第五巻 琵琶湖の湖北ドライブ
 長浜にドライブに出かけました。高速を今庄インターで降り、国道365号線を走り栃ノ木峠越えで、滋賀県に入る予定。この道を選んだのは謡曲「安宅」の道行きに「松の木乃目山、猶行く先に見えたるは杣山人の板取」とある板取宿を通るためです。義経一行は敦賀より木ノ芽峠を越えて、板取宿を通り今庄に出ています。この道には現在でも車道はありません。木ノ芽山嶺は北陸道に入るには、越えなければ成らない難所でした。都の人はこの山を越えて入る国を、越の国と呼びました。板取の宿には今でも昔の家が残されていました。



 国道は栃の木峠を越えてすぐ滋賀県の余呉町に出ます。どんどんと下って行くと、余呉湖の近くを通ります。右に折れ余呉湖のほとりに出ると道の傍らに、羽衣伝説のある写真の「衣掛柳」があります。立て札によれば「昔天女が白鳥となりこの柳の木に羽衣を掛けて水浴中、伊香美という人が羽衣を隠した。羽衣無くては天に戻れず、伊香美の妻となり二男二女を生んだ。その子孫が伊香地方の開拓の祖である。又別の説によれば、桐畠太夫の妻となり一男を生んだ。天女はその後羽衣を見つけ天に帰ってしまった。幼児は母恋しく泣き続けた。その声が法華経のように聞こえるので、菅山寺の僧が引き取り、この寺を参拝した菅原是清卿が引き取った。この子がやがて成人して菅原道真卿となる。」
 
格好のよい柳だ。日本の柳ではなく韓国系の柳らしい。



 琵琶湖湖畔道路を走って長浜市に入る。豊臣秀吉が天下統一への礎を築き始めた地。テレビの「利家とまつ」の影響からか、町は人でごった返しています。

 街中の「曳山博物館」に入る。秀吉が長男誕生を喜び、旧領の長浜町民に振舞った砂金を基に、町民たちが十二基の曳山を造って慶賀したのに始まり、現在でも、長浜八幡宮の春の祭礼に、曳山祭りとして、曳山の上で子供歌舞伎が演じられています。その豪華な曳山が四基この中に収められています。私の住んでいる小松市にも子供歌舞伎の曳山があります。小松市の曳山は、ここ長浜の曳山を手本にして造られました。拝見したところ長浜の曳山のほうが、少し大きくてより豪華みたいです。長浜の子供役者は全員男子ですが、小松は全員女子です。


 長浜八幡宮に能舞台が在るというので見に行きました。これは仲間の能楽師、高橋右任師よりお聞きしました。彼はここ長浜の出身です。なるほど立派な舞台です。いつでも使えるようです。
 ほかに長浜御坊・大通寺などを拝観して湖畔の「長浜ロイヤルホテル」に泊まる。








 翌日、米原町の「青岸寺」を拝観する。この寺はおよそ六百四十年前の南北朝の中期に、近江の守護職であった佐々木京極道譽によって創められた寺で、一時衰退していたが関ヶ原の役の後、井伊家により再興され、庭園は文部省名勝指定庭園に指定されています。
 観音菩薩がお住まいの補陀落山を現したとかで、菩薩を象徴する石組みが多くあり、いつまでも見ていたい庭園です。




 次に近くの、米原町番場の「蓮華寺」を拝観しました。浄土宗本山で聖徳太子創建の古い寺。長谷川伸の名作゜瞼の母」の舞台、旧中山道番場の宿にあります。境内に番場の忠太郎の碑がありました。
 また境内裏山に、30センチ位の石塔がびっしりと並んでいました。御醍醐天皇が鎌倉幕府討幕に挙兵した際、六波羅探題の北条仲時も兵を挙げたが、元弘3年(1333)、佐々木京極道譽にこの地で破れ、手勢432名とともに自刃。その時の全員の墓という事です。時の住職三代同阿上人が深く同情し、その姓名年齢と法名を一巻の過去帳に認め、そして全員の墓を建てたのだそうです。その過去帳は重要文化財になっているそうです。


 伊吹山ドライブウェーを上り、あわよくば頂上までと思ったが、頂上駐車場の天候は霧。駐車場より頂上までもだいぶ掛かりそうなので登頂断念。この山は、地元の登山家「深田久弥」の日本百名山に入っており、その昔百名山を目指した私も、この年になって、半分に手が届かなく終わりそうです。

 帰り道、姉川の古戦場に寄りました。浅井長政と織田信長が、元亀元年(1570)に戦った古戦場で、2500人の死者を出して信長の圧倒勝利。今は川のほとりに碑が在るだけです。

                      旅行日 2002.6.