歴史的文化遺産である。読み解くことによって、新たな歴史が甦ってくる。

一 小松菜の起源

 日本人の食卓になじみの野菜に「小松菜」がある。カルシウムを多く含み、栄養素のバランスも良く、おひたし、油いため、漬物など、クセがないので、毎日食べても飽きないという優れた野菜である。江戸時代末の「おかずの番付」菜食の部では、「小松菜おひたし」がベストテンに入っている。
 なぜこの野菜を「〈小松〉菜」というのかということについて、次のような話がある。
〈徳川八代将軍吉宗が、江戸近郊の小松川村(東京都江戸川区小松川)あたりに鷹狩に訪れたとき、「葛西菜」と呼んで栽培されていた菜っ葉を汁にして献上したところ大変喜ばれ、その菜に当地の「小松」を取って「小松菜」の名を賜った。〉
 小松川の香取神社(江戸川区中央四ー五ー二三〈旧西小松川〉)には、小松菜発祥の地、原産地として、境内にその記念碑(「小松菜ゆかりの地」の石碑)もある。小松菜は、今では日本の各地でつくられているが、発祥の地にふさわしく、江戸川地区を中心として、東京都の生産量が国内で一番多いそうである。

             
二 「小松川」「新小岩」と地名の由来

 地名「小松川」は、そこを流れていた「小松川」という川(現在は全長四キロメートルの小松川境川親水公園となっている)の名がもとになったであろうことは間違いない。が、何故どうして「小松」なのかというと、これまでそれほど深く詮索されてこなかったようである。
 現在、東京都内において、「小松」の地名は江戸川区小松川しか見あたらない。しかし、すぐ北側、今の葛飾区新小岩辺りは、昭和四○年ごろの住居表示変更前まで「小松」という所であった。新小岩駅北側(東新小岩)を上小松、同駅南側一帯(新小岩)を下小松といっていた。河川としての「小松川」は、その小松の地内を流れていたから「小松」という名称の河川になったことは明らかである。上流か下流にある地名と河川の名が同じならば地名の方が先である。
 六百年ほど前の室町時代初期に記された『葛西御厨田数注文』という文献がある。そこに、「小松」「小松川(東小松河、西小松河とある)」の名が、両隣の「奥戸」「本一色(一色)」「平井(上平江)」とともに見えるので、ずいぶん古くて由緒ある名称であることが分かる。
 歴史的な地名が、新小岩という便宜的に付けられた駅名にあわせて、あっさりと捨てられてしまった。それはやはり、明治以来の歴史軽視と、戦後日本の物質偏重や功利優先の軽薄な時代感覚のせいなのであろうか。
 土地の名称は、そこに住む人にとって不可欠のものであることはいうまでもない。地名は先人が残してくれた貴重な歴史的文化遺産である。だが、その歴史的な由来や起源を尋ねてみると、はっきり分かっていないのがほとんどである。地名の研究は民俗学であるが、一種の考古学でもある。昔からの地名について、命名した当事者による説明が書かれた文献などまず存在するわけはないので、由来に関しては、伝承といわれるものや、後代においてなされた推定しかない。しかし、それを読み解くことによって、新たな歴史が蘇ってくる。
 東京都葛飾区新小岩の旧地名「小松」の由来については、「こまつ」に「駒津」という文字をあてて、下総国井上駅(古代の宿駅)の故地とする説があったようだが、現在ではそれは市川広小路付近(市川市内)とされ、井上駅故地説は否定されている。「松戸」の由来が、「馬津」「馬津郷」から、「まつさと」やがて「まつど」となった…という説明の模倣のような気がする。
 別の説では、砂や粘土質の土壌であることから松の繁りやすい環境ゆえに、「松」のつく地名は、この地の植生から命名されたのではないかとも考えられている。近辺にある地名の松島、松江などはともかく、「小松」の説明には不十分で説得力がない。植物名の地名は必ずしもその地における植生をそのまま反映しているとは限らないからである。このような安易な説はよくあり、「科学的」という言葉に弱く一知半解しがちな現代知識人が陥りやすい典型的な附会の類であろう。

