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| 第十七巻 讃岐の謡曲古跡 |
四国八十八ヶ所の遍路に出る。車遍路である。瀬戸大橋を渡って香川県に入る。遍路は2回目で讃岐の謡曲古跡もついでに廻る。78番郷照寺・79番天皇寺・80番国分寺・81番白峰寺と拝んで一日目は終わりである。 ![]() 二日目は83番一の宮寺を拝み、栗林公園を周る。松のきれいな公園だ。 ![]() 次に高松平家物語歴史館に入る。蝋人形館で、平家物語の場面が再現してある。これから檀ノ浦を周るので、知識を詰め込む。 ![]() 屋島寺へ登る有料道路の途中より、檀ノ浦古戦場が俯瞰できる展望台がある。昔は遠浅の海だったが、今は埋め立てられて家がぎっしり。84番屋島寺を拝む。血の池と言うのがある。源氏の武将が血の着いた武具や刀を洗ったという。 ![]() 屋島を降りて檀ノ浦に入ると「源平屋島合戦史跡・義経の弓流し」の立て札があった。町はずれの畑地である。ここは遠浅の海岸で義経は勝ちに乗じて、海に馬を乗り入れて戦っていて弓を落とした。 ![]() 続いて「菊王丸の墓」があった。佐藤継信が義経をかばって、能登守教経の強弓に倒れ、菊王丸がその首を取ろうとして、継信の弟忠信の弟の弓に倒れた。教経は抱きかかえて軍船に帰ったが亡くなり、教経はここに墓を造った。 ![]() その先に「安徳天皇社」という神社がある。平宗盛は安徳天皇を奉じて、一ノ谷より屋島に来て、檀の浦の入江に望み、背後は高い屋島の峰、東に八栗の山をひかえたこの地に陣を構えた。その時の行宮跡と言われている。 ![]() 「佐藤継信の墓」があった。義経の身代わりとなって討死した、継信の忠死を広く世間に知らしめる為、初代高松藩主松平頼重が、義経が丁重に葬ったのを受けて、屋島に続く遍路道に建てたとある。近くの牟礼町に墓が在るとの事であとで探したが判らず、時間切れで残念。 ![]() 「影清のシコロ引き伝説地」の立て札が空き地に立っている。 「射落畠」という大きな石碑もあった。佐藤継信が射落とされた場所である。 ![]() この川の中の岩は「駒立岩」です。那須与一が船上の扇を射落とすため、海中に乗り入れこの岩に馬の前足を乗せた。この少し離れた所に「祈り岩」もある。与一が神に祈った所らしい。満潮になるとここまで水が来るらしい。 ![]() 三日目は第82番根香寺を参り、ケーブルで登り85番八栗寺を参り、86番志度寺を参る。ここは謡曲「海人」の古跡で、海人の墓がある。房前公が母の菩提を弔うため建てた墓らしい。墓の後方が海である。 87番長尾寺を参って帰途に着く。 ![]() 四国の鳴門で高速を降り「お局塚」を探しに行く。お局とは謡曲「通盛」の小宰相の局のことである。通盛と結ばれた小宰相だったが、通盛は一ノ谷の合戦で戦死、局は屋島へ落ちてゆく軍船の中でこれを聞き、鳴門の沖で夜半瀬戸内海に身を投げ後を追います。 瀬戸内海に望む山の上に塚は在りました。この地は平家の落人の住んだ地と云われ、古い古墳があり、平家七人の局の墓といわれてきました。船型に石積みされており、昭和37年に、真ん中に帆型の平通盛の霊を祀る供養塔を建て、相思相愛の薄幸の二人をここに結びつけた、と石碑があります。やさしい村人ですね。 旅行日 2005.3. |