第九巻 上路「山姥の洞」登山行
 昭和60年7月2日、火曜日。有志を募って、早朝、謡曲「山姥」のシテ山姥が住んでいた「山姥の洞」への登山に出発する。場所は、新潟県青海町上路(あげろ)集落より、徒歩2時間半、白鳥山(標高1287)の中腹の、標高九百メートルの地点にある洞窟。これは国土地理院の地図にも「山姥ノ洞」として記載がある。最近登ったことのある「千章修師」より話を聞き、資料も頂いて、各自おにぎり持参の一行6名です。

 
謡曲本の道行きの通り「梢波立つ汐越えの、安宅の松の夕煙、消えぬ憂き身の罪をきる、弥陀の剣の砺波山、雲路うながす三越路の、国の末なる里とへば、いとど都は遠ざかる、境川にも着きにけり」と北陸自動車道を走る。朝日インター下車。国道8号線を北に向かうと、まもなく境川に着きます。写真は境川にかかる国道8号線の橋です。境川は富山県と新潟県の境の川です。我々は橋を渡らず富山県側の堤防をさかのぼります。道は途中で橋を渡り新潟県に入り15分位で「上路・あげろ」の村に突き当たります。9時40分着。



 まずは「山姥神社」参拝。過疎の村の裏山を50メートルほど登ると、台座の上に小さな石の祠が二つあるだけです。右側は山姥様のほこら。左は山姥の夫の天狗様のほこらだそうです。







 神社に登る途中にあるのが「金時のブランコ藤」です。マサカリ担いだ金太郎は、山姥様の子供です。この藤の木でブランコをして遊びました。




                            この岩は「山姥のひなたぼっこ岩」です。山姥様は村人と仲良し。よく山から降りてきてこの岩の上で日向ぼっこをしていました。昔は「しらみ取り岩」とも言いました。民家と民家の間にあります。




 この民家の庭先に、サッカーボールのような丸い石が二つ三つ転がっていて、「金時のお手玉石」の標識がある。山姥がひなたぼっこしているそばで、金時がこの石で遊んでいたとの事です。







 10時30分、登山口に車を置いて出発。登山口は上路の村を通り抜けた1キロほど先にあります。コマイ谷川に沿って登ると、「白馬の淵・シロウマノドブ」という川が深くなった場所を通り過ぎます。この先で川を渡ります。ここは前日の台風で川が増水していて、渉るのに一苦労、長い木の枝を渡してようやく通り過ぎる。




 10分くらい歩くともう一度、川を渉り返します。ここは地形が緩やかで川のほとりで昼食です。12時30分。









 1時出発。わさび畑をぬけて、いよいよ急坂にかかる。







 午後2時。ようやく「山姥の踊り岩」に出ました。5角形の、広さ4平方メートル、厚さ70センチの大きな岩。山姥がいつも出て踊っていた岩だそうです。下の村から見えたそうです。







 橋本正勝君が作って、下からかずいてきた立て札に、全員で記名、記念に残してきました。








 踊り岩の上からは、はるかに日本海と、上路の村が見えます。岩の西面の下に、文殊菩薩の石像が安置されいてました。











 山姥の住んでいた洞窟は、すぐそばにあります。巾2メートル。高さ2・5メートル。奥行き4メートルあります。







 洞窟の中より外を見た写真です。今は行き止まりですが、昔は信州まで続いていたそうです。



 記念の立て札は何本も建っていました。結構登る人がいるようですね。
 山姥の洞発3時。もと来た道を下山。上路部落着午後5時30分。


登山メンバー
 麦谷清一郎(小松)
 橋本 正勝(小松)
 尾崎 暉雄(大野)
 久守 忠雄(福井)
 小西富士子(金沢)
 笠井 玲子(黒部) 以上6名


 山姥の洞まで登った人は、謡曲ファンでも、そう多くは居ないでしょうから、記念に書き残しました。一緒に登った「久守忠雄」さんも、色々資料を頂いた「千章修」先生も、もう亡くなられました。我々の残した立て札は、とっくの昔に朽ち果てたでしょうが、千先生の立てられた札は、まだ残っているでしょう。ずっと先の事を考えて、防腐剤をかけ、ニスを塗った、それはそれは立派な標識でしたから。

                     2003年2月記す