三 全国にある「小松」

 「小松」という名称を地名に抱く地区は全国各地に百カ所以上ある。そして、それらの「小松」の地名や苗字の多くは、今も複数が現存する「小松寺」「小松神社」などとともに、平重盛(小松殿・小松内大臣重盛)とその一族(小松家)ゆかりのものである。重盛所有の「小松庄」という庄園が、平安時代末期に全国的に多数存在したはずである。しかし、それらは平家滅亡(この稿では、桓武平氏の流れのうち、とくに正衡を祖とし忠盛以下に至る、中央政界を牛耳った伊勢平氏を「平家」と称することにする)によって、ことごとく没官領として没収され他者所有となり、名称が消え去ってしまって、今はほんの数カ所にその痕跡をとどめるのみである。
 例えば、兵庫県西宮市小松町付近は、かつて「摂津国小松庄」であった。そこはもと平家の所領(つまり重盛の小松庄)であったが、源平争乱期に平家没官領として源頼朝の手に帰し、他の平家没官領二十カ所とともに頼朝の妹一条能保室に譲られた、という。(『古代地名大辞典』角川書店)
 筆者の居住する石川県小松市の「小松」も、小松内大臣ゆかりのものに相違ないことを、近年になって明らかにすることができた。
 小松市中心部北側(郊外に加賀国の国府跡がある)に、かつて「小松寺」という寺院があった。今までのところ寺伝といわれるもの以外には、郷土史資料の文献に記載が見られないが、存在は確実である。平安時代末期(仁安二年)に、平重盛(小松内大臣)によって建立された真言宗寺院(後に浄土宗に転宗)という。史料などに現れないのは、いわゆる正史というものから恣意的に消されていたことにもよる。市内から間近に望むことのできる霊峰「白山」(標高二七○二メートル)の山頂(御前峰)にも、平重盛の寄進により、十一面観音菩薩像と社殿が建立されたことが記録に載っている。
 その土地に地名と同名の寺院が存在した場合、地名よりも寺院のほうが時代的に先である。仏教寺院では、山号名に地名を冠することはよくあるが、在所の地名をそのまま寺号や院号にすることはほとんどない。したがって、小松寺の存在が確実ならば、地名「小松」は小松寺の寺号をもとにしていることになるのである。


四 小松菜の「小松」は小松内大臣重盛の「小松」

 江戸期元禄以前まで下総国に属していた東京葛飾区の小松と江戸川区の小松川、それに当地で生産される小松菜も、名称の起源を究極的にたどってみると、「小松庄」あるいは「小松寺」すなわち小松内大臣重盛の「小松」に行き着く、と筆者は推論している。もちろん、確定的な文献は無く傍証になるのであるが、次節以下にその根拠を述べてみたい。
 深川の庵に住んでいた芭蕉翁はいい句を残している。
 
  秋に添うて行かばや末は小松川

翁の時代には、まだ小松菜という名の野菜はなかったのであろうが、江戸川柳に、重盛と小松菜の句がいくつかある。

  掃き溜めへ鶴の降りたは小松殿(悪役平家の中の善玉重盛)
  小松菜を何と売ったか平家の代(小松殿にはケチはつけられぬ)
  汐風にもまれぬ内に小松枯れ(頼朝挙兵の前に重盛が夭折)
  小松菜が枯れてまごつく蝶の群れ(平家の紋は蝶)

江戸時代の人々は、謡曲や歌舞伎にみるごとく、「小松」と聞くと、すぐに脳裏に平家の小松殿(重盛)や小松三位(維盛)を想い浮かべたことと思う。
 芭蕉翁は、北国行脚の途上、加賀国において、地名になっている「小松」にとりわけ深い余情を感じたのであろう。招待された句会の席で、俳諧連歌の発句にして詠んでいる。そして、後に著した紀行文『おくの細道』にも、〈小松といふ処にて〉という短い詞書きを添えて、その「しほらしき名や…」の句を載せている。

  しほらしき名や小松ふく萩薄  翁 
    露を見しりて影うつす月  鼓蟾
 (以下四十二の句が連なる)

将軍吉宗が、あえて「葛西菜」に「小松」の名を与えたのは、武士道の鑑たる重盛その人への敬慕であったと考えられる。しかし、当時の人々は筆者のように、「産地の地名由来が小松殿に直接つながっているのでは…」と思い至っていたのだろうか。


