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12th 息子が帰って来るのを待って、夫と3人で母のところへ行く。母は少し熱が下がっていたが、酸素吸入し、相変わらず腹水でパンパンに腫れたお腹をもてあましていた。そこへ主治医が来たので、一昨日母が聞くことが出来なかった説明をお願いした。後で夫にどう思う?と聞いてみた。「抗癌剤受けた方が良いと思った。自分ならそうする」と言った。母も夫も昔ながらの患者で、他の人に効いてる薬があるならやるのが当たり前と思う。一方その場で同じ説明を聞いていた息子は、「今さら苦しむ治療を受けてがんばらなきゃならないのか」と思ったそうだ。母も夫も、私が言って初めて“緩和ケア”という言葉を知った。『見放され死ぬのを待つ』くらいの意味にしかとっていない。
13th 腹水を少し抜いてもらった母は異様に元気だった。そして家族全員を前に「死ぬ覚悟は出来た」と色々死後の段取りを指示した後「抗癌剤治療が出来るのであれば受ける事に決めた」と言った。その晴れ晴れした態度に、家族は「ばあちゃんがそうしたいのならそうしよう」と賛成した。が、帰宅して疑問が湧く。母は会話の中で「ちょっとひどいやろけど抗癌剤受ける」という言い方をしたので、私と娘が慌てて「『ちょっと』じゃなくて『すんごく』辛い」とツッコんだ。夜中に目が覚め、娘と色々話す。
14th 朝起きて、夫に不安を話す。母が抗癌剤の副作用を正確に理解しているのかどうか。夫が医師に手紙を書くよう薦めた。正直に家族の中でも意見が分かれていること、抗癌剤のデメリットを緩和ケアのメリットを含めて母に説明してほしいなどと書いた。病室に入る前にナースセンターに寄り、主治医に渡してほしいと伝えた。夫と病室に入るなり、母は「やっぱり小松へ帰る(緩和ケア)」と言った。「急にどうしたの?」と尋ねると、母は友人のNさんらが見舞いに来た事を話し出した。悟った様な母の語りに私と夫は泣いた。帰宅し母を今まで尊敬できないできた自分が小さく見えた。が、少し冷静になってくると、昨日あんなにきっぱり言い切ったのをコロリと変えたのだから、また変わるかもしれないと思った。
15th 病院の廊下で主治医に会った。手紙を読み、こちらの意向を了解してくれた。「母は昨日は緩和ケアにすると意見を変えたのです」と伝えて別れた後、病室に入ると母は開口一番「抗癌剤にする」と言った。案の定、やっぱり母は母だった。教授回診があり、主治医の病状説明を聞いた教授は「じゃ(抗癌剤を)始めれば?」と一言言って次へ行った。夜中、静かになると隣の病室の話し声が聞こえるらしい。母が「隣の人は若い人で手術の後に抗癌剤をしているようだ。私は手術をせんでもいいからまだまし…」といつもの人と比べて優位に立とうとする話し方で言い出だすのを遮った。「そうじゃなくて、ばあちゃんの場合もう全身に広がっているから手術が出来ないんよ」…クソッ、なんて残酷な事を私に言わせるのだろう。すると母は更に「すごく甘えん坊や、親が来ると『おかあさん!おかあさん!』って甘えとる」と言うものだから「そうじゃなくて抗癌剤でとても辛いんだよ!」…やはり母と私の関係は変わらない。その後主治医の指導医から詳しい説明を母と受けた。詳しくデメリットを説明してくれた。私が母の立場なら「もし私が先生のお母さんだったら抗癌剤しますか?」と聞きたいところだ。が、もう決めてしまっている母は「頑張ります」と抗癌剤治療の承諾書に力強くサインした。家族欄にした私のサインの方が弱々しい。
16th このままの気持ちで母に会うのが怖くて、先に病院内の癌支援相談室に寄った。夜勤明けの娘も付いてきた。話を聞いてもらうと「鬱的になる患者さんも多いです。むしろ楽観的なのは良いのでは?」と言われ、それもそうだと思った。重症部屋から個室に移った母は、部屋が気に入ったようで機嫌が良い。「元気そうやがいね」と言うと、いつもの母の様に「わたしゃ元気やわぁ」と言った。さすがにいつも言ってた「どこもどうもない」とは続けなかったけれど。CT検査の前に足の血栓注射をしてもらいながら、母は「検査で治ってたらこの注射もせんでいいがになる。段々色んな治療せんでも良くなる」とつぶやいた。帰路、娘に言った。「あの(足の腫れた)状態で治っていると思う?とことんポジティプシンキングや。おかーも見習わんといかんのかな」。娘は「おかーがストッパーになればいいがいね」と答えた。
