石川県能登地方の謡曲古跡
bP 気多大社〔羽咋市寺家町〕


 あまり知られていませんが、気多神社の鵜を放つ神事を脚色した能があります。金沢より能登海浜有料道路に入り、40分で柳田インターで下車、すぐの「猫の目」交差点を左折、5分くらいで羽咋市寺家町の「気多大社」に着きます。
 かっての国幣大社で、古くから能登一ノ宮として崇められてきました。国の重要文化財の社殿が並ぶ大きな神社です。ここの御神事が、謡曲「鵜祭」の舞台となっています。すなわち毎年12月16日の未明、午前3時過ぎ、灯火一つを点した社殿に鵜を放ち、鵜の飛び方を見て翌年の吉凶を占うと言う御神事です。この御神事が其のまま謡曲になっています。鵜はやがて捕えられて暁の海岸で神主により放たれます。人身御供の名残とも言われる神秘な祭りです。このお祭りも頼めば見学は出来るらしいです。残念ながら私も見学した事がありません。ぜひ一度と思っているのですが。この謡曲は現在金春流のみにあり、宝生流にはありません。宝生流の盛んな土地柄だけに、地元だけでも復曲演能が認められるといいですね。  


bQ 気多大社の鵜祭り神事

 謡曲「鵜祭のあらすじは、勅使(ワキ)が気多神社に参拝し、大勢の海女乙女に出会い、鵜の祭りの謂れを聞きます。深夜、太入杵の親王(後ツレ・気多明神の祭主)と、気多明神(後シテ・女神)が現れ、夜神楽を以って勅使をねぎらいます。やがて鵜(子方)が登場し奇蹟を見せます。
 新聞によれば気多神社の鵜祭の一連の行事が、このたび国の重要無形民俗文化財に指定されました。







 その一連の行事というのは、鵜は七尾市鵜浦町の海岸で、一子相伝の秘技によって捕えられ、その場から「鵜様」と呼ばれる。12日早朝、鵜取部〔うとりべ〕と呼ばれる人が、籠に入れた鵜様を背負い「うとりべー、うとりべー」と声を発し寄進を頂きながら、同大社まで2泊3日の鵜様道中を行う。鵜祭は16日午前3時から、2本のろうそくがともされた神前で進められ、神職と鵜取部の掛け合いの後、かごから鵜様が放たれる。ハイライトは案台に上がる鵜様の動きで、これによって吉凶が占われることになる。鵜はやがて捕えられて暁の海岸で神主により放たれます。

 肌寒い未明にもかかわらず神秘的な行事を見ようと、参拝客が詰め掛け息を凝らして見守る。以上新聞記事です。
   気多神社 電〔0120〕009230


bR 蝉折の笛と守刀〔珠洲市三崎町〕

 能登半島のほとんど先端の、禄剛崎より少し下がった、珠洲市の海岸に「須須神社」があります。延喜式に列せられる古社で、原生林をなす社叢の参道の奥に本殿があります。文治3年(1187)謡曲「安宅の一行が金沢の「大野湊神社」より船で脱出。佐渡へ向う途中、須須岬沖合いでシケに遭い、ここに上陸しました。無事難を逃れた御礼として寄進した、平家の名宝とも伝えられる義経愛用の笛「蝉折の笛」と、弁慶が寄進した「左」と言う銘入りの守刀が、この神社に伝わっています。





この「蝉折の笛」は、
謡曲「敦盛の中に「小枝、蝉折さまざまに、笛の名は多けれども」と出てくる笛で、鳥羽天皇の代、中国宗から贈られた漢竹で作られた名器で、以仁王から源頼政の手に渡り、再び宮中に戻った後、平家の手から義経の所持する事になったという、謂れのある笛だそうです。