五 平安末期の下総国と平家との密接な関係

 平安時代末期、保元・平治の乱を通じて、平清盛をはじめ平家(伊勢平氏)が日本の中央政界の実権を握り、栄華を極めつつあったころ、関東はその多くが、伊勢平氏と同じ桓武平氏の流れをくむ秩父平氏(坂東八氏)と、その末流の武士団によって支配されていた。
 ちょうどその同時代のことである。右大臣藤原師輔の九男である太政大臣藤原為光を祖とし、下総守として親通、親盛、親雅(親政)と三代にわたって赴任し、あるいは土着していた下総藤原氏は、上総や下総および常陸国の武士団と結びついて、上総・下総の両国を睥睨していた。その実力の背景に、清盛・重盛父子との二重の姻戚関係があったことは見逃せない。下総藤原氏は典型的な準平家の一族であった。(『系図纂要第五』名著出版)
 親通より国司やその所領を継承した下総守親盛は、娘(二條院内侍)を平重盛に嫁がせており、その娘は重盛二男の資盛(新三位中将)を産んでいる。親盛の子親雅(親政)は、皇嘉門院判官代として中央に出仕し、平清盛の妹(平忠盛の娘)を妻に迎えている。忠盛の婿でありかつ資盛の伯父なのである。また、千田親政(智田判官代)として下総国千田庄などを領有し、在地領主となって土着している。準平家であるゆえに、親雅(親政)は、千葉氏や葛西氏など、まわりの桓武平氏の流れの武士団がすべて頼朝挙兵に呼応して源氏側についてからも、徹底抗戦し敗北している。(『平安時代史事典』角川書店)

六 平重盛とその庄園

 「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と、忠孝の一致しがたいことを憂えた「忠臣孝子」で知られる平重盛(小松重盛)は、平清盛の嫡男として、政界の実力者として、後白河法王の信頼も厚く温厚にしてかつ武勇の人と言われ、当時の人々の尊敬を集めていた。ことに、平治の乱で虜になった源頼朝の助命に尽力しており、頼朝は重盛に恩義があった。
 また、仏教に深く帰依し、諸国において由緒ある寺院を再興したり、寺領を寄進したり、また多数の祈願寺(小松寺)を建立したといわれている。京都の三十三間堂(蓮華王院)は、法王の命で清盛が建立したことになっているが、直接には重盛が造営していたことはあまり知られていない。
 《すべて一門の公卿十六人、殿上人三十余人、諸国の受領・衛府・諸司、都合六十余人なり。》あるいは、《日本秋津嶋はわづかに六十六ケ国、平家知行の国三十余カ国、既に半国に越えたり。その外庄園田畠幾らと云ふ数を知らず。》と『平家物語』にあるように、多くの知行国を得て、一門を国司・守護に任じ、地方へのその影響力の及ぶところは最盛期に平家・準平家をあわせて三十ヶ国を超え、無数の小さな領地はもちろん、五百以上もの庄園(荘園)を支配していた。
 当時は父清盛につぐ中央政界の大実力者・権勢者であり、平家のみでなく、皇室や貴族の間にも広く人望のあった内大臣重盛に寄進された「小松庄」が、全国至る所に相当の数で存在したこと(例えば前述の「摂津国小松庄」)は、それを裏付ける文献が無くても容易に想像されることである。したがって、葛飾区小松の地も、下総国における重盛の「小松庄」の故地である可能性が濃厚である。つまり、「小松」の名称は、かつての庄号の名残と考えられる。
 下総国国府に至近な位置にあるこの地が、平重盛に寄進されたものと推論することは、準平家一族としての親盛・親雅(親政)と重盛との姻戚関係から見ても、見当違いではなかろう。寄進の時期として、例えば資盛誕生とか重盛の参議ないしは権大納言任官の折りなど、いろんな機会があったであろう。
 よく似た事情をもつと考えられる所として、石川県小松市の中心部の他に、福井県武生市小松町がある。武生市に越前国の国府があった。紫式部が結婚前に父親(越前国守藤原為時)の赴任地であった関係で、一年あまり住んでいたことがある。この地の小松も文献が無くて分からないが、とくに越前国は平重盛の知行国でもあったので、重盛所有の「小松庄」であった可能性が強い。ここも、町中を小松川が流れている。