17th 病室のドアを開けると母はベッドに横たわり、腹水を抜いている最中だった。クマのプーさんの絵本に出てくる蜂蜜用のポットみたいな容器に、ポトポトと腹水は滴り落ちていた。抗癌剤(タキソール)の1回目の投与は終わっていた。「どうや?」と聞くと「別になぁんもどうも無かった。今、体がすんごく熱い」と言った。医師や看護師が、薬がアルコールで抽出したものだから酔っ払った状態になるのだと説明していく。血栓対策の弾力ストッキングを買ってくるように言われる。大きなお腹をして白い弾力ストッキングを履いた母の格好はどことなくユーモラスだった。腹水を抜いた母は体が軽くなったと喜んでいる。そして「前の病院じゃこんな治療はできん。小さい注射器でちょっと取っただけやった」…またもや誤解。「それは腹水の中身の検査するためだけなんよ。取ってほしいとゆうたら取ってもらえたんよ」とだけ言っておいた。腹水抜くのは対処療法で体力が弱る事は言わなかった。よく”根拠の無い楽観主義”というが”間違った根拠による楽観主義”もありそうだ。こうなりゃ母の変てこ楽観主義に合わせていこう。
18th 自分のリウマチの通院。CRPの値が上昇していた。肝機能にも異常値が出ていた。くやしい。これまでMTXの効果を最大限に利用して良い状態を保ってきたのに。医師に今のストレスの多い生活を話した。フォリアミンとステロイド3mgが処方された。ステロイド飲むのは何十年ぶりだ。
娘と母の所へ行く。母は院内の美容室でカットしてもらいこざっぱりしていた。そしておしっこが近い以外はどこも何とも無いと言った。母に私の体調が悪くなったのでこれまでのように毎日来れないかもしれないと言いかけると「来んでいい、もう来んでいい、来てもらわんでもいい」と早口で言った。やっぱり母とは波長が合わない。「そうじゃなくて私のペースで来れる時に来るから。だから来てほしくても来れない時もあるかもしれん。その時はなるべく娘やお父さんに頼むけど」と言う。悲しくなる。口では「お前も体を大事にせい」と言いながら、それを具体的にしようとすると通じない。転院前の病院の院長が自分の通院の帰りらしく、母の病室まで顔を出しに来た。母は感激し、院長が帰ると私に言った。「退院したらあの病院に帰る!」…私は切れた。「あの院長に気を使うくらいなら、もっと自分の状態をちゃんと見極めて、私達家族の事に気を使ってよ!今何が大事なんか、見栄や世間体を捨てて考えてよ!」…と言ったものの空しかった。19th 今日はパソコン作業や家のことなど片付ける事にした。夕方母から頼まれた物をとりに夫とアパートへ行った。毎日この部屋へ見に来るが、ドアを開けるとすぐに造花のアレンジメントが目に入る。それがだんだん母の執念の凝縮のように見えてきた。私が先日病室で、母のお見舞いのブーケの枯れた花を整理して元気の良い花だけ一輪挿しに活け直していると、母は吐き捨てるように言った。「花なんかどうでもいい」私はため息が出た。「ばあちゃん、お花も一生懸命生きとるんやから、命のあるもんなんやから」…母のほしいものはなかなか見つからず、電話をして尋ねながら探していた。2階の人が「道路に車停めてあるでしょ?警察来てる!」と声をかけにきた。夫が慌てて飛んでいったが遅かった。罰金1万5千円なり(>_<) 車は母のだから母宛に請求されるそうだ。母に払ってもらおう。だって片付いてないからすぐに物を探し出せなかったんだもの(^^ゞ
20th 昼前は家事。玉葱がたくさんとれたので、義兄に半分取りに来てもらった。今年早々父親を急に亡くした義姉は、残された痴呆の家族の世話に実家に通っているが、今でも受け入れがたくボーっとしている事が多いそうだ。玉葱を夫婦で吊るしていると、「一服しまっし」と叔母がカップアイスを二つ持って来た。蒸し暑い最中のアイスは口に快く広がり、夫と取り替えながら二つの味を食べる。こんなホッとしたひととき、小さな幸せを感じる。
