富山県の山田村の山奥に、猿丸太夫の塚があることは、謡曲職分の故・千章修先生からお聞きしていました。山田温泉の案内立札にも載っていましたし、山田村のホームページでも確認しました。そんな中で、地図を見ていて、なんと、山田村の隣りの、八尾町にも猿丸太夫塚があることを発見しました。
お盆の一日、急に思い立って昼頃より、この二つの猿丸太夫塚を探しに出かけました。車のナビゲーションに山田温泉を入力したら、砺波インターを降りて山の中をくねくねと走って、直接温泉に出る道を教えてくれました。
砺波インターで降りて、国道を平村の方へ2キロ。“五郎丸”の交差点を左折。2キロほどで庄川に掛かる雄神大橋を渡ります。この橋の交差点を左折して5百メートルの所に写真の碑があるので一寸寄り道しました。
立札によれば、「西行法師が、心を許した友、西住法師とともに諸国を巡り、西住の郷里、三谷村に至ったとき、西住が病にかかり急死、西行は追悼し塚を築き、法師手向けの花として櫻を植え、碑石に西行直筆の歌を刻んだものである。」 三谷の県道の脇にこの塚があり、櫻の木が植えてあります。西行櫻という謡曲がありますが、ここは謡曲の舞台と関係ありません。西行法師は謡曲の中では、「西行櫻」「雨月」「松山天狗」のワキとして登場します。また、西行の和歌が中心となっている謡曲に「遊行柳」「江口」があります。
寄り道より戻り、寺尾温泉の前を通って、山の中の細い道を行くと、山田温泉の近くに出ました。温泉の入り口の駐車場のある園地に、山田村の観光立札があり、猿丸太夫の塚のあり所を確認。傍らの夫婦岩は、由来によると「この地は断崖絶壁の地で通行の難所であった。江戸中期元禄の頃、大水害で左岸山肌より巨大な大岩が落下。川の中により添う姿から夫婦岩と呼ばれた。以来転落事故があっても不思議と怪我人が無くなり、夫婦岩の守護によるものといわれてきました。県道の改良により現道路の下に埋没されたが、地の声、また守護として、ここに復元した。」との事です。
山田温泉から利賀村へ抜ける林道があります。これを行くとすぐ「鎌倉」という部 落の傍を通ります。一寸右へ曲がって寄り道します。この小さな村のはずれに写真の、木を切り抜いた小さなお堂があります。 なかを覗くと石の地蔵さんが見えます。謡曲「鉢木」「藤永」のワキである北條時頼が、諸国回遊の折この地に立ち寄り、故郷に似たこの地を鎌倉と名付け、慕われた村民の為に、自分を模った石像を彫って残していった、と言われています。
さて、猿丸太夫の塚ですが、この林道を7・8キロも行った所の、数納という廃村の地区に在るらしいです。有名な「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき」の歌も、ここ数納で詠まれたのだそうです。道は段々細くなり、くねくねと曲がり落石注意、おまけに工事中、やがてこの先通行止めの看板。もうそろそろ目的地も近いはずと入りこんでみたが、道のど真ん中にブルトーザーがどっかり。お盆休みで工事小屋も無人。泣く泣く引き返しました。
気を取り直して今度は、八尾町の猿丸太夫塚を尋ねて出発、隣接の町ですので案外近くです。八尾は坂の町、風の盆おはら踊りで賑わうのももうすぐです。町の中より山奥を目指して走ります。車のナビの地図には塚の場所が載っていました。よほどこの塚は有名なのでしょう。バスの通っている道を桐谷地区を目指して走ります。桐谷の部落の入口より、右に折れ橋を渡り山に入り、小井波地区に向かいます。4キロほどで山に囲まれた盆地に出ます。ここにも昔は村が在ったらしいですが、今は養豚場だけがあるようです。草茫々の中でひっそりと建っているので、一度は通りすぎましたが、ようやく見付けました。
立札によれば、「猿丸太夫は平安時代の歌人で36歌仙の一人。小倉百人一首の第5番目の歌は猿丸太夫の作と伝えられている。猿丸太夫は歌人と神官を兼ねていたと言われているが、その出身地や墓は全国各地にあり、晩年はここ八尾町小井波に庵を結び、世を終えたといわれている。」

猿丸太夫は謡曲「草紙洗」に名前が出てくるだけの人物ですが、金沢の街中にも住居跡があり、こんな山奥にも住んでいたとは、不思議な人ですね。でもなんとなく親しみが持てる人になりました。
旅行日 2002年8月でした。
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