七 葛飾の「正福寺」

 ところで、葛飾区東新小岩四ー八(旧上小松)に、「青松山金剛院正福寺」(かつては「小松山金剛法院正福寺」と号した)という平安代後期の創建と伝えられ、真言宗豊山派に属する寺院がある。末寺を八十数カ寺もつ葛飾区内屈指の古刹であり、源頼朝から平家討伐後に五十石の寺領寄進を受け、徳川将軍からも寄進を受けているという。ご住職様のお話では、度重なる災禍や明治初頭の廃仏毀釈などにより多くの文献が失われて、開基については明白でないとのことである。(『葛飾区寺院調査報告』)
 近年発掘調査された「正福寺遺跡」(東新小岩四ー七)から、古墳時代後期、奈良・平安時代、中世、近世の遺物が大量に出土するとともに、奈良・平安時代の遺構も見つかっているという。(『正福寺遺跡U』葛飾区遺跡調査会編)往時の大寺院の歴史と規模を彷彿させるものである。小松川が、奥戸川でも平井川でもなく、またその近辺の地名を冠さずに「小松川」であるのも、正福寺のある小松地区の重要度が高かったからであろう。
 平安後期の創立、重盛に深い恩義のある源頼朝による寺領寄進の事実、宗派が真言宗、昔から変らずに国府に近い(直線距離にして五キロメートル)小松の地に立地、さらに平重盛と当時の下総国守との姻戚関係などを勘案すると、この寺院は「下総国小松寺」であったと考えてもおかしくはない。そうすると、ある時期まで小松の地は正福寺の寺領(寺社庄園)すなわち小松庄ということになる。寺領であったがゆえに、平家滅亡による没官領として他の所領にはならず、結果的に「小松」の名が消滅から免れたのであろう。


八 「小松寺」について

 三十三間堂(蓮華王院)も、いってみれば小松寺の一つなのかもしれないが、平重盛が諸国において寺院の再興、寺領寄進あるいは祈願寺建立(建立時は真言宗が多い)をした、という伝承を裏付ける例が多いのに驚かされる。平重盛建立ないし重盛ゆかりと伝わる寺院は、筆者がこれまで直接に確認した寺院だけでも、次の諸寺がある。
 白雲山小松寺〔真言宗〕茨城県東茨城郡常北町上入野
 大慈山小松寺〔黄檗宗〕岐阜県関市西田原
 箕山 小松寺〔黄檗宗〕滋賀県神崎郡五個荘町平阪
 愛藤山小松寺〔真言宗〕愛知県小牧市字小松寺
 大慈山小松寺〔曹洞宗〕愛知県知立市栄
 金華山小松寺〔浄土宗〕亀岡市千代川町千原東
 三宅山小松寺〔法華宗〕大阪府市交野市星田
 萬年山小松寺〔臨済宗〕広島県福山市鞆町後地
 紫金山小松院法楽寺〔真言宗〕大阪市東住吉区山坂
 小松山福壽院金剛寺〔真言宗〕奈良県五條市野原町
 小松山佛徳院法界寺〔浄土宗〕石川県小松市東町
 蓮華院誕生寺〔真言律宗〕熊本県玉名市築地
  実はこの他にも、過去において、重盛建立ないしゆかりの「小松寺」と称していた寺院もあるし、重盛の墓、供養塔、重盛護符の仏像などを保存するなど、寺号は異なるが「小松寺」と見なせる寺院も多い。さらに重盛公を祀る「小松神社」もいくつかある。ただし、千葉県安房郡千倉町大貫にある古刹「小松寺」については、平家小松家との関連はなく、安房国の国司であった小松民部正寿という人にゆかりがある寺院という。
 八百年という長い年月のうちに由緒が失われたり、廃絶してしまって、人々の記憶や歴史から消え去った平家小松家ゆかりの寺社も多いはずである。これだけ多くの数の小松寺の存在を調査検討してみると、葛飾の「正福寺」も、重盛ゆかりを伝える文書などが今に伝わっていなくとも、何らかの不都合で重盛との関連を示すものが失われただけで、元は「小松寺」であったと見なして間違いなかろうと思う。
 歌舞伎「一谷嫩軍記 熊谷陣屋の段」は、非常に人気の高い演目でよく上演される。その芝居の中で、弥陀六こと平宗清が、
《池殿と云い合わせ、頼朝をも助けずば、平家は今に栄えんもの、此の宗清が一生のあやまり、これにつけても小松殿御臨終の折柄、某を召され、平家の運命末危うし、汝密かに武門を逃れ身を隠し、一門の跡とむらえと …… 近国他国に建て置きし施主の知れぬ石塔は、皆此の弥平兵衛宗清が涙の種と御存じ知らずや。》と告白して号泣する場面がある。ちなみに、芭蕉翁(松尾忠右衛門宗房)の先祖はこの平宗清である。翁は伊勢平氏の末裔なのである。
 重盛の墓や供養塔として今も多数残っているものは、この芝居でいうところの石塔に当るのかもしれない。江戸時代の台本作家が、その想像力・創造力もさることながら、歴史をしっかりと読んで面白い作品に仕上げていることに、あらためて感心させられる。(了)