午後から夫と金大へ行く。駐車場が混んでいるのは「合同慰霊祭」の立て札と関係があるのかな?病棟への長い通路を歩きながら自分に気合を入れる。母も含めて周囲の人は、金沢へ車で通う事の大変さを心配してくれるが、それは大したこと無い。母との噛み合わない会話とその後味の悪さに滅入る。母が小松でなく金沢にいる事で、面会時間が少ない事の言い訳にさえなっている。そのくせ見に行かないと気にかかる。母は「元気だよ」と言いながら、一昨日ほどの元気は無く、「小さくなった、なった」と撫でながら見せたお腹も、一昨日よりはまた少し膨らんで見えた。21st (社)日本リウマチ友の会石川県支部総会・大会。今年は母の事があり、色々パスしたお世話や準備があった。しかし逆に送迎や連絡ごと等協力してもらえた事が多い。夫の一眼レフを借りていったが、なんか設定を間違えてたので良い写真は撮れなかった(^^ゞ 今年は朝日放送・北國新聞・中日新聞とマスコミが3社も来たので対応に追われた。記者から、「今年度は何か新しい取り組みはないですか?」と聞かれた。支部行事の事しか念頭に無かったので、「昨年度新しく始めた事を続けて広げます」と言ったが、要約筆記のことをすっかり忘れていた。とても積極的で全国大会へも1人で出かける聾唖のSさんが参加しやすいよう金沢市聴力障害者福祉協会へ要約筆記を依頼した。彼女はとても喜んでくれ、じゃお返しにと、こちらが頼んだ全国大会のレポを書いてくれた。講演の洲崎俊男先生(金沢大学大学院准教授)も、去年の『語り部活動』のお返しである。こういう『お返しの輪』をつなげていけたらなぁ。小松喨一先生(金沢卯辰山工芸工房館長)は「金沢の文化土壌と御細工所(加賀藩)」という話の中で「加賀藩が大勢人が集うのを嫌ったので、庶民はおよばれや茶会など小さな集まりの中から文化を育んだ」と言った。これ、もしかして私好みの目標かも(*^_^*) それから先生はリウマチになりかけの頃、アメリカへ行ったら湿気が少なくて症状が軽減したと言ったが、じゃアメリカ在住のRA患者の症状がみんな軽いかって言えばそうじゃないし…。あ、これも今年やった新しい事だった。ランチタイムに「サンキュウー(39)オークション」と題して、何年も前から受け継いで預かっている展示用や売れ残りの自助具を売り払った。すっきりした。
終了後、金大へ急いだが街中は混んでいて女性センターから23分もかかった!小松の家から50分余りで行けるのに。生物製剤のための検査入院しているNさんの病室に寄っていこうと、受付で部屋番号を尋ねたが、そんな人は入院していないと言われた。「うそや、こないだ廊下で会ったもん、一昨日も電話で話したもん」と言い返していたがようやく分かった。私はこれまでず〜っと彼女の名前を間違って呼んでいた…(^^ゞ 母は昨日私が置いて行ったきゅうりの煮物は食べてあったが、わずかに入れた生姜が沁みたと言う。口内炎は良くなったとくり返すが、結構ひどそうだ。友の会のお昼に出た烏骨鶏のカステラを置いてくる。これなら大丈夫だろう。22nd 母は口では辛くないと言うが、「寝とる方が楽やし」と横になった。これまで熱のあったとき以外は、私が側にいる間は起きていたのだが。寝巻きの隙間からはみ出しているお腹に、バスタオルをかけようとするのを嫌がった。腹水が重いのだろう。
今年は梅がたくさん採れた。梅ジュースと梅酒にしてもまだ10キロ以上あり、半分は近所へ分け、残りを夫が自分で漬けるからと張り切っていた。ここ数日玄関に置いて追熟するのを待った。段々ふくいくとした梅の香りが漂うようになった。苛立った神経を包み込んで溶かし、思わず微笑んでしまう。猫にマタタビ状態?夫はちゃんと自分でやれるから口出しするなと宣言していたので、お米のとぎ汁だけ用意して後は知らん顔していた。夕食後、夫は梅と格闘していた。終わってヤレヤレとネットをしていた夫が叫んだ。「とぎ汁に一晩浸けておくんやったんかぁ?もう塩漬けしてしもたぞい。何で言わんのや!」…だって口出しするなって言われたもん!
