人間工学についての激しい諭争

Bitter Debate Over Ergonomics


職業安全衛生管理局(OSHA)が提案した人間工学に基づく指針を巡って,長い間,沸騰寸前であった論争が,とうとう敵意に満ちたあぶくを立てて沸き上がった。

複雑な科学的根拠について冷静に議論すべきところが,激しい非難の応酬になってしまった。提案された指針の最も強力な代弁者であるOSHA長官のCharles N.Jeffress氏は,国内各地で行っているスピーチの中で,毎回,仕事に関連した筋・骨格系障害に関する根拠について間違った発言をしている。彼は人間工学的基準は科学的根拠によって明らかに支持されていると主張しているが,それは違う。また,医学界には人間工学的基準を支持するコンセンサスがあると示唆しているが,そのような合意はない。

反対意見を唱える医療者側は,筋・骨格系障害は職場における人間工学的問題の直接的な結果であり,人間工学的な解決法がそれらの障害を予防もしくは緩和できるという質の高い科学的根拠はほとんどないと主張している。彼らは,提案された指針は精一杯良くいっても当てにならない,悪くいえば不誠実で横暴でさえあると断言する。

ボストンで開催されたAmerican Society for Surgery of the Hand (ASSH)の最近の年次総会での,累積的外傷障害に関する教育コースにおいて,Michael I.Vender博士は仕事に関連した筋・骨格系障害について「原因および予防についてのコンセンサスはありません」と主張した。Vender博士は,米国整形外科学会(American Academy of Orthopaedic Surgeons)の職業上の障害に関する委員会の委員長である。

Vender博士は,国立科学アカデミーによる最近の文献レビューによって明らかになったのは,「より多くの研究が必要」というただ一点しかコンセンサスがないことだ,と付け加え,「[人間工学的基準に関する]科学的基礎が不足しています」と述べた。

他のパネルメンバーによるコメントは,この討論がどれほど厳しい調子でなされたかを物語っている。ケンタッキー州ルイビルの整形外科医Morton Kasdan博士は,提案された基準を「人間工学の専門家のための完全雇用法」と言い換えた。

過去数年間,OSHAは,米国の労働者を筋・骨格系障害から守るための規制を設けようと試みてきた。1995〜1997年までは連邦議会は公費の支出を禁じて人間工学的基準策定の動きを抑えて
きた。しかし,1998年に連邦議会がその方針を変え,OSHAは1999年2月までに提案された指針のたたき台を明らかにした(0SHA,1999年を参照)。Jeffress氏はその後間もなくプログラムのための熱心な議会への働きかけを開始したのだが,彼の議論は現実とはかけ離れている。

「筋・骨格系障害を仕事と結びつける『確かな科学的根拠』はないと非難する人がいます。そんなばかな!」Jeffress氏は,6月のAmerican Federation of State, County and Municipal Employeesの会合で大声で叫んだ。

Jefferss氏は,7月21日に全米製造業者協会(NAM)で,「職場における人間工学に関する科学的根拠は繰り返し証明されています。過去75年間に2,000を超える研究が行われており,その中には高名な国立職業安全衛生研究所および国立科学アカデミーによる2つの文献レビューも含まれているのです」と,語った。新指針は科学的根拠に裏付けられているのだから,その義務化を遅らせるべきではないと米国政府は示唆した。

「結論はずばり,人間工学的プログラムは機能します。そのメッセージがなぜ,ここ[NAM]では非常に理解されにくいのでしょうか。科学者にとって明らかなことですし,医師や看護婦にとっても,安全衛生の専門家にとっても明らかなのです」と,彼はNAMで述べた。

「我々は科学的に“確認されたこと”に対し,座して待ったり,先送りしたりするつもりはあり'ません」と,彼はあるメディア報道でつけ加えた(Superville,1999年を参照。)

実際には,科学的に“確認された”わけではない。新規の人間工学的基準を支持する科学的根拠は粗雑で欠陥を有する。結論はなく,極めて複雑である。

このことを理解するには,Jefferess氏の引用した国立科学アカデミー(NAS)の報告書(NAS,1999年を参照のこと)そのものを見れば十分である。報告書は,1997年の520ぺージにわたる膨大なNIOSH文献レビューの第、3者的評価である(NIOSH,1997年を参照)。NASの報告書によれば,それらのレビュー全体を通して現在ある科学文献の根本的な限界について繰り返し述べている。

NASパネリストのMartin Cherniack氏は,人間工学的介入に関する考察の中で,報告書は“実験に基づく方法とそれを応用した調査方法で,本質的矛盾と論理的矛盾を際立たせた,急速に影響力を持ち始めた手に負えない文献”である,と論評した。

事実,NAS報告書では全ての重要テーマに関する全ての声明に対し,1つまたは複数の警告がついている。例として,疫学的研究の中の生体力学的因子に関する章を取り上げてみよう。

NAS報告書は,仕事をする人々に苦痛や疼痛が生じると述べている。報告書によれば,疫学的研究の結果は,“筋・骨格系障害の発生と仕事との間には正の相関関係がある”ことを示している
という。腕や手に比較的大きな負荷のかかる仕事に携わる者(例えば,製材,自動車組み立て工)は,上肢疾患の有病率が通常よりも高く,一方,背中や腰にストレスのかかる仕事に携わる者(例えば,資材取り扱い業者や,患者を抱きかかえたりする医療従事者)には,腰の障害がみられることが多いと付け加えられている。