この論文は、『歴史研究』第四九六号(二○○二年九月号)に掲載されたものです。


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[4] 金沢城の地は真言寺院の伽藍跡

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内容紹介
金沢城の前身は一向一揆時代(十六世紀)に建立された金沢御堂とされている。近年、城趾の発掘調査により、御堂に結びつかない十五世紀以前の宗教施設の遺物が検出されている。現在、城内本丸地区に正体不明の自然石の手洗石があるが、筆者はそれは御堂以前の寺院に属する五重塔の心礎と推定する。


■金沢城の歴史について、これまでの定説
 金沢城の前身は、天文十五年(一五四六)に建立された金沢御坊(金沢御堂、尾山御坊ともいう)であり、天正八年(一五八○)織田信長軍の佐久間盛政が攻略するまで加賀一向一揆の本拠であった。その後、天正十一年(一五八三)に前田利家が入府し、以来明治二年(一八六九)まで加賀前田家十四代の居城であった。
 金沢城の歴史は、一向一揆と本願寺により金沢御坊が建立されたことにはじまり、坊舎は後の金沢城の本丸があった場所に山を崩して平地を造成し、壮大な御堂や御坊を構成するさまざまな施設からなっていたと推定されており、それが定説となっている。
 また、城内からは室町以前と認められる遺物は発見されておらず(平成八年以前)、この城地に人間が生活するようになったのは戦国期の金沢御坊以後であろうとされてきた。

■発掘調査の進展
 昭和四十三年(一九六八)金沢城内で初めての発掘調査が本丸跡地で行われた。この時の調査で、予想外であったが、伝世している城内絵図には見られない「四脚門跡」と基壇および二棟以上の礎石建物などが検出された。(「四脚門」については後述する。)
 平成八年以降、金沢城とその周辺市街地の発掘調査が急速に進展し、城地と城地に北側に隣接する前田長種系(加賀藩家老職)屋敷跡、および南側に隣接する広坂遺跡から、縄文から中世にわたる資料が確認され始めた。広坂遺跡では古代寺院の存在が確実視され、中世の居館に伴う堀や寺院と思われる礎石建物も検出されている。金沢城内からは、古代の掘立柱建物跡や土器・須恵器などの小片が確認されたのをはじめとして、宝筐印塔の塔身および相輪、五輪塔なども出土している。
 特に注目すべきは、石川県埋蔵文化センターの報告書『金沢城跡T』に次のように記述されていることである。《…資料自体はともに十五世紀以前に遡り、金沢御堂に先行する宗教施設の存在すら思わせるもので、金沢御堂の主要堂舎とは直結しない。》
 これらの調査結果により、「金沢御坊が建立された以前(十六世紀半ば以前)は、城地一帯は人の住まないところであった。」というこれまでの説は、根底から覆えされたことになのである。
 それでは、金沢御坊の以前は、その場所に何があったのであろうか。もちろん文献資料はないし、これからも発見されることはまずないであろう。国分寺の文献資料すら残っていないのに地方の廃寺院の調査研究に役立つ文献資料は、通常は何一つ残らない。しかし、文献資料が存在しないからといって研究が中断あるいは放棄されるべきではない。
 筆者(後藤)は『加越能の地名15』(二○○二・四・一)において、金沢御坊以前その地には、白山加賀馬場を統括していた「白山寺」に属する「真言宗・金沢寺」があったことを指摘している。発掘調査の結果は、それを考古学的に裏付けるものである。

■仏教考古学からの考察の必要性
 文献資料が欠如している場合には、とうぜん考古的資料を活用するのであるが、とくに石塔など仏教関係にかかわる遺物が出土した場合は、瓦や陶片などを科学的に分類整理して記録する一般考古学ばかりではなく、仏教考古学の上からも考察を進めなければならない。瓦や陶片では、寺院なのか邸宅なのか城郭なのか区別がつかない。
 「仏教関係の遺物遺跡には、大なり小なり過去の仏教活動薫臭があるはずである。それを絞り出し、その無声の声を聞くことが仏教考古学」である。(仏教考古学者・石田茂作)
 中世期の宝筐印塔や五輪塔あるいは石塔層塔の塔身の残欠が出土した場合、一般考古学では、そこは墓場であったと簡単に結論を下して、何故かそれ以上考察しないことが多いように思える。しかし、そこに仏教寺院が存在した可能性を念頭において、さらに調査をすべきであろう。石塔類は、本来は死者を埋葬したところに建てる墓標というより、仏舎利塔としての木造五重塔と同じ性格のもので、仏法のための供養塔である。
 多くの宗派に分かれている日本仏教において、ほとんど唯一であろうが、浄土真宗の宗派では宝筐印塔や五輪塔などの石塔類はもちろんのこと、木造の五重塔・三重塔は絶対に建てない。これは仏教考古学はもちろん日本仏教においては常識である。したがって、金沢城内から明らかに中世の宝筐印塔や五輪塔の類の残欠が出ているにもかかわらず、従来どおり浄土真宗の金沢御堂に関連する遺物として考証するのは、仏教について理解に欠いた非常識であり、とんでもない間違いをおかしていることになる。

