| 第七巻 能登内浦の謡曲散策 |
まずは羽咋郡志雄町の「岡部家」です。謡曲「忠度」「俊成忠度」に出てくる忠度を一の谷で討った「岡部六弥太」が、この家の祖であるとの事です。この豪族の家は、古文書や豪華な昔の調度品などが並べてあり、お庭も素敵です。 かやぶきの岡部家の囲炉裏で、火を燃してもらいました。 最近の新聞記事に寄れば、岡部家の維持が困難なため、当主が市に寄贈とでていました。 続いて能登一ノ宮の「気多大社」です。七五三の子供も見え、参道には大輪の菊も展示してありました。謡曲「鵜祭」はこの神社が舞台となっていて、現在金春流で演能されています。佐野巌先生が地元の謡曲として、宝生流での復曲運動されていましたが、亡くなられて立ち消えになりました。 続いて珠洲市の「永禅寺」に立ち寄りました。門前の茂みの中に「曽我兄弟」の墓と伝えられる無縫塔があります。十郎の恋人の虎御前がここに寺を建て、兄弟を弔いました。永禅寺の本尊は虎の護持仏とのことです。 永禅寺の和尚さんに頼んで、無理やりにお話をお伺いしました。説教とは違って大変みたいでした。 曽我兄弟を扱った謡曲に「小袖曽我」「夜討曽我」「調伏曽我」「元服曽我」「禅師曽我」があります。 珠洲市正院の「須受八幡宮」の能舞台を拝見しました。能登唯一の舞台と思われます。鎌倉時代より明治まで神事能が行われていたとのことです。 珠洲ビーチホテルで宿泊。 翌日は生憎の雨。見附島に立ち寄ります。弘法大師が唐より投げた密教伝来の「三杵さんしょ」という仏器の内、五鈷杵がこの島の桜の木に架かっていたので、見附島というのだそうです。一緒に投げた三鈷は、高野山の松に架かっていたという話は有名です。謡曲「高野物狂」はこの松の下の話です。 続いて能都町羽根の「弁天島」に寄りました。この島にも謡曲「羽衣」の伝説が残っています。天人は漁夫と結婚し、やがて夫の漁夫の遭難を助けるため、この島より身を投げて夫の身代わりになります。 最後に穴水町明千寺にある「明泉寺」を訪ねました。交通の不便なところで大きな車は行き難い所です。この明泉寺のそばに鎌倉屋敷と呼ばれる、中世の墓地があります。五輪塔が多数あり、中でも最も大きいのが源頼朝の墓だといわれています。頼朝は「七騎落」「大仏供養」など多くの謡曲に名が登場します。 明泉寺は大きなお寺ですが、大分荒れ果てた感じです。これも無理やりにお話を伺ったお母さんによれば、息子の和尚さんはサラリーマンで、なかなか和尚に専業出来ないとか、家庭の話が半分で、それなりに面白かったです。 明泉寺のお地蔵さんに見送られて今回の旅行はお終いです。 旅行日 2002.11 |