23rd お昼を食べそこねて病院へ行った。洗濯物していると、売店の移動販売ワゴンが通ったのでおにぎりを買った。私に言うでもなくひとりごとのようにボツボツ話す母の横で食べる。ゆかり味におぼろ昆布のシンプルなおにぎりだが、体にしみていくようにおいしい。私の記憶にはあまり母の作ったおにぎりの記憶が無い。祖父の作った大きくてしっかりした、きな粉が付いてたものか、祖母の軟らかく握った、まん丸の中に紫蘇が入った”おむすび”だ。
帰宅してメールをチェックすると、リウマチの方から雑談に付き合ってくださいと昼ごろ着のメールが届いていた。翌日電話すると、生物製剤の切替とご主人の介護の兼ね合いで悩み落ち込んでいたとの事。でもご自分で解決した様子。そうなのです。問題は結局自分で答えを出すしかないのです。でもその過程で、話を聞いてもらって問題を整理していく助けがほしいんです。ごめんなさい。今回は間に合わなくて。携帯メールをお知らせしておく。24th 早番で昼に帰宅した娘と、午後から母の所へ行く事になっていたが、寝ていて起きない娘に苛立ちひとりで出かけようとした。車内で口論しながら病院へ向かった。娘は言った。「オカーはいつも命令口調だ。私が行ける日は行かないでいい。しんどい思いしてまでばあちゃんのとこ行かんでいい!」 私はなぜイラついているか、また娘の知らない私と母とのこれまでの関係を話した。話しながら涙があふれてきた。いつも1分でも早く着こうとアクセルを踏み込むのを、今日はこの1時間の時間の余裕がありがたかった。病院に着くころには感情が収まった。
ドアを開けると母は2回目の抗癌剤の点滴の最中だった。そしてパニックになっていた。点滴の間にトイレに行けなくてリハビリパンツが漏れてシーツを濡らしてしまっている事。看護師に敷物を挟んでもらったが、それを通り越してまだ尿がでていると、半泣き状態で訴えた。点滴が丁度済みそうだったので娘にナースを呼びに行かせ、「抗癌剤の点滴はもう終わるから、針を外してもらったら、きれいに取り替えよう」と言うが、いや抗癌剤はまだしてない、これからまだしなくてはいけないんだと言い張って聞く耳持たない。看護師が来て点滴を片付けてようやく納得した。体を拭いてもらい着替え、段々落ち着いてきた。そしてお預けになっていた昼食を「ああ、人心地ついた」と言いながら食べだした。主治医が見に来たので、先週心臓血管外科へ受診した理由と結果を尋ねた。母の報告では「医者の顔見てきただけや」というのを、きちんと説明してもらえた。25th 今日は金大へ行かずに家のことをしよう、と決めていた。朝のごみ出しを終えて、玄関を掃こうとしていたら電話が鳴った。何ということはない普通の用件の電話だったが、受話器を持ったままソファに座るとそのまま息だけしていて時間が過ぎた。書類を出してテーブルに並べる気力が出ない(^^ゞ シャワーでも浴びてすっきりしようとしたが汗で張り付いたシャツがなかなか脱げず、シャツの端を口でくわえたり自助具を使ったりしてようやく脱いだ。しかし今日は3食しっかり食べた。しかも野菜たっぷり(*^_^*) 娘が抗癌剤の副作用の特集を載せたナース用の雑誌を借りてきた。末梢神経障害は、薬の蓄積により出やすくなるという。母は昨日の2回目の時点で、足がぴくぴくするのをとても気にしていた。それから同じ抗癌剤治療の患者であっても、余病のある高齢者には特に注意が必要であること。癌を治すのでなく、症状の改善や延命効果のために投与している患者への介入には注意を要すると書かれてあった。…その家族はどうしたら良いのだろう?
26th 夫と母を見に行く。前々から母に、親戚の人らが見舞いに来たいそうだよと言う度、「来ていらない。もっとよくなってから来てほしい」と言って受け付けなかった。「今日ここ来る前におばちゃん来て、『うちの父ちゃんが友達にはお見舞いさせて何でわしらが行ったらいかんのやと怒ってた』と言いにきんやけど…」と母に告げた。母はすぐには返事をしなかったが、後から母なりに考えた答えを出した。「3回目の抗癌剤が終わったら来てもらいたい」と言った。母の気持ちが痛いほど分かった。母は3回目の抗癌剤をすれば効いてきて良くなると信じている。そして癌が治って家に帰る事だって出来るはずと自分に言い聞かせている。母が親戚に会うと話したのは初めてだ。夫もいた事で、母はいつもより冷静に判断したのだと思う。
