痛みを抑える生理機構
慢性疼痛に対処するために人間に備わった痛みの防御機構ともいうべき生理機能については,現在大きく分けて以下の3種類の疼痛抑制機構があるといわれている。
第一は脳内モルヒネを介する機構である。モルヒネは現在人間が使用できる最も強力なアヘン誘導体の鎮痛薬であるが,元来人類は中枢でモルヒネの数倍強力なモルヒネ様鎮痛物質(endolphin)を産生しており,脳内にはモルヒネ類の受容体が豊富に存在する。1973年の脳内モルヒネ受容体の発見と1975年の脳内モルヒネの分離などの発見以後は急速に研究が進歩し,現在ではいろいろな場合にendolphinが関係していることがPET(Positron
Emission
Tomography)などによる研究で知られるようになった。
疼痛抑制機構の二番目としては,神経伝達物質を介したものが知られている。これはセロトニンやノルアドレナリンなどの生体モノアミン類が,痛覚刺激の伝達を抑えるというもので,セロトニン,ノルアドレナリンはいずれも脳幹部(青斑核,縫線核など)に多く存在し,おのおのの核から脊髄へ痛覚抑制神経が下行性に分布している。Endolphinを含め脳から脊髄へと上から下へ伝わる抑制系であるため,下行性痛覚抑制機構といわれている。ほかに上記の生体モノアミンは睡眠や覚醒などにも関係しており,痛みと覚醒度との関係,つまり痛みを加えると意識がはっきりする,などの関連性がうかがわれる。
第三は脊髄自体の構造にある。痛覚情報は神経根を介して脊髄後角に入るが,この後角の膠様質という部分には特別の神経機構がある。この部分のはたらきを説明する理論としては,有名なゲートコントロール理論に代表される種々のものが提唱されている。ゲートコントロール理論とは,1965年に米国の疼痛研究者であるMelzackとWallにより提唱された疼痛伝達抑制に関する理論である。簡単にいえば,脊髄後角内に痛みを伝えるか遮断するかのゲート(門)があり,門を開けるのが痛覚神経からの刺激で,閉じるのがそのほかの感覚神経からの刺激であるという仮説からなっている。これらの疼痛抑制神経機構に関係するのは,神経の興奮・抑制を起こす各種の神経伝達物質であるが,慢性疼痛においてはその神経機構そのものが変化し,本来は痛みを抑制するはずの部分がむしろ痛みを伝えやすくする機構に変わっているといった事実も証明されている。また脊髄後角においてもendolphinが重要な痛みの抑制作用をもつことが知られている。これらの下行性抑制系と脊髄後角抑制系は,通常の場合は種々の痛みを抑えるのに有効にはたらいているが,慢性疼痛の場合はこれらの機能が低下しているのである。したがって慢性疼痛の治療目標の一つは,これら疼痛抑制神経機構を十分にはたらかせる状況をつくることでもある。
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