第十三巻  東北奥の細道謡曲古跡U
 八百年ほど前に西行法師が訪ね和歌を残し、五百年後にそれを慕って芭蕉が訪ね「奥の細道」を書き、それを慕って三百年後に、私がここ東北地方の謡曲古跡を訪ねてきました。昨年に続き二回目です。一回目で見残した分も周りました。

 奥の細道本文「須賀川の駅に等窮というものを尋ねて、四、五日とどめらる。」
芭蕉はここで
風流の初めやおくの田植うたと詠んで句会を開いています。

 奥の細道本文「この宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやとしずかに覚えられて、ものに書付侍る」世の人の見付けぬ花や軒の栗

 写真は須賀川の等窮の屋敷跡です。俳句にちなんで大きな栗の木が植えてあり、実を付けていました。市役所前に芭蕉記念館が出来ていました。

 芭蕉はこの後、安積山を通り謡曲「黒塚」の岩屋を一見して福島に泊まっています。奥の細道本文に、かつみ、かつみと探して歩いた[ハナカツミ]は、いろんな説がありましたが、最近は[ヒメシャガ]という事にほぼ定着したらしいです。

 写真のヒメシャガは、別の用事で東北に出かけた5月に、福島駅構内に植えてあったものを撮ってきたものです。




 奥の細道本文「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、信夫の里に行く。遥か山陰のの小里に、石のなかば土に埋もれてあり。里の童来たりて教えける。「昔はこの山の上に侍りしを、行き来の人の麦草を荒らして、この石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面下ざまに伏したり」と云う。さもあるべき事にや。」

 我々もこの石を尋ねて、福島市の
「文知摺観音堂」に行きました。百人一首にみちのくの信夫文知摺誰ゆえに 乱れそめにし我ならなくにとあります。この歌は謡曲「融」のシテ河原左大臣、源融の歌です。

 立て札によれば「源融がこの里に来て長者の娘虎女となじんだ。しかし間もなく融は虎女を置いて帰京。再会を待つ虎女は、この石の面に融の面影を見たという。石は想う人が映る鏡石として有名になり、見物人が押し寄せた。」
 芭蕉の本文は、この事を云っているのでしょう。石が発掘され現在の地に置いたのは明治になってかららしい。ちなみに「文知摺石」は平安時代に、この石の表面に忍ぶ草などを摺り付け布に写したもので、文字ではなくてもじり乱れたことをあらわすらしい。
  写真は
「文知摺観音堂」です。

 芭蕉はこの後、佐藤庄司の旧跡を訪ねています。庄司は佐藤基治という豪族で、平泉の藤原秀衡の元でこの付近を治めていました。平泉にいた義経が、頼朝が挙兵したのにあわせて鎌倉に駆けつけたとき、基治の二人の息子、継信と忠信が家来として従いました。

 
佐藤継信は、謡曲「八島」に謡われる如く、屋島の戦で義経の身代わりになって、能登守教経の矢に倒れ、佐藤忠信は、謡曲「吉野静」に謡われる如く、吉野山で僧兵に攻められるのを、防矢をして一行を脱出させていますが、その後六条堀川の判官館に居るところを攻められ自刃しています。

 奥の細道本文「佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半斗にあり。飯塚の里鯖野と聞きて尋ね尋ね行くに、丸山に尋ね当る。これ庄司が旧館なり。ふもとに大手の跡など、人の教ゆるにまかせて、泪をおとし、また傍らの古寺に一家の石碑を残す。 笈も太刀も五月にかざれかみのぼり 五月一日の事なり」


 傍らの古寺とは飯坂温泉の近くの「医王寺」です。佐藤基治・乙和夫妻と、子の継信・忠信兄弟の菩提寺です。写真は、笈も太刀も五月にかざれかみのぼりの芭蕉の句碑です。笈とは弁慶の笈、太刀は義経の太刀のことで、宝物館にありました。

