第三巻 能登志賀町ドライブ






 久しぶりの休日、骨休めに能登までドライブ。なぎさドライブウエーを走り、柳田インターで降りる。ここまできたら必ず寄るところが「気多大社」です。






 石川県能登地方で、唯一能の舞台になっているのが、この気多大社です。謡曲「鵜祭」のワキの名乗りに依れば、ワキ「抑これは當今に仕へ奉る臣下にり。さても能州気多の明神は、霊験無双の神にて御座候。御神事の数々多き中に、霜月初午の御祭礼の儀式、君聞こし召し及ばせ給ひ、急ぎ見て参れとの宣旨を蒙り、唯今能州に下向仕り候」。この神事は現在では、毎年12月16日の未明、午前3時に、鵜を2本の蝋燭を灯した神殿で放ち、その飛ぶ方向により、来る年の吉凶を占うと言うものです。
 能の舞台では、先ず出端の囃子で、ツレ男神・八尋玉殿の神が現われ、御殿の扉を開くと中から、シテ女神・気多の明神が現われ、楽の舞を舞います。やがて子方の生贄の鵜が、早笛で登場。ツレが舞働を舞い、生贄の鵜は放たれ、遙かの沖に飛び去り、神も上がらせ給まいます。脇能らしく賑やかな構成の様です。この謡曲は金春流にのみあり、宝生流の多い北陸では見る機会がありません。



 国道249号線を行き、志賀町に入ると大島の海岸に寄りました。岬の突端に「大島緒願堂」があります。石塔の3.06mの石積六角地蔵搭が建っています。立札に依れば、長方形の切石を用材として、六角形に積み上げ搭身を構成する。六面にそれぞれ、蓮座の上に立つ地蔵菩薩を刻んだ石がはめ込まれいてます。伝承に依れば、現在の長崎県の大村市の船主・武太夫が、この沖で難破した息子と乗組員の霊を供養するため、故郷の石材を運んで建立、とあります。室町時代の事らしいです。
 日本海に沈む真っ赤な夕日に、シルエットが似合いそうな石塔です。





 国道を“高浜南”の交差点で左に折れ、高浜町を抜けた先の「平家」タイラケ、を拝観しました。








パンフレットに拠れば、平家の由緒は源平時代に遡り、木曾義仲が都へ攻め上り、平家の嫡男、平維盛が大軍を率いて倶利伽羅で激闘したが大敗。平維盛の重臣だった、平式部太夫この地に居を構えたのは八百年前の寿永年間でした。以後三百年は平家の落人としてひっそりと世をはばかって暮らしていたが、段々その由緒と武名を買われて出世。最後は天領十三ヶ村の大庄屋として、苗字帯刀を許されました。室町時代の庭園があります。


          



 志賀町の高台に「志賀の郷リゾート」があります。その中の公共宿泊施設「いこいの村能登半島」に立ち寄り昼食にしました。








 ここのカキツバタ園が有名なので、一回りしてきました。少し盛りを過ぎていましたが、なかなか楽しめました。3万本あるのだそうです。
 今日の宿泊はすぐ近くの「能登ロイヤルホテル」でした。大きな発電風車がありました。





 翌日は志賀町に、大河ドラマ「利家とまつ」にゆかりの地が在るというので、探しに行きました。町の中をうろうろと走り廻りましたが、町外れの末吉というところで、この銅像を見つけました。キリシタン大名の「高山右近」の像です。
 高山右近は1588年の秀吉の改宗命令に従わなかったため、明石の領地を没収され、前田利家に客将として迎えられました。後の家康の禁教令によってマニラに追放されるまで、加賀能登に大きな足跡を残しました。
 伝承によると、右近の死後に長男の子孫がここに住んでいたそうです。







 その子孫が建てたのでしょう、すぐ近くの民家の横を丘を登っていくと、写真の高山右近の碑があります。ちゃんと花が供えられています。志賀町には、右近より16代目の子孫だと伝えられる家が、今もあるそうです。







帰り道、能登有料道路の上棚矢駄インターの近くの東谷内村の「来入寺」に寄りました。ここは春先の新聞に来入寺の水芭蕉満開と、いつも載りますので一度場所を確かめておきたかったのです。もちろん水芭蕉は写真の如く葉ばかりですが、花の時は綺麗でしょうね。こんな平地でも咲くのですね。是非その頃に来たいですね。







   旅行日  2002年5月
末でした