 義経弁慶の献詠「都より 波の夜昼 うかれきて 道遠くして 憂き目みる哉」
 義経返歌
憂き目をば 藻塩と共に かき流し 悦びとなる 鈴の御岬は」
 また鳥居前に、村上元三の
「義経は 雪に消えたり 須々乃笛」の句碑があります。
 義経一行はここから、山越えで外浦の、平時忠を尋ねます。平時忠の娘萌子は、義経の妾で、義経一行に伴って、一緒に行動していたとの事です。   
 須須神社 電0768-88-2772


bS 曽我兄弟の墓 珠洲市上戸町寺社

 曽我兄弟を扱った謡曲に「小袖曽我」「夜討曽我」「調伏曽我」「元服曽我」「禅師曽我の5曲があります。いずれも曽我兄弟の仇討ちに、色々の人を絡ませた「曽我物語」という古書にもとずいて創られています。
 
謡曲「夜討曽我では富士野の仇討ちで、十郎は討死、五郎は捕えられて斬罪に処されます。謡曲には出てきませんが、十郎には[虎御前]という恋人が居ました。







 珠洲市の「永禅寺」の前に、曽我兄弟の墓と伝えられる塔があります。この寺の本尊の薬師如来は、虎の護持仏だといわれ、虎はここに隠棲して曽我兄弟の墓を建て、兄弟を弔いました。虎の墓
は能都町の藤波海岸に有るとのことですが、見付かりませんでした。




 虎御前の死後、何人もの旅僧が住みつこうとしたが、後ろの池に何やら恐ろしい主が住んでいて、次々と旅僧の命を奪ってしまったので、長い間荒れ寺になっていました。650年ぐらい前、曽我一族の月庵という偉い坊さんが泊り、深夜「小足八足大足二足右行左行眼天に有り」の謎問答を仕掛けた妖怪を、蟹と見破り退治しました。虎御前の可愛がっていた蟹が、年を経て大蟹となり、悪さをやめる時を、十郎様の縁者が来るまで待っていたのだそうです。
狂言「蟹山伏にも同じ謎が取り込まれています。写真は本堂軒の蟹の彫刻。


bT 空海と見附島 〔珠洲市見附島〕

 珠洲市の飯田湾に見附島があります。ここに建つ案内板によれば「弘法大師空海が唐の国に渡り、恵果阿闍梨のもとで修行され、三国伝来の伝承者と認められ、金胎両部の潅頂をうけ、密教伝来の三杵(さんしょ)を授けられた。唐の僧達はその三杵を奪い返さんと、日本に帰ろうとする空海を海岸まで追いつめてきた。その時空海は東方を望まれ「密教有縁の所に行きて我を待つべし」と三杵を大空高く投げられた。帰国された空海は三杵を求めて、海路佐渡より能登沖を通られた時、法華経が聞こえ、この島の桜の木に三杵の一っ「五鈷杵」が懸かっているのを見附られた。それによりこの島を見附島と呼ぶ」と書いてあります。
 また「独鈷杵」は佐渡の小比叡山の柳の木に、「三鈷杵」は高野山の松の木に懸かっていました。高野山には今でも
「三鈷の松」が有ります。この松の下で親子が再会する謡曲が作られました。謡曲「高野物狂です。ここ見附島の「五鈷の桜」に由来する謡曲「見附物狂」をどなたか創りませんか。


bU 源頼朝の墓 穴水町明千寺

 穴水町に「明泉寺」と言う真言宗の古刹があります。老樹に囲まれ、境内に重要文化財の石造五重塔があります。この寺は鎌倉と深い関係があったらしく、頼朝の帰依により、土地を寄進されています。ここから2百米位離れた所にある、古来「鎌倉屋敷」と呼ばれる中世墓地には、70数基の五輪塔があり、中央の高さ3米の宝篋印塔は「頼朝の墓」だと云われています。
 
