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能楽喧窮会の仲間達とマイクロバスで金沢を出発、若狭路の謡曲古跡探訪に出かけました。 先ずは、敦賀市内の気比神宮です。謡曲「安宅」の道行きに「気比の海宮居久しき神垣や」とあるのがこの神宮です。また俳人芭蕉は奥の細道に「その夜、月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すすめられて、けいの明神に夜参す。」と書いています。8月14日に敦賀に着いた芭蕉は、宿の主に勧められて、気比神宮に夜参りして、月清し遊行のもてる砂の上、と詠みました。「十五日、亭主の詞にたがはず。雨降。 名月や北國日和定なき 」8月15日は、新暦で9月28日で、仲秋の名月でしたが、亭主の云ったとおり雨が降りました。 境内は広く、芭蕉の銅像や句碑が多数あります。国宝だった本殿は昭和20年の戦災で焼失、現在は再建された新しいものです。木造大鳥居だけが焼け残り重要文化財になっています。
次に訪れたのは、謡曲「鉄輪」のワキである、安倍晴明が住んでいたという「晴明神社」です。平安時代の陰陽師安倍晴明は、990年頃より約5年間敦賀で修行しました。気比神宮の近く相生町にあるこの小さな神社は、晴明が占に使った祈念石がご神体です。祭壇の下に鎮座して居ました。
郊外の「西福寺」の国指定名勝庭園「書院庭園」を拝観してから、敦賀半島の岬のほうにある、色の浜を尋ねました。
芭蕉の奥の細道によれば「十六日、空はれたれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜(色の浜)に舟を走らす」とあります。西行法師が「潮染むるますほの小貝拾うとて 色の浜とは言ふにやあるらん」と詠んだ所で、西行を慕う芭蕉も、海上よりここを訪れました。色の浜は江戸時代とあまり変わっていない雰囲気の漁村です。「侘しき法華寺あり。ここに茶飲、酒をあたためて、夕暮れのさびしさ感に堪へたり。 寂しさや須磨にかちたる浜の秋 波の間や小貝にまじる萩の塵 その日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。」この侘しき法華寺とは本隆寺のことです。お寺に頼んで、福井の俳人等栽に書かせた、其の日のあらましの文、を見せて頂きました。最後に芭蕉が「小萩ちれますほのの小貝小盃」と書きこんでいます。
歌手五木ひろしの出身地にある五木茶屋で昼食休憩。 次いで美浜町の弥美(ミミ)神社の能舞台(写真)を訪ねました。今でも8月20日に、地元の倉座が能を奉納しています。次に訪ねた舞台は三方町の宇波西(ウワセ)神社の能舞台。ここは橋掛かりがありません。8月19日に能があります。 次いで近くの三方石観音にお参りしました。諸国巡錫の弘法大師がこの地に杖を留め、一夜観音像を刻みましたが、右の手首を残したところで夜が明け、大師は右手首から先を未完のまま山を下っていったと言われています。花崗岩に刻まれた観音像です。古くから手足の不自由な人達に信仰が厚いです。秘仏で残念ながら拝めませんでした。
上中町の須部神社にも能楽堂があります。ここでも年に一度、10月28日に能が奉納されます。能を奉納する地元の能楽倉座は、太夫がいて、面・装束も持っている本格的なものです。それでも最近は後継者難で困っているようです。 神社は古樹・老木が鬱蒼と茂り、本殿・拝殿・幣殿・神門・能楽堂とあり、恵比寿様が祭られており近隣の信仰を集めています。
小浜市遠敷(オニュウ)の神宮寺は、お水送りの寺として知られています。春の訪れを告げる年中行事、奈良の東大寺二月堂お水取りに使う、若狭井に水を送る行事です。神宮寺は其の名のとおり神と仏の同居する寺です。お寺なのに注連縄が張ってあります。本殿の中も男女神像と仏像が同居しています。この神宮寺の2k上流遠敷川に、鵜の瀬という所があります。ここの岸壁の注連縄を張った下の淵より、東大寺の二月堂の井戸に続いていると言われています。3月2日に神宮寺の境内の井戸より汲み上げた水を、この淵より東大寺へ送ります。
この日は、小浜市の古い旅館「福喜」に宿泊しました。雰囲気のある旅館です。 翌朝、この福喜所有の、「千石荘」をを見学しました。江戸時代の回船問屋“古河屋”の別荘として建てられた書院造りの建物です。福喜旅館に宿泊した人達だけに公開されている様です。
次いで「世阿弥船出の地」の碑を訪ねました。世阿弥は晩年この港より佐渡へ流されました。そのことは世阿弥の著書、金島書に書かれています。港の近く台場浜公園の隅にこの碑はあります。

