小松市尾小屋町

旧跡名勝伝説

尾小屋口関所址
 加賀藩と幕府領との境界に位していたので、丸山道と阿手坂との交差点に、寛永15年(1638年)から関所が設けられ、加賀藩主から任命された2名の村民が、ここを守って往来の人々を検察していたが、明治4年に至って廃止された。山岸薫雄の家には、これに用いられた鎧、兜、鳶口、熊手、えがら棒、跳子などが残っていたが家屋が取り壊された現在所在は不明である。


尾小屋高原スキー場
 大正12年1月に、県教育課の主催で新潟県からコーチを招いて、阿手小学校付近で第1回石川県スキー講習会が開かれ、翌13年1月には五百峠で第2回講習会が催された。この時、五百峠スキー場と名付けられ、約20名を収容する山小屋も出来た。以後、尾小屋鉄道の宣伝によって県外からも知名のスキーヤーが訪れて、講習会も度々開催された。
 五百峠から大倉岳登はん、阿手坂付近に帰路を求めるスキーコースも発見されて、年々多数のスキーヤーによって、利用されていた。
 昭和26年に小松のホワイト・ベア・スキー倶楽部で、現場に30名を収容できる設備完全なヒュッテーが建設された。そして、五百峠、大倉岳一帯のスキー場を総称して、尾小屋高原スキー場と名付けてた。かくてこのスキー場は北陸三県スキー場の発祥地としての歴史を有するのである。

           
      尾小屋の子供たち 尾小屋高原スキー場にて 昭和27年2月17日
関連新聞記事
昭和62年9月の北国新聞

      白山麓スキー場 五百峠 県内初、68年前に開設
 
小松市尾小屋町の山肌に変化に富んだスロープを描く大倉岳高原は、その歴史をたどれば六十八年前の五百峠スキー場開設にさかのぼる。県内で最も古く、大正から戦後にかけてスキーヤーのメッカとして県外にまでその名を響かせ、「大倉岳」という名前は知らなくても「五百峠」と聞けば目を輝かすオールドファンがいるはずだ。
 同スキー場は鉱山が隆盛を誇っていた大正八年、尾小屋鉄道の営業開始と同時に、同鉄道の創設者である故越田荘太郎らが中心となって、大倉岳に尾根を接する五百峠を活用したのが始まりである。父親の影響で八歳からスキーを始めた昭和三十年には国体の県選手団総監督を務めた越田小太郎さんは「当時、山にはまだササダケなど細い木ばかりしかなく、一bも雪が積もれば上から下まで八百bぐらいのゲレンデが出来た」と振り返る。熱心なファンは、尾小屋駅から小一時間かけて山へ登りスキーを楽しんだ。

 一部のマニアにしか知られていなかった五百峠が、リフト付きの本格的なスキー場に脱皮する契機となったのは、ほかならぬ尾小屋鉱山の閉鎖である。昭和三十七年秋に閉山となってから、それまで約五千人いた尾小屋町民は生活基盤を失い、山を下りたり転業したりして三年後には三分の一近くに激減した。残った人々から町おこしの起爆剤が切実に求めらていたのである。この時期に、関東の大手観光会社が、五カ年計画で尾小屋地区一帯の一大観光化構想を打ち上げた。スキー場を中心にハイキングコースや遊園地などを付設した大規模なもので地元はもろ手を上げて歓迎した。同町の土建業河原昭二さんは「町中が軒先に日の丸を掲げて喜んだものです。土地もほとんど無償提供した」と当時の住民の期待の大きさを思い起こす。
 こうして昭和四十年、千四百bのゲレンデ、ロッジ、八百bと四百bの二基のリフトを備え、当時、北陸で最大級のスキー場がオープンした。当初は関西方面を中心に一日六千人が訪れる大盛況で、かってマニアを楽しませたバラエティー豊かなコースが一般に広く利用されることになったのである。


五百峠(標高450m)

 
「尾小屋から丸山方面に通じる約4kmの急勾配の坂道を五百峠と言っている。坂今は旧道となって道幅も広くないが、それでも其の間二十有余の曲折をへて頂上に達するのである。登るにつれて眼下に開けていく展望は雄大である。尾小屋町の家並みは勿論のこと、加賀平野が指呼の裡にあり、頂上では遠く日本海も望み得られ、右手の大倉岳と共に一大景観をなしている。
 五百峠については(能美郡名蹟誌)には、
 ”公領より小松へ出る道筋、往来大木生茂り、通行困難、斧五百挺で伐り抜けり”
とその名によって起る由来が書かれ、(宝永誌)にも同様に記されている。大倉岳については(宝歴14年旧蹟等調書)には只、高山とのみなっている。