頼朝は、謡曲「七騎落」「大仏供養」「調伏曽我のツレとして能楽の舞台に登場します。そのほか義経や平家の武将の謡曲に良く名前が出てきます。義経の兄になるのですが義経を滅ぼしてしまいます。また頼朝の兄に朝長がいて、謡曲「朝長に謡われています。


bV 岡部家住宅 〔羽咋郡志雄町〕

 平忠度を主人公にした曲に、謡曲「忠度」「俊成忠度があります。一の谷の合戦で文武の勇将忠度は、岡部の六弥太に討ち取られます。箙に短冊の付いた矢が残っています。見れば「行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花や今宵の 主ならまし」と書いてありました。やがて忠度の亡霊が現れて、千載集に和歌が選ばれたものの、読み人知らずと成っている事に不満を述べ、合戦の様子を見せ回向を頼んで消え失せます。
 さて七尾街道(国道159号線)沿い、志雄町荻谷に、県文化財に指定されている民家「岡部家」が在ります。
謡曲「俊成忠度のワキであり、忠度を討った「岡部六弥太忠澄」が、この岡部家の祖であります。


 岡部六弥太はもと武蔵国の武士で、一の谷の戦功によって能登押水郷を分与されました。文治年間、主源義経の北国落ちを聞き、これに従わんと能登へ下向。やがて現在地に定住し、帰農したのだそうです。岡部家中興の祖、長次郎宗致は戦国時代は前田利家に協力、その功により荻谷村高のうち四百二十四俵を分与され、五代長右衛門は十村(大庄屋)となり、六代七左衛門は二千石代官を拝命し、明治三年の十村制度廃止まで豪族として権勢を振るいました。現当主は十八代に当たるそうです。拝観に上がると色々の古文書や豪華な拝領品などが並べられて、庭も綺麗です。
        新聞によると、今は拝観はできないようです。 


bW 須受八幡宮 珠洲市正院町

 能登地方で唯一と思われる能舞台を持つ須受八幡宮は、珠洲市正院町の町中に鎮座しています。由緒によれば陽成天皇の御世、元慶7年(883)4月、海辺鎮護の為、山城国男山・石清水八幡宮より勧請の社として、須受八幡宮と称しました。
 当神社には鎌倉時代後期(1200)頃より猿楽が興り、中世末期には金春流の神事能が奉納されていました。加賀藩時代には前田利家公の格別の配慮により、鳳至郡諸橋村前波の人
、諸橋権之進を遣わされ、宝生流神事能となりました。この神事能には毎年金沢より能太夫および警護人12名が派遣されたため、これを迎送のため表敬の意味の、道中行列を擬した「奴振り」を創設し、この行列は今でも続いて行われています。祭礼は9月15日との事です。
  須受八幡宮 電0768-82-1197


bX 須受八幡宮の能舞台

 この、能登で唯一の野外能舞台は、鎌倉時代より連綿と神事能が行われてきたと云われています。舞台には寛文12年(1672)と、文政2年(1819)に再建の記録があり、明治後期に現在地に移ったとの事です。神事能は明治初年より次第に衰退し、明治30年に完全に無くなりました。

 平成11年にここで演能がありました。一年だけの神事能復活でした。舞台は整備されていました。是からもここで時々お能が有るといいですね。


10 平時忠の墓 〔珠洲市大谷町〕


 珠洲市の飯田より大谷峠を越えて大谷に到る国道249号線は、内浦と外浦を結ぶ重要な国道です。この国道を大谷の方へ下って行くと、「則貞」のバス停があり、がけ下のほうへ急坂を下っていくと「平時忠一族の墓」と伝えられる幾つもの五輪塔があります。









 平大納言時忠は、姉時子が清盛の正妻、妹滋子が後白河天皇の妃となり、平関白と呼ばれ
「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した人物です。源平の戦いで平家が滅亡した時、神器の鏡を奉じたので特に許され能登に配流となりました。時忠はこの地に居を構えひたすら帰郷の日を待ちましたが、とうとうここで60歳で亡くなりました。
 