市内の空印寺には八百比丘尼の入定洞という洞穴(写真)があります。玉椿尼という女性が知らずに人魚を食べ、八百歳まで生きて諸国を回遊し、この洞窟で入寂したとの事です。
隣の八幡神社にも立派な能舞台が有ります。囲いがされてあって中は覗けません。地謡座が折りたたみ式になっていて、演能の時には引き出せる様に成っています。
次に郊外の羽賀寺へ周り、久しぶりに十一面観音立像に対面しました。よくポスターなどに取り上げられる、艶やかな手の長い木造の観音様です。写真は撮れないので頂いたパンフレットのものです。座高150cm檜一木造り、霊亀二年(716)奈良朝元正天皇の命により、行基が元正天皇をモデルにして創ったとされています。何度訪れても心がときめく仏像です。
南川を遡るようにして、京都に続く国道162号線を30分ほど走ると、県境近くに名田庄村があります。
名田庄村に土御門家(安倍家)の遺跡があります。能・鉄輪のワキ安倍晴明は平安時代の陰陽師、以後代々宮中や幕府に抱えられており、都の戦火を避けてここに居を構えた事がありました。天壇と呼ばれる四色の鳥居を建てた広場があります。土御門家の墓所もあります。能・泰山府君のシテ泰山府君を祭った加茂神社もあります。府君は中国の閻魔様みたいなもので、陰陽師の神であり日本ではここ一社ではないかと言われています。

すぐ近くに道の駅があり、ここに暦会館(写真)があり土御門家(安倍家)の資料が展示されています。 また村営のホテルがありここの食堂で昼食となりました。

これより帰途につき遠敷の多田寺に寄り薬師観音を拝みました。眼病に霊験ありとの事です。謡曲・満仲のツレ満仲はこの地にしばし留まり、そのために多田の姓を名乗ることになったとの事。墓地に満仲公の墓があります。また近くの山裾に曽我兄弟の墓があります。兄弟は多田寺に仇討祈願に訪れたそうです。鵜の瀬の上流に団村があり、兄弟の家来の鬼王・団三郎は、遠敷(おにゅう)の、団村の三郎という一人の人物である、と言う面白い説があるそうです。兄弟の墓を立てた人はきっとこの団村の三郎さんでしょう。
すぐ近くの若狭姫神社にも能舞台があります。千年杉の巨木や銀杏の巨木もあります。神話に、海幸彦の釣針を無くして、途方に暮れた山幸彦は、塩椎神の教えにより海の宮殿の門のところの、玉の井戸の傍らの桂の木に登っていました。井戸には影が映っていました。海神の姫・龍宮の乙姫様、豊玉姫との出会いの始です。この豊玉姫が若狭姫神社のご祭神です。境内に玉の井戸と桂の木があります。ひょっとするとここが龍宮城の跡かも知れません。金剛流の現行曲にこの神話を能にした、能・玉井があります。稀曲であまり知られていません。
最後の立ち寄り所は熊川宿です。京都の大原から朽木渓谷を経て小浜に到る、鯖街道と言われる街道の宿場町です。 これより琵琶湖湖畔に出て、竹生島をバスの中より眺め、謡曲・安宅の道行にある、有乳山を越えて敦賀に戻りました。
以上が今回の旅行の立ち寄り所の大体のあらましです。
旅行日 2002年5月でした
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