■地名と山号寺号および寺号名の消えた城
 筆者はこれまで地名「金沢」・「金沢城」「金沢御坊(金沢御堂)」の「金沢」はもとは地名でなく、「真言宗・金沢寺」(現在金沢市東山にある「真言宗・永久寺」がその法灯を伝える)の寺号「金沢」に由来すると主張してきた。
 「金沢」の名称は、「金沢寺」のそれが最初であり、「金沢御坊(金沢御堂)」その後身の「金沢城」がその名称を引き継いだのである。「金沢寺」の周辺は寺領(寺社庄園)「金沢庄」であったと考えられる。もっとも、この庄名は郷土史家からもすっかり忘れられており、今日の金沢市の郷土史には全く記載されていない。「金沢寺」がどうしてこの寺号になったのかは不明だが、通説の「金洗い沢」も否定はできない。
 仏教寺院の名称に山号と院号および寺号がある。少なくとも平安時代以降においては、寺院はその立地するところの地名をそのまま寺号や院号にすることはほとんどない。しかし地名を山号にすることはある。人名の場合でも、所の地名を苗字(家名や姓)にするが地名を個人の名前(名)にすることはない。それと同様に寺院の称号も地名を寺号にしないのである。土地名はそのまま寺号にしないが、白山寺や長泉寺または善光寺のように、神聖な山や谷、あるいは沢や池の名、時には人名(戒名も)が寺号になることはある。
 地名と同じ寺号の仏教寺院があった場合、その地名より寺院のほうが先である。金沢寺の以前に地名「金沢」はなかったはずである。例えば、武蔵国浅草に浅草寺ができたのではなく、浅草寺のあったところが浅草になった。越中国高岡の地に建立された寺院の寺号は高岡寺ではなく瑞竜寺であり、山号は高岡山である。また武蔵国六浦庄金沢の地に建立された寺院は、寺号が金沢寺でなく称名寺である。
 昨今の地方自治体合併後の名称決定で、歴史的地名とともに地域の歴史が次々と失われつつあるが、城名から寺号名が消えた(消された)ことによってその土地の歴史が忘れられた例もある。山崎の合戦および細川ガラシャに関係のある勝竜寺城や、近江の観音寺城などは自明であるが、岡山城や富山城などは岡山寺、富山寺がその前身であったことなどは後世になってすっかり忘れ去られてしまった。

