小松市尾小屋町

西尾村と尾小屋町

西尾村の地形
 東南から西北にかけて、白山山脈の支脈によって包囲せられている山林地帯で、僅かにその中央を流れる河川の流域に平地があるのみである。主要な山は大倉岳(650.7m)と西俣から大杉にまたがる動山(604.3m)で、ともに麓から山頂まで四㌔余りある。
 大倉岳に発した尾小屋川は西流して、動山に水源をもつ西俣川は北流し、この二川が岩上地内で合流して郷谷川となっている。郷谷川は沢地内で松岡谷川を合わせ、金野で大杉谷川を合わせて軽海川となり、更に梯川となって安宅において、日本海に注いでいるのである。従って、これらの河川流域の、侵食地帯や沖積地帯に、耕地が開かれ集落が出来ていった。耕地は百五十五町歩、集落は尾小屋、西俣、岩上、観音下、波佐羅、塩原、布橋、沢、松岡、池城、三ッ谷の十一大字があった。
 昭和31年9月30日の小松市編入と共に西尾村としての歴史が一応閉じられることになったが前記の外に大曲倉谷を合した倉谷町が誕生している。三ッ谷は小松市編入で光谷町となった。
 昭和37年の鉱山閉山で倉谷町は消滅、光谷町は38豪雪で翌年に全世帯が集団移住、無住地となった。
 西尾村の由来は明治23年、尾小屋ほか十ヵ村戸長役場から村制をしくに当たり西俣谷と尾小屋谷の頭文字をとって西尾村になったものである。


尾小屋町

 尾小屋は、東方は大倉岳山脈で阿手、五十谷と波佐羅の飛地に連なり、西は高積山脈で西俣に接し、南は大倉岳山脈で丸山と小原に隣し、北方は岩上と観音下の飛地に界している。
 東西26町、南北1里12町の地域である。村の南方の大倉岳の西麓にある一作谷から流れ出た谷水が、屈曲して北流し、東からへげ谷水、大倉谷水、岩底谷水、阿手坂谷水を合して尾小屋を通り、西から深谷水をいれ、屈曲して北流し、東の崩谷水、倉谷水を合流、風端で観音下の飛地に流れ去る尾小屋川がある。村の東南西の三方は、屏風の如くに山々がとりまいているが、その山々は大倉岳、五家作峯、倉谷山、高積山、小谷岳、箒山、崩谷山、清六山などである。
 大倉岳は、阿手では金山と呼ばれていて、東南の丸山、阿手の地界にある。山は四つに分れていて、南の二分は丸山に、東北一分は阿手に、西北一分は尾小屋に属している。山の西南は鈴岳山脈から続いて、連絡した数峯を長峯と言っている。大倉岳の西方の丸山・小原に行く道を五百峠と呼んでいる。一作谷、へげ谷水、大倉谷水などの、尾小屋川の水源がこの山中から発しているのである。
 五家作峯は、阿手では百谷山、五十谷では林谷山と言っているもので、東北の一分は五十谷に、東南に一分は阿手に、西方の二分は尾小屋に属している。南方は大倉岳に連絡していて、岩底谷水、阿手坂谷水がこの山から流れ出て、阿手に出る路を阿手坂と言い、特に険阻な坂を仏峠と呼んでいる。
 倉谷山は、北は波佐羅の飛地、東は五十谷、西南は尾小屋に属し、五十谷では間谷山と言っている。南方は五家作峯に連なっている。高積山は、めつつり岳とも言われ、西は西俣に、東は尾小屋に属し、南方は大髯谷山に連なっている。谷水は西俣川に流れ入っている。小谷岳は西南にあって、深谷川は尾小屋川に流れ入り、箒山は西方にあり、南方は高積山に連絡している。
 東北にあるのが崩谷山であり、清六山は岩上、波佐羅の飛地界にある。東方で野谷山に連なっているものである。
 尾小屋川に沿うて人家が三ヶ所に分かれているが、上流にあるのは上村で、中央にあるのが中村、下流のものを下村と言っている。上村は尾小屋、中村は長原であり、下村は二ッ屋である。尾小屋が本村で、長原と二ッ屋とが枝村とされているが、始めは長原が先に開けた。細長い野原に住みついて白山社を中心として部落生活が始まった。だから尾小屋や二ッ屋の白山社より古くて、村社となっていた。
この長原の一部の人々が、山の尾に仮小屋を造って炭焼きなどをしていたのが、尾小屋である。二ッ屋は長原から出た二軒の家があったので、この名が起ったのである。
 さて、尾小屋の方は天領と呼ばれる丸山方面に通ずる五百峠の交通上の要所にあったことで、加賀藩領と幕府領とを警備する関所もできるし、丸山方面の人々が買いものをする店もできて、長原より戸口が多く、遂に村名を代表するに至った。明治になると戸長役場制度となり、尾小屋には戸長役場が設置されて尾小屋、新保、須納谷、丸山、杖、小原、西俣、岩上、観音下が、その管轄であった。
 明治19年になると家数は98戸に増加し、男288人、女291人、計579人と増加している。明治22年には西尾村字尾小屋となり、村役場は布橋に移って、政治上の中心地としての地位を失ったが、尾小屋鉱山の発展と共に、各種の商店が開かれ、鉱山に勤める人々の住宅も続々と建てられていった。藩政の頃までは、郷谷の最奥の土地であったので、耕地も極めて少なかった。僅かに薙畑によって土地を拓き、稗、粟、鴨足を作って常食とし、人々は木樵や炭焼を主として、茅屋に住んで雨露をしのいでいた。苧屑で織った白剝織に縄帯をして、女達は四里もへだてた小松に、木炭をになって売りに行く有様であった。故に、