帰宅して夫と二人でビールを飲みながら夕食を食べていた。そこへ息子から、出張帰りに帰宅するから迎えに来てと電話がかかった。10分遅かった!二人とも飲んじゃった!娘が駅の近くの講演会に行っていて丁度時間的に合うから連絡取り合って何とかするよう言う。が結局、息子は歩いて帰宅した。娘は、講演会が混んでいたので先輩らと逃亡してご飯を食べてたそうな(^^ゞ27th 家族揃って母の所へ行く。母は辛くなってきたので腹水を抜いてもらうと言った。娘と相談して厚い紙オムツに、裏側に穴をあけた厚いパッドを重ねて準備し、「たとえ濡れても洗濯すればいいんやから」とパニックにならないよう安心させる。医師も前回の反省を踏まえ紙コップを使って、管の角度を保てるように工夫してくれた。私達も滴りの速度に注意し、遅くなったり容器が満ちるとすぐに知らせに行った。前回より短時間で処置が終わり、母もベッドを濡らさずに終わりホッとした様子だった。
ひとときの家族が揃った時間だった。昼の電車で帰る息子を金沢駅へ送り、私は「男女共同参画のつどい」へ送ってもらった。勝間和代さんの講演に、例年になく参加希望者が多く、知事があいさつに「この場に来られた方はラッキーです」と言っていた。私は別の意味でラッキーだと思っていた。参加申込みしたとき、もしかして行けない事態になるかもしれないとさえ思っていたから。勝間さんがテレビに出てたとき、彼女の声は討論向きじゃないと感じた。彼女が自分で自覚してボイストレーニングに通っていると知り、そこんところがさすがと思った。
帰宅すると、金沢の帰りにWiiを買ってきた夫と娘が、一緒にスポーツ(?)していた(^^ゞ28th 夫には用事の分担を頼み、私一人で母のところへ行く。母はしみじみ「ラジオで聞いたけど、半分の人が癌になるんやて」…これは今まで私がいつも母に言ってきたことだ。父が癌で亡くなったとき、母は父の家系は癌家系なのだと決め付けた。そして自分は癌とは無縁だと言った。母が4年前、多発性骨髄腫と言われたとき、とてもショックを受け荒れた。私は「人間、『生老病死』が約束なんやから、なんかで死ななくてはならん。ばあちゃんのその病名も昔やったら検査もせんから分らずに、年取って死んだで片付けられとったかもしれん。癌のこと騒ぐけど、年いったら半分は癌で死ぬんやから、昔の中風やら結核で死んだんと大して変わらん」と慰めようとした。やっぱり私の言葉は、母には届いていなかった。それまで母は自分の念願は100歳まで生きる事だと言い、私が大学病院に献体したいと言った時、真顔で「墓に行っても骨が無いのはさびしいわぁ」と言う人だった。…しばらくして、また母は「私は見せしめで癌になった」とぽつりと言った。「え?『見せしめ』って何それ?」私は驚くと同時に、頑なにお見舞いを拒否する理由がこれかと思った。「今、半分の人が癌になるって言うたがいね。じゃ、半分の人が見せしめなんかい?」と言うと、母は口をゆがめて笑った。母は新興宗教の熱心な信者である。人前ではばかりも無く、信仰は素晴らしいと言ってきた。やっぱり母の信仰は自分の欲望を叶えるための、現世利益の追求だったのかと落胆した。
29th 息子は帰宅する度、忘れ物をして行く。車のキーを速達で、スーツの上着とYシャツをゆうパックで送る(^^ゞ
ラジオで言っていた癌の本を読みたいと、昨日母からメモを預かってきた。調べてみると、メモはあやふやだったが国立がんセンターというキーワードを頼りに『患者必携−がんになったら手にとるガイド(試作版6/26)』を見つけ、卵巣癌や化学療法の部分を印刷して持って行った。母はチラリと見ただけで、さっきラジオでやっていた国会での子宮頸癌のワクチンの話題を熱心に話し出した。私が「卵巣癌にはワクチン無いねぇ」と言うのを無視して子宮頸癌の話に固執した。自分の癌の話はしたくないみたいだった。話題を変えて昔の話にすると、母は活き活きと語りだした。あぁこれが聞き書きなのだ!と思い、ノートにメモを始めた。母の声は力を帯びてきて「私は忘れないで何でも覚えている」と得々とした表情になった。30分あまりの後、「じゃ、また明日聞かせてもらうし、思い出しといてね」と言って帰った。
30th 金大への道を通いながら、なんだかこれが『日常』になってきつつある事に気がつく。母の所へ行っても、今日は洗濯があるからと、話しかける母を遮って、まっ先に洗濯機を確保してスイッチを入れてからベッドサイドに座る。洗濯機や乾燥機の癖もわかってきた。待たされるエレベーターを利用しなくても、エスカレーターと階段を組み合わせれば、より早く病室にただりつけることも分かった。病院のコンビニの品物の配置を覚え、駐車場の、午後には日陰になる位置も分った。そんな風に通ってる家族が何人もいるんだろうなと、病院ですれ違う人達にも近所の人のような親近感が湧く。