さらに報告書では“生体力学的ストレス量が低下すると,影響を受ける部分の筋・骨格系障害の有病率も低下する”とされている。

その一方で,報告書は,これらの結論を支持する研究の限界を指摘することもおろそかにしていない。その限界とは,これらの研究は“時間的接近”(すなわち,ストレッサーと言われている因子とそれによって起こったとされている障害との間の明らかな時間的相関関係)を確立できないこと,ストレッサーと言われている因子を取り除いたときに,その障害が消失したという証拠がないこと,および検討されている筋・骨格系疾患の臨床経過にっいての経過観察が不十分であることなどである。

さらにNAS報告書は,仕事をしていない人々についての研究が“非常に不足している”と指摘している。したがって,ある筋・骨格系障害が仕事に従事していない人よりも,従事する人々に多いという証拠は,今までのところほとんどない。

NAS報告書におけるこれらの警告は,他の知見によってさらに裏付けされている。

報告書では,「妥当と思われるが計測不能の因子だけでも,筋・骨格系障害の発生率における差の一部または全てを説明することができるであろう。言い換えると,生体力学的ストレッサーまたは他の何かの因子によって,筋・骨格系障害の発生率が高くなるかどうかについて,決定的な答を出すことはできないであろう。これは一般的に,疫学的研究に共通した問題である」と述べている。

最後に恐らく最も重要なことであろうが,NASの報告書は,キーボードのタイピングのようなあまり力を使わない仕事が筋・骨格系障害を引き起こすと結論付けるには根拠が不十分であると述べている。「低レベルの生体カ学的ストレッサーに暴露される集団で,筋・骨格系障害の発生に生体力学的ストレスが果たす役割に関する証拠は,依然としてあまり決定的なものではありません。ただし,今後の研究のべースとして役立ちそうな因果関係を示唆する,質の高い研究がいくつかあります。低レベルの生体力学的ストレスの場合は,筋・骨格系障害に対して他の因子が寄与する可能性を考慮することが重要です」と,報告書は述べている。

他の因子とは何か、どんな寄与をしているのか?

それらの中には,時間的圧迫,仕事の満足度および仕事の監督といった組織的因子がある。「一般的に言って,仕事の内容に不満があること例えは,不十分な仕事の統括(task integrate),仕事への積極的なかかわり方の欠如(task identity),およひ仕事の要求度が高いことが,筋・骨格系障害の発生率の高さと関連することが認められた。仕事の裁量範囲(job control)が筋・骨格系障害の報告に与える影響は,文献から中程度の支持を得ている」と,NAS報告書は述べている。

年齢,体力,レクリエーション活動,仕事とは別のストレス,合併症(例えば,肥満,糖尿病,慢性関節リウマチおよび甲状腺疾患)といった個人的因子の寄与はどうだろうか?NAS報告書は,特定の因子(年齢,医学的疾患および肥満指数)が,疫学的研究において生体力学的因子が寄与するとされ
た障害の原因となる“かなりの妥当性”があると述べている。しかしながら,これらの因子が“障害発生を予想する高い危険因子となるのはまれである”とつけ加えている。これにもまた警告がついている。「危険度の低い因子であっても,大きな母集団で正しく測定すれば,統計学的に有意となるであろう」。

おそらく人間工学は,職業上の筋・骨格系の痛みや損傷において,ある程度の役割を果たしているのであろう。しかし,前述のように,職場が筋・骨格系障害発生の中心的原因になっているという決定的証拠は現在ほとんどない。科学的な研究によって,職業時の身体的ストレス,余暇時の身体的ストレス,心理社会学的因子,遺伝学および他のさまざまな種類の影響との相関関係についてさらに特性解析を進める必要がある。これらの複雑な相関関係がわからないまま,大規模な人間工プログラムを義務付けることはどうみても道を誤っている。

提案されている人間工学的指針によって何が起きるのか,現時点では明らかではない。国立科学アカデミーは,現在,人間工学的および筋・骨格系障害に関する証拠についての新規の文献
レビューを行っている。連邦議会のメンバーは,そのレビューが完了するまで,指針についての詳細な検討を延期したがっている。しかしながら,どうやらOSHAはできる限り速やかに指針案を通過させようとしており,まもなく,一般からの意見聴取のために指針案が提示されるであろう。

OSHAはこの近視眼的なやり方を止めて,より決定的な科学的根拠がなされるのを待つことが望まれているが,その可能性は低いように思われる。OSHAは“sound science(明確な科学的根拠)”を理解することに根深い問題を抱えているからだ。

参考文献:

National Academy of Science, Work-Related Musculoskeletal Disorders : Report, Workshop Summary, and Workshop Papers, National Academy Press, Washington, DC, 1999. (phone 
800-624-6242 or 202-334-3313) 

National Institute for Occupational Safety and Health, Musculoskeletal Disorders and Workplace Factors : A Critical Review of Epidemiological Evidence for Work-Related Musculoskeletal Disorders of the Neck, Upper Extremity, and Low Back, U.S. Department of 
Health and Human Services (NIOSH) publication N0.97-141, July 1997. 

OSHA, Working draft of a proposed ergonomics program standard, 1999 ; 
www.osha-slc.gov/SLTC/ergonomics/ ergoreg.html. 

Superville D, House Votes on Work Injuries Rules , Washington Post, August 4, 1999. 


The BackLetter 1999・14 10 :100 114 115. 

加茂整形外科医院