  嫁にやっても尾小屋はいやじゃ   朝の暗いから炭かつぎ の俗謡があったほどであった。それが鉱山の繁栄によって、明治になるや世態は一変した。
  嫁にやるなら尾小屋にやらんせ  金は天から地から湧く と唄われるに至ったのであった。
 尾小屋では、昭和25年度から29年度まで、五ヶ年間に亘り、当時の県森連会長伝清作、尾小屋区長川上義友等の努力により、県営水源林造成事業として、風端茂り谷
阿手坂岩底谷にかけて約140町歩に、アカシヤ松等の大植林を施工した。
 
昭和31年9月30日の小松市編入と共に小松市尾小屋町となり、尾小屋町、尾小屋町二ッ屋、尾小屋町長原、尾小屋町長原社宅、尾小屋町社前社宅、尾小屋町阿手坂社宅に分かれていたが昭和37年の鉱山閉山で社宅は消滅、現在は尾小屋町、尾小屋町二ッ屋、尾小屋町長原のみが残っている


統計的に見る尾小屋町
 昭和32年1月1日(西尾村史より抜粋)
   尾小屋町(長原、二ッ屋を含む)247戸、1154名
   尾小屋町長原社宅        67戸、 303名
   尾小屋町社前(やしろまえ)社宅  47戸、 211名
   尾小屋町阿手坂社宅、      50戸、 207名
   以上尾小屋町総計       411戸、1875名
  倉谷町を含めた尾小屋鉱山町全体としては
   倉谷町総計(大曲、小曲を含む)245戸、1140名
   尾小屋鉱山町全体       656戸、3015名

 令和3年1月1日現在、全体で平均年齢62.8才、高齢化率48.3%である。

人口推移


        
      昭和30年頃の鉱山総合事務所          昭和30年頃の尾小屋上町全景


                  
       昭和36年7月24日 プールオープン       昭和37年頃の 葬式、出棺風景
  
和田市長代理をはじめ関係者多数出席のもとに尾小屋町
  プール開きは盛大に行われたが皮肉なことに翌年に鉱山が
  閉山、有効に利用されることなく埋め立てられた。


        
          昭和35年頃の尾小屋上町               左写真とほぼ同じ場所の現在