 
五百峠と大倉岳の間の谷間に千枚田がある。急斜面の土地に段々と重なって開拓された棚田の類は五百に近い。輪島の南志見にある千枚田は広く知られているのに反して、この千枚田は案外知られていないのが残念である」と昭和33年9月発行の西尾村史に掲載されている。
 旧道になったとは言え、このルートは郷谷往来(郡動小松新丸線)と呼ばれ、昭和35年頃までは尾小屋
新丸住民がよく利用していた。当時は現在のようなバイパス道路[注1]がなく尾小屋町内を直進、鉱山事務所前で右折、郷谷川手前で左折後直進、阿手隧道から流れる川と五百峠から流れる川の合流点で道路も交差、左折は阿手隧道を経て阿手町に至るルートになっていたが現在は廃道[注2]。この交差点を直進、丸山道部落跡、大倉岳高原スキー場ファミリーゲレンデ[注3]にあった千枚田を経て、二十有余の急坂を登るものであったが自家用車の普及で郷谷往来は利用されなくなり廃道、五百峠を示す標識などは設置されていないので当時の五百峠[注4]の頂上は定かでない。
 現在でも丸山道部落跡から第1駐車場付近までの道路、右山側4〜5mの高さに郷谷往来は残っているがところどころ崩壊しており、とても通行できる状態ではない。
 現在のルートは国道416号で五百峠トンネルを抜け、尾小屋町と丸山町の境に位置する最頂部の分岐点までを五百峠と言っている。分岐点直進は丸山町、左折後前進は綿谷に沿って大日湖、左折後後進は大倉岳高原スキー場山頂部の無料休憩所ホットハウスに通じている。

注1

 昭和40年、箱根観光開発会社による大倉岳スキー場開発にあたり、大型バス通行のための尾小屋町内道路拡幅に一部住民の了解が得られず、やむなく現在の鉱山資料館と白山社の中間地点、昭和寮(ホワイトカラーの独身寮)跡地付近で左折、右側の尾小屋町と平行に直進、鉱山事務所跡地を通ってスキー場に通じるバイパス道路が完成した。
注2

 昭和40年のバイパス道路建設時に阿手隧道を経て阿手町に至るルートは鉱山事務所跡地の駐車場交差点を左折する道路となった。現在、阿手隧道は通行できないが隧道までの道路は完成しているが車での通行は出来ません。
注3

 箱根観光開発会社経営時代は「千枚田ゲレンデ」と呼ばれ親しまれてきたが小松市営になってから「ファミリーゲレンデ」に変わったもので、このままでは尾小屋に千枚田があったことすら忘れ去られるようで寂しい。尾小屋町を故郷に持つ者として「千枚田ゲレンデ」の復活を願いたい。
 昭和40年オープン当時のパンフレッド参照
注4

 五百峠は唯一、昭和33年発行「西尾村史」の中の西尾村全体絵図面に示されている。

雄滝、雌滝

 南方三町余、尾小屋川の上流にある。高さ一丈八尺、幅一間三尺のものを雄滝とし、その下流二十間余のところに、高さ一丈二尺、幅二間のものを雌滝と呼んでいる。


二ッ屋地蔵堂(通称じぞうさん)
 尾小屋トンネル脇の旧道にあったが平成16年9月のトンネル開通に伴い廃道になったため平成16年11月に現在の位置(トンネル小松側入口広場)に移転、由来を刻んだ石碑も建てられた。
           