■本丸跡の礎石群について
 前述したように、昭和四十三年金沢城内における最初の発掘調査で、本丸西区調査地から「四脚門」(「よつあしもん」とも読む)の礎石など、建物の遺構が発掘された。金沢城では「石川門」とともに数少ない江戸期以来の現存建物の一つに「三十間長屋」がある。発掘地は、その向かい側の「鉄門跡」より本丸跡地へ向かって東に七十メートルほど入った地点である。
 ところで、発掘された遺構のうち「四脚門」というのはどの絵図にもないが、金沢城本丸殿舎群の一部と推定されている。が、それは誤解である。これまでのように「この地に最初に金沢御堂が建てられ、それを近世城郭にしたのが金沢城である。」という固定観念にとらわれた発想から導き出された誤った推論である。
 「四脚門跡」とされる柱間百八十jkの正方形の四個の礎石群は「四脚門」の礎石ではない。この遺構の場合、礎石は四個しかないのである。にもかかわらず「四脚門跡」と判断するのは明らかに間違いである。「四脚門」というのは二本の本柱と、それらを支える二本ずつの控柱四本の合計六本の柱(もちろん礎石は六個)からなる門のことである。つまり、本柱ではなく、控柱が四本ある門を「四脚門」というのである。ちなみに、本柱四本控柱八本の「八脚門」の礎石は合計十二個である。礎石が本柱と控柱のそれを合わせて四個になる門は、形式からいうと「薬医門」あるいは「高麗門」である。
 たとえ、この遺構が四本足の「薬医門」あるいは「高麗門」であったとしても、門であるならば、礎石は正方形ではなく長方形に並ぶはずで、しかも本柱と控柱の礎石には大小の違いがあるのが普通である。この四個のしかも正方形を形作る礎石群は、柱間がそれぞれ百八十jkしかなく、奥行きはともかく間口が狭すぎて「門」と判断するには無理がある。そもそもこの地点に「門」が存在したというのも奇妙である。
 それではこれらは何の礎石なのか。筆者は、金沢城本丸殿舎でもなく金沢御堂の堂舎でもなく、御堂以前に存在した寺院の「木造五重塔」の「四天柱」の礎石と判断する。金沢御堂という浄土真宗寺院や金沢城のような近世城郭では木造の五重塔は建てない。
 木造層塔(三重・五重・七重)では、まず正方形基檀の中央に、塔の最も重要な心柱を据えるための礎石(塔心礎、心礎)を埋め、その上に心柱を立る。そして、その四方に四天柱を立て、さらにその外側の四隅に側柱を立てて、各側柱の中間にそれぞれ二本の側柱を立てる。すなわち合計十七本の柱があり、それぞれに礎石が配されている。心柱のための礎石をとくに「塔心礎」あるいは単に「心礎」と呼ぶ。
 塔心礎は、塔を建てる際の最も大事な心柱を地面に垂直に据えるための礎石であり、重要な役割を果たす。心礎があれば、確実にその上に木造層塔が建っていたことになる。もちろん塔は仏教寺院特有の建物であるから、塔心礎があれば、そこに古代寺院とその伽藍が存在したことの証明になる。木造層塔の基檀と心礎の発掘によって寺院造立時の姿を明らかにすることができる。
 この遺構では、よくあるように、十七の礎石のうち四天柱の礎石配置だけがほぼ原型をとどめていて、他のものは後世において人為的に移動されたのであろう。四天柱の礎石と推定できる礎石群の真ん中に心礎があったはずである。心礎は後世において抜き取られることが多く、庭石や手水鉢などに転用され珍重されている例が全国各地に多数ある。そこにあったはずの心礎は、抜き取られて一体どこへ行ったかのというと、実はすぐ近くに今もあるのである。

■三十間長屋前の「手洗石」
 『金沢大学資料館だより bT』の「金沢城本丸跡の石造遺物」に次のようにある。
《金沢城本丸とその周辺に二点の石造遺物がある。それらは一向一揆の研究で知られる本学法文学部故井上鋭夫教授が関心を寄せたものである。一点は手洗石と呼ばれる巨石で、もう一点はその後資料館所蔵となった石層塔(あるいは宝筐印塔)の塔身である。二の丸から極楽橋を渡り石段を上ると、三十間長屋のある平面に出る。ここに「手洗石」という、中央に窪みを持つ巨石があり、長径一七六jk、短径一一三jk、高さ七一jkで、窪みの直径五九jk、深さ一九jkを測る。これは、藩政時代石垣に組み込まれたとされる巨石と対をなし、柱の礎石になっていたという言い伝えがある。》
 『金沢城の発掘』(井上鋭夫)には手洗石について、次のように書かれている。
《さらに極楽橋を渡ったところには、藩政時代から石段が築かれており、これを登り切った平地(本丸付段)に手洗石という巨石がある。利家入城の頃は二箇あったが、一つは薪の丸の石垣にはめこまれたと伝えられる。手洗鉢用の石が二つ本丸付段にあるのも不可解であるし、その形状も手洗用には不向きであって、中央部を丸くくりぬいたところは、巨大な柱の礎石として用いられたようにも見られる。もちろん国分寺や太宰府などの礎石とは形状を異にするが、真宗寺院建築が、根石を敷いた上に掘立式に柱を立てた道場の進化したものであることを思えば、この二箇の手洗石は、御堂の内陣の本尊の両側に建てられた巨柱の礎石と見るととはできないであろうか。》
 ここに言及されている手洗石は、現在も三十間長屋の前に置かれている。どこにでもあるような自然石で、「金沢城公園」として整備されたのにもかかわらず、表示もなく木の下に放置されているので気付く人はほとんどいない。伝承のみで確実な文献がないせいか、今は「手洗石でない」とされているようである。
 よく調べもせずに、「文献がなく解らないから手洗石でない」という安易な考えで放置しているとしたら、あまりにも粗略な行為である。しかも、この手洗石が『金沢城東御丸御本丸絵図』(金沢市近世資料館蔵)などにしっかりと記載されているにもかかわらず。
 「手洗鉢」の記載がある絵図では、本丸部分の西側中ほどに「御広間・御番所」があり、その西側の玄関から、「鉄門」(現在も跡が石垣として残っている)まで、全長一八kほどの石敷の舗道が描かれている。その舗道の東縁に「手洗鉢」が置かれているのが図の中に確認できる。例の「手洗石」が現在ある位置からはさほど離れていない所である。絵図にある「御広間・御番所」は、金沢城の初期に存在したといわれる天守閣が慶長二年(一六○二)に焼失した後「本丸御殿」として使われており、それも寛永八年(一六三一)に焼失した後は、城の中心建物のとしての機能は「二の丸御殿」に取って代わられたとされている。