謡曲「安宅」の一行が珠洲に上陸したとき、一行の中に義経の側室蕨姫(萌子)がいたという説があります。蕨姫は時忠の娘です。一行がここを訪れた事は間違いありません。


11 上時国家 〔輪島市町野町



 この豪壮な民家は、平大納言時忠の子、時国を祖とする家で、名勝曽々木海岸より少し中に入ったところにあります。時忠は珠洲の大谷で亡くなりましたが、能登で生まれた時国はこの地に移り住み、豪農となりました。江戸時代には天領の大庄屋を勤め、苗字帯刀を許されています。21代の当主が現在の建物を建て、現在の当主は25代との事です。 有料で入館出来ます。
  上時国家 電0768-32-0171


12 下時国家 輪島市町野町



 上時国家より一キロほど海岸よりに「下時国家」があります。時国家12代藤左衛門より分かれ、前田家からお墨付きを頂いて、山廻り代官役塩取吟味人を勤めていた豪農です。この住宅は江戸時代初期の建築と推定され重要文化財に指定されています。県名勝庭園もあります。 有料で入館出来ます。
  下時国家 電0768-32-0075


13 義経の船隠し 〔富来町笹波


 能登金剛と呼ばれる外浦の名勝があります。その中に、松本清張の「ゼロの焦点」に出てくるヤセの断崖があり、さのの近くに、義経の船隠しと呼ばれる入り江があります。間口30メートル、奥行100メートルだそうです。
 寿永四年、兄頼朝のきびしい追手から逃れる、
謡曲「安宅の義経・弁慶一行が、奥州へ下る途中、折からの海難を避けるため、入り江に48隻の船を隠したのだそうです。
 それにしても48隻は多いですね。安宅の関所を越えた時は、わずか十人くらいかと思っていたのに。いったいどうなっているのでしょう。


14 羽衣の伝説〔能都町羽根〕
 奥能登の内浦、能都町に謡曲羽衣みたいな話が伝わっています。宇出津の町より九十九湾の方へ海岸沿いの道路を行くと、羽根地区で、すぐそばに「弁天島」があります。
 遠い昔、七羽の白鳥がこの湾に舞い降りました。美しい海に誘われて天女が水浴びに訪れたのです。天女はこの島の松に衣を掛けていました。漁帰りの若者・乙蔵は一枚の羽衣を隠しました。六人の天女は羽衣を纏って天に帰りましたが、着物を隠された天女は泣く泣く人間世界にとどまり、まもなく乙蔵と夫婦になりました。名を「お浦」と名づけ、いつしか愛情が育まれていきました。
 ある日乙蔵が漁に出ていると、海がにわかに荒れ狂いだしました。乙蔵の身を心配したお浦は、羽衣を纏って小島の上から荒波へ身を沈めました。わが身に換えて、乙蔵を水難から救おうとしたのです。その願いが通じて嵐は静まり、乙蔵は気を失しなっていたいたものの、岸に打ち上げられて助かりました。
 近くの渚から羽衣が見つかりましたが、お浦の姿はどこにもありませんでした。嘆き悲しんだ乙蔵は、お浦をしのんでこの浜辺を「小浦が崎」、羽衣の流れ着いた浜辺を「はね」と呼びました。これがいつの頃からか「羽根・小浦」の地名となりました。

15 石動山〔鹿島町石動山〕

 
謡曲「藤」の道行きに、「白山風も長閑にて、おと高松の波までも、治まる道に戸ざしせぬ、石動山をすぎむらや。氷見の里にも着きにけり。」とあります。
 石動山は古代より山岳宗教の拠点として栄えたようです。最盛期には3千人の宗徒が居たという話しです。今は山全体が国指定のの史跡になっています。七尾と氷見を結ぶ山の中です。
 最近里山歩きをしていて、この山が登山案内書に載っているので歩いてきました。標高は564mで、ブナの林が残っています。静かでいい所です。