      
尾小屋旧道にあった地蔵堂          移転した地蔵堂と新しい石碑
石碑に刻まれた「仏御前と地蔵さんの由来」

 この地蔵さんは尾小屋トンネルの山端、旧道脇にありました。トンネルの上出口の川端に大岩があったので(昭和9年の洪水で流失)その辺を大岩畑と呼ばれていた。この地蔵さんは昔から子供の地蔵さんだと伝わり、立派に祠に奉られて大岩畑に鎮座し、代々地元衆に護られてきました。
  その昔、平清盛に寵愛された白拍子の仏御前はここ大岩のところで清盛の子を死産(1178年頃)した由。それ故ここにこの地蔵さんを建立し、清盛との子供を懇ろに葬り弔った。
 産後の仏御前は長原村の中山家にお世話になり、別れに際し、深く信仰していた十一面観音像と櫛とこうがいをお礼品として旅立ったと云う。その品々は現在中山家に手厚く所蔵されている由でございます。中山主人が仏御前を見送った阿手坂峠は仏峠と云われている次第です。
                平成16年11月吉日    合掌
                     尾小屋二ツ屋地蔵さん奉賛会

関連新聞記事

平成16年12月6日の北国新聞
   「二ッ屋地蔵さん」移転法要
         源平の世に思いはせ
 小松市尾小屋町、岩上町の住民に親しまれている「二ツ屋地蔵さん」の移転法要は5日、小松市の尾小屋トンネル入口広場で営まれた。尾小屋二ツ屋地蔵さん奉賛会の土田博会長は、地蔵尊は平清盛の寵愛を受けた仏御前の子を弔ったとの説を唱えており、参加者は遠く源平の世に思いをはせた。地蔵尊は現在の尾小屋トンネル脇の道路に祀られ、住民が絶やさずに花を供えるなど親しまれてきた。9月のトンネル開通によって廃道となったため、十一月二十三日に移転し由来を記した石碑も建てることにした。
              
                  焼香する参加者

阿手坂十一面観音像

 県立尾小屋鉱山資料館横の登山道から0.5km位登った場所に十一面観音像と石碑が建てられている。
            
       十一面観音像と石碑           鉱山資料館から2.2km佛峠
石碑に刻まれた「佛峠の由来」

 養老年間の頃 尾小屋の里中山仁太郎二代の祖の時なりき ある仲秋の夕暮一人の女門口に佇み請て曰く「我れ長き旅に疲れ果て今や一歩も進むを得ず願わくば一夜の宿を貸し給へ」主人その様を見るに人品賤しからず こは只の女には非じ定めし由緒ある人の忍ぶ姿ならんと快よく請じ入れて厚く遇せり滞ること数日 ある朝主人に向いて礼を述べ御身の厚き情に計らずも長居し疲れも癒えたれば出立せんと思へども身に寸金も帯びず粗末なる品なれど心ばかりの印なりとて十一面観音像と髪に差したる櫛 笄をば抜きとりて主人に與へて出立せり 主人別れを惜しみ見送りて尾小屋 阿手間の峠まで従いしに女は懇に主人の労をねぎらい「我れ今白山を見るを得たりさればこれにて別れん」と身を一羽の白き雉子と化し大空高く翔け去れり 主人茲に始めてかの女白山権現の化身なりしかと大いに驚き十一面観音像 櫛 笄を家宝となして代々秘藏せり 爾来この峠を佛峠と稱せり
             昭和63年6月吉日

関連新聞記事
昭和44年8月30日の北国新聞

   民話の旅 白雉(きじ)の恩返し
     “夕鶴”ならぬキジの恩返し 優しい山里の人情

 加賀の山々は、飛騨山系にも連なって、能登のそれより高くて深い。
 そのふもとの町、小松市尾小屋町は国鉄小松駅から十七`ほど山奥に入る。途中いくつか部落はあるがほとんど未舗装で部落の中だけがアスファルト舗装されていた。この砂ぼこ道と尾小屋鉄道の電車路線と郷谷川の三つが仲良く並んで奥へ奥へと続く。
 前方と左右の山並みも連続して切れ目がない。それが幾重にも重なり合っているところを見ると、やっぱり深い山奥に向かっていることがうなずける。
 だが、昔と違って、こんな山深いところでも、送電線であろうか鉄塔や電柱が立ち並んでいて、人っ気が消えていない。象形をくりぬいた木札に「保育所あり」と書いた看板が、いくつも目についたのは、交通事故をおもんばかっての人間臭い配慮なのであろう。そうは言っても、山の冷気は、正直なもの、奥へ行くほどに濃く立秋も過ぎれば、さすがに爽快である。