 医王寺の奥、杉並木を200メートルほど行くと奥の院薬師堂があり、周りは古い墓碑がずらりとあります。写真は継信・忠信兄弟の墓です。やわらかい石なのか崩れかけです。
 
 義経弁慶の一行は平泉へ落ちてゆく時、この寺に寄り、基治に兄弟の武勲を伝え、追悼の法要をしたとの事です。


 謡曲「摂待」という大曲があります。舞台はこの医王寺です。佐藤兄弟の母・乙和が都落ちの義経一行を、山伏接待の高札をあげて待ち受けています。基治の死後の後家というのは謡曲作家の創作らしいです。一行は身分を隠しているのに、老尼は古い記憶で探し当てます。

 さて、義経一行は平泉の秀衡のもとに身を寄せましたが秀衡は病没、その子泰衡に攻められて、高館で自刃。弁慶も立ち往生の死。頼朝は泰衡の義経討ち取りを武勲と見なさず、逆に奥州征伐の兵を出します。基治は激戦の末討死。又は生け捕られたが、頼朝が泰を討ち取った後開放されたとの事です。

 佐藤基治・乙和の夫妻の墓の傍に、謡曲「摂待」のシテ乙和の植えた「乙和椿」の大樹があります。兄弟二人を死なせた母の想いか、花は咲けども開くことなく、つぼみの内に全部落ちるそうです。芭蕉でなくとも泪は落ちるばかりです。


 芭蕉はこの後白石市を通ります。佐藤継信・忠信兄弟の妻の像を祭る「甲冑堂」は、白石市の郊外に鎮座する「田村神社」の境内にあり、御影堂、故将堂などとも呼ばれています。
芭蕉は先程の医王寺の稿に次のように書いています

 奥の細道本文「中にも、二人の嫁がしるし、まず哀れ也。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつる物かなと、袂をぬらしぬ。」
 この話は、継信と忠信の妻たちは、息子二人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装ってみせたというものです。
 この「甲冑堂」の中に二人の嫁の女武者像があります。鍵が掛かっていましたが、ガラス越しにわずかに見えます。芭蕉の云う「二人の嫁がしるし」はここだと言われています。話の筋として医王寺に書き換えたのでしょう。

甲冑堂
 芭蕉と曽良が元禄2年(1689年)5月3日に拝観した甲冑堂は、明治8年(1875年)の6月に放火で神社とともに焼失し、当時の様子をうかがい知る事は出来ません。現在の甲冑堂は昭和13年に再建されました。右が、継信の妻の楓。左が忠信の妻の初音だそうです。この写真は雑誌よりの転載です。

 私たちは白石の簡保の宿に泊まりました。白石では白石城と他に新しい能楽堂が出来たとかで見に行きましたが、休館日で中に入れませんでした。




 宿より蔵王のお釜まで、エコーラインで1時間半、台風の影響も少なく、快適のドライブが楽しめました。頂上付近は晴、もう紅葉が始まっていました。






 帰りは山形県側に下山、芭蕉が訪れた「立石寺」通称「山寺」を訪れました。

 奥の細道本文
「山形領に立石寺という山寺あり。慈覚大師の開祖にて、ことに清閑の地なり。一見すべきよし人々のすすむるによりて、尾花沢よりとって返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿借りおきて、山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて、物の音聞こえず。岸をめぐり、岩を這いて、仏閣を拝し、佳景寂寞として、心澄み行くのみおぼゆ。    閑さや岩にしみいる蝉の声

 芭蕉の名句と漢文調の名文はここで生まれました。

 私も、ペットボトル一本持って、杖を突いて、1000段以上あるこの階段に挑みました。蝉こそは鳴いていないけど、猛暑の名残で汗だくだく、途中の「蝉塚」のある休憩所で、丸い力こんにゃくを食べ、岩上のお堂をくまなく周ってきました。
 上の写真はもう頂上近くの仁王門。下は慈覚大師入定窟の上の小さな堂。そばの五大堂からは眼下の絶景が望めます。



 前から来たかった立石寺に、とうとう来れました。なぜか下山の途中、飯島佐之六師を想い出しました。癌で手術をして元気になって、退院してすぐ、ご夫婦でドライブ旅行に来たのが、ここ立石寺だと聞いていたからです。彼もここに来たかったのでしょうか。彼が亡くなってもう一年たちました。彼の葬式の数日後に、今度は私が、軽い脳梗塞と診断され半月入院しました。なんとか元の生活にもどってはいますが、何となく複雑な気持ちです。
                     旅行日 2004.9