■金沢城本丸の地にかつて五重塔が聳えていた
 『金沢城の発掘』には「手洗石」について、《その形状も手洗用には不向きであって、中央部を丸くくりぬいたところは、巨大な柱の礎石として用いられたようにも見られる。もちろん国分寺や太宰府などの礎石とは形状を異にするが、…》と書かれている。しかし、この手洗石は「手洗用には不向き」なのでなく、日本各地の神社や寺院の境内に手洗鉢(「手水鉢」とも)として置かれている多くの心礎と、全体の形や大きさ、柱座の穴もよく似ており、塔心礎から転用された手洗石と断定してよいものである。例えば、新免廃寺の塔心礎(豊中市看景寺境内)とほぼ同寸であり、礎石群の配置は本薬師寺東塔跡(橿原市)やその他の四天柱礎石が元のまま残っている遺跡の例と同じである。仏教建築史上からも「金沢御堂内陣の本尊の両側に建てられた巨柱の礎石」というものではありえない。
 この手洗石こそ、金沢御堂のはるか以前にこの地に聳えていた五重塔の基壇跡から抜き取られた心礎が手洗鉢として転用され、ある時期には金沢城本丸御殿前に置かれて使用され、現在は三十間長屋の前に放置されているものである。『金沢城の発掘』の記述のごとく、正体不明で理解されないままであったが、絵図によれば、すくなくとも藩政時代には本丸内で実際に使用されていたのは明白である。決して城外から持ち込まれたものではない。
 この心礎は、かつて金沢城本丸の地に五重塔が建っていた証拠となるものである。その塔は柱間一・八k、初層の縦横が五・四k、高さは二十数kあったと推測できる。標準的な規模である。金沢市郊外の石川郡野々市町に白鳳時代の遺跡という「末松廃寺跡」がある。そこの復元された塔基壇にたたずむと、往年の木造塔の姿が彷彿としてくる。末松廃寺のは七重塔らしく、柱間三・六k、初層の幅が約十kとかなり大きい。
 金沢城本丸の地に建っていたと考えられる五重塔は、「真言宗・金沢寺」のものであるか、あるいは、はるか奈良時代にまで遡る寺院でのものであるかは、今のところわからない。「金沢寺」は真言宗寺院であるので、伽藍には五輪塔をはじめ各種の石塔類が林立し、寺院の盛時には五重塔が一塔ないし二塔(東塔・西塔の二対)建っていて当然である。
 発掘された「二棟以上の礎石建物」とは、もう一方の塔ないしは金堂とも考えられる。木造の層塔は落雷などで焼失しやすいので、その跡地に石造の多重塔などが立てられることが多い。同じ本丸跡地にあったという石層塔の塔身はそれに相当する可能性もある。
 前述のように、城地のすぐ南側に位置する広坂遺跡では、古代寺院の存在を示す遺構や中世の居館、それに伴う堀や寺院と思われる礎石建物も検出されているので、高台の城地にも仏教寺院の伽藍が存在したことは想像に難くない。
 真言宗寺院において顕著な多数の石塔類は、後世において、石塔を必要としない城郭寺院「金沢御堂」や近世城郭「金沢城」の基礎や石垣用材としてほとんど転用されたのであろう。それは姫路城をはじめ各地の近世城郭の石垣を注意深く見分すれば納得がいく。また、「兼六園」の中に配置されているいくつかの石塔類は、その一部と考えられる。
 木造層塔の心礎は塔の最も重要な部分でもあり、石の祟り(『続日本紀』宝亀元年二月の条に、「西大寺東塔の心礎の石祟り」の記述がある)を避けて、神社や寺院の境内に手洗鉢(手水鉢)として大切に使用されたり、庭園の庭石になっていたりしている。
 後世において多くが失われたとはいえ、金沢城三十間長屋前の手洗石のように、全国には知られることもなく、郷土史からも忘れ去られた多数の貴重な心礎が放置されているに違いない。文献資料にない、文献資料に代わる貴重な歴史の証しである。考古学において、塔心礎の研究は意外にすすんでおらず、各地の郷土史家による調査が期待される。




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