 木下順二作の戯曲に“夕鶴”というのがある。病んだツルを看病してやったら、ツルは自分の羽をつむいで布を織り、それをお礼において行ったという東北の民謡から取材したもの。尾小屋町にはツルの代わりにキジが登場する“白雉の恩返し”という民話があって、地元の人たちに親しまれている。
 今から一千二、三百年も昔のこと。尾小屋に仁太郎という男がいた。ある秋の月夜、トントンと表戸をたたく音がしたので出てみると、美しい女が立っていた。
 「わたしは山道を歩いて疲れ果ててしまいました。泊めてもらえませんか」と声もか細い。仁太郎は気品のある女に同情して宿を提供した。美しい女は、ぐっすり寝込んで五日目にようやく目を覚ました。

 「私は一文も持たないが、大事なクシとコウガイをお礼に差し上げたいが貰ってくれませんか」と熱心に懇願するので仁太郎は、それを受けることにした。白山が見える峠まで見送っていくと、その女は「わたしは、ここから飛んでいきます」と真っ白いキジに早変わりして、峠の向こうに消えていったという話。
 この峠というのは、同町阿手坂にある“仏峠”をいい、白山へとつながっている。同町の中山光慧さんの家には、今もコウガイだけが家宝として残っている。光慧さんは、中山家の何代目になるのかわからないが、仁太郎の子孫ででもあろうか、キジだけは代々食べないことにしているそうだ。
 尾小屋はかって銅山で知られた町。不況にあって七年前、七十年の歴史を閉じた。「あすからの生活をどうする」と思案のあげく観光レジャーの町に生まれ変わった。
 県外資本を迎え入れて大倉岳の斜面を利用して高原スキー場を昭和四十年にオープン。また硫酸カルシウム分を含む温水の噴出を利用して地元の人たちが温泉センターを同四十三年に設立した。“健康で安いセンター”を目指すこの温泉は神経痛、リューマチ、皮膚病などに効くと言われている。スキー場は昨年冬、七万七千余人の客を迎えた。スキー場ロッジ、温泉センターで収容しきれないところから民宿も二十数件できた。

 このあたりの山は、銅山時代の鉱煙毒でヤケドのような山肌が残っているが、それも今は観光資源の一つ。大倉岳(六百五十b)に登れば白山、大日川ダムが眺められ、山の途中には春から初夏にかけて水バショウ、シャクナゲの群生がある。
 郷谷川、そしてその下流の梯川の源がこの山。そのふもとに温泉センター。その中間に仏峠、野ウサギ、リス、キジが山歩きの行く手に飛び出して自然を忘れかけたハイカーたちを驚きと感動に誘うのもこのあたり。まるで、この民謡がこのあたりの観光レジャーの舞台を演出しているようだ。

管理者コメント
 スキー人口の減少で尾小屋町の民宿は消滅、温泉センターも取り壊され、跡地には現在鉱山資料館が建てられているが、かって阿手坂には50戸あまりの鉱山社宅が山肌に階段状に建っていた。
 また、二ッ屋地蔵堂、阿手坂十一面観音像の石碑に刻まれた文言に出てくる女性を世話した男性は同一人物だが女性は平清盛に寵愛された白拍子の仏御前と白山権現の化身、今から千二、三百年も前の話でどちらが正しいかは検証の術はないが代々受け継がれている民話である。


倉谷山の伝説「孫左エ門岩」

 倉谷山の山腹にある巨岩。孫左エ門は鳥越村の大強盗であった。ある時に金沢尾山の西福寺へ強盗に入った。しかし彼も遂に追われて、山越しに倉谷山に逃れ、此処の奥行五間、間口二間程の大巌窟を住居とした。彼は一人娘「かつら」の死により、吉崎に蓮如を訪ね、その弟子となった。
 十年後蓮如に別れ、形見の木像を頂いて中途、波佐羅村で一宿一飯の恵みを受けて帰山した。後に蓮如の教えを広めるため、波佐羅村に移住し、かっての一宿一飯の恩義に報いるため、自分の居た倉谷山一帯を波佐羅の人達に与えたという。更に尾山の西福寺を訪れ、前非を詫びて蓮如の像と豆の木の太鼓を寄進した。
 今も蓮如の木像は波佐羅町に、豆の木の太鼓は西福寺に現存する。豆の木の太鼓は、彼が往年、川内村吹上部落の床屋から盗んだものだと言われる。