第十九巻 奥の細道と謡曲古跡V
  八百年ほど前に西行法師が訪ね和歌を残し、五百年後にそれを慕って芭蕉が訪ね「奥の細道」を書き、それを慕って三百年後に、私がここ東北地方の謡曲古跡を訪ねてきました。一昨年に続き三回目です。
 芭蕉は仙台の近くの岩沼市に寄っています。街中に「竹駒稲荷神社」が在りました。二本三大稲荷だそうです。境内に
「桜より松は二木を三月越シ」の句碑がありました。この句は江戸を出るとき「武隈の松(二木の松)」を見せたいと云った弟子の挙伯の餞別句に答えたもの。遅桜を見て江戸を出て、武隈の松を見たのは、もう三月になっていた。







 この歌枕の名木は、近くの大通りに在りました。幹は根元から二本に分れて高くそびえています。この松は七代目との事である。






 多賀城市の近くの歌枕「末の松山」。ここも二本の大きな松。百人一首に
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは」があります。この松のようです。







 近くに「沖の石」があります。これも歌枕。百人一首に
「わが袖は汐干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾くまもなし」と詠まれています。町の中の池の中の岩山でした。






 多賀城の「壷の碑」も歌枕である。覆い堂の中に入った古い石碑である。坂上田村麻呂が建てたと言われています。芭蕉は感激して涙を流しています。








 芭蕉は「塩竃神社」お参りしています。私も行きました。陸奥一宮で航海安全に効験ありと信仰されている。






 境内にある古い宝燈。「文治三年七月十日和泉三郎忠衡」の刻字がある。忠衡は秀衡の三男。秀衡亡き後、義経につき兄泰衡に討たれた。この宝燈寄進の二年後の事。
謡曲「錦戸」はこれに寄る。







 松島の「瑞巌寺」








 芭蕉が俳句を詠まなかった「松島」








 松島より平泉へ回る。「高舘」による。義経はここに館を構えていたが、秀衡歿後、泰衡に攻められ、弁慶その他一族郎党全員討ち死。義経堂の中に義経の像が座っていた。






 義経が眺めた束稲山の風景は、現在と同じだろう。芭蕉の名句「夏草やつはものどもが夢の跡」はここで詠まれた。笠打ち敷きて、時のうつるまで涙を落としはべりぬ。芭蕉ならずとも、私も感慨に更けて、涙が出そうだ。






 「五月雨を降り残してや光堂」。金色堂は世界遺産になったらしい。








 中尊寺の白山神社の能舞台は、茅葺で実にカッコいい。






 「達谷の窟」は洞穴に入り込んだ、京都清水寺の舞台みたいな不思議な毘沙門堂。坂上田村麻呂が建てた
。謡曲「田村」のシテです。







 「毛越寺」。浄土を現した庭園の遺跡。藤原初代が中尊寺を建て、二代が毛越寺を建てた。三代で平泉は滅亡した。

 2006.10、旅行