小松市尾小屋町

新聞で見る尾小屋町

昭和41年3月10日の北国新聞
大倉山スキー場はだれのもの?
  
寝耳に水の譲渡請求
   地元は「貸しただけだ」と強硬

 無償で貸すとは言ったが、所有権まで渡すとはいわなかった。観光会社を誘致して今冬スキー場を開場、廃坑の町から観光の町へ生き返った小松市尾小屋町で、箱根観光会社から所有権移転を催促された地主が騒ぎ出し、花々しい観光開発に暗雲を投げかけている。

会社との契約公開で騒ぎ

 同町の大倉岳高原一帯の観光開発は昨年四月、箱根観光会社が小松市の仲介で地元と土地の「無償提供」を含む開発に関する契約をし、会社、地元代表、市当局からなる開発委員会を結成。第一年度計画として大倉岳高原スキー場の工事を開拓した。ところが、今年一月十四日オープンした北陸随一のスキー場が休日など五千人を超える賑わいを見せるにつれ、会社の土地権譲渡の要求が強まった。「無償貸与は約束したが、土地を取り上げられるなどとは寝耳に水」との地主たち(130人)の声で町中騒然となった。契約調印には、地元代表として深田善九郎大倉岳観光協会長(市議)小林由雄町内会長、川上義友農林組合長が調印した。
 地主らは当初@土地は無償貸与するA開発開始五年後に譲渡を含む土地問題などについて話し合うとの条件を申し合わせ、代表に交渉を一任していた。
 ようやく誘致会社が見つかった段階で、細かい土地問題を詮索していると計画が遅れると、代表者は契約内容を十分地主らに知らさなかったらしいのが騒ぎの原因。
 公表を迫って会社から引き出した契約書の第二条には「土地および温泉採掘権、その他これに付随する一切の権利を譲渡提供する」としながら、七、八条では@契約の趣旨にそう限度内の妥当額の補償を定めAこの債務が履行されたさいに所有権を移管するとなっており、補償の線は否定されていないことが分かった。
 このため会社に対する不信がさらに増大、あわてた会社側が3月3日、所有権譲渡を迫り「覚書の諸条件は当社最大限の譲渡であり、三月中に成立しないときは当社独自の立場で善後措置をとる」する次の覚書を示した。
 @土地六十万坪の補償として会社株券で三百万を交付するA所有権移転登記は四月末日をメドとし、最終期日を六月末日とし、この実行に関し代表三者が連帯責任を負うB所有権移転、会社が所定の開発を行わない場合は、土地は元の地主に返す。
 これを「最後通告」と受け取り、事態急迫と見た地元たちも三月六日、農林組合総会を開いて理事の改選を行い、戦後連続組合長を続けた川上組合長をはじめ理事十三人中八人を入れ替えた。しかも第一回理事会で山口耕作新組合長らは、組合は最近、観光協会などと同一組織のごとき状態になっていたが、その間の責任は負えない、との意向を明らかにする始末。

  この農林組合長改選で振り出しに戻った格好の折衝で、三百万円は無償提供の礼金とするとの会社の意向も明らかにされ、無償提供の線を起こしたのか、あるいは別の補償を定めるとの線に行くのか地主たちは半信半疑、農林組合では経過と対策を話し合うため会社への回答を迫られている二十日を前に十八日総会を開くが町では、せっかく来てくれた会社を逃がすようなことがあってはと、取り残されていた山間の町の悲哀も入り乱れている。
            
         箱根観光会社と尾小屋町とが開発契約をめぐってもめている大倉山スキー場

昭和41年8月8日の北国新聞
尾小屋 自立してから三年 
  メリヤス工業、軌道に
   祝賀会開く 設備の近代化図る

 廃鉱の町を何とか自立させようと三十八年、町の人たちが集まって始めた尾小屋メリヤス工業協同組合が設立三周年を迎えた。七日午後、組合事務所で記念祝賀会が行われたが「石の上にも三年だった」と組合員たちはさらに将来の事業計画に意欲を燃やしている。
 メリヤス工業は三十七年の尾小屋鉱山の閉山で投げ出された尾小屋町の転業策として県や小松市が助成、一年の準備期間ののち、三十八年八月五日に組合を結成して導入した。繊維の産地小松市でもまだ手を付けるものが少なく業者間の競合が避けられるメリヤスを選んだわけだが、それだけに先行きの不安も大きく約五十人の参加希望者が組合設立時には十五人という状態。技術指導や生産、納品計画など手慣れぬ仕事だけにミスも多く、軌道に乗り出したのはようやく三年目を迎えた昨年夏からだという。
 しかし業界ではタイツ、水着に需要が開拓され、現在では注文の消化に追われている。従業員である組合員も二十七人に増えた。編立は組合員の各家庭で行われる横編立。これを組合事務所で従業員十人が裁断、縫製し、刺繍などはさらに町の主婦らの内職に回され完成品にする一貫作業。
 メリヤスはその後、門前、珠洲、輪島などでも始められているが、機械は手動から半自動化の傾向にあり、尾小屋でもこれが懸案。あと一年で借入金の返済も終わるので設備の近代化、経営の合理化に資金を回そうと意気込んでいる。

 川上義友組合長の話
 廃鉱の町出資金一人一万円という弱い組合だが、それでも石の上にも三年。現在専業は二人だけだが、半自動化にすれば完全な専業体制も夢ではない。
 組合員以外にも組合従業員、内職などで廃鉱の町の再スタートには貢献できていると思う。
                   
      廃鉱の町の自主策で三周年を迎えた小松市尾小屋のメリヤス工業組合縫製作業場で

昭和50年1月31日の北国新聞
元鉱山町 小松市尾小屋町
  地底に男の声は消え  赤茶けた山に公害の刻印

 尾小屋町はカドミ汚染で“死の川”となった郷谷川最上流にある屏風のように切り立った山々に三方を囲まれ、藩政時代まで、住民たちが木こりや炭焼きで細々と暮らしていた。女衆は二十`も離れた市街地へ木炭を売り歩いていたという。
 金平町の橘佐平が明治十一年に松ケ溝で銅脈の露頭を発見。鉱山の町として発展するきっかけとなる。初期の鉱山開発の中心人物だったのは横山隆興。加賀藩家老で三万石を領していた横山隆平の実弟。能登で製塩をしていたが、うまくいかず飛騨国平金鉱山を経営していた家臣の指導を受け銅の採鉱に乗り出した。
“武家の商法”で経営がいきづまったこともあるが自ら鉱山長となり同二十年には鉱区は九十九万平方メートルと広がり、精錬場も設置し、年間二十余万円相当を産銅した。
 同二十九年八月、大洪水が山を襲った。諸施設はすべて流出し、十余名の死者も出た。隆興は「肝心の鉱脈は地下に残っているぞ」と絶叫。従業員を励まして復旧に取り組んだ。大正八年、立派な鉱山事務所が作られ鉱石を運ぶ尾小屋鉄道も開通した。
 しかし第一次世界大戦後の大怒慌で、銅価は下落し従業員の賃金遅配が続いた。このため、たびたびストライキが決行された。友愛会(のちの総同盟)から麻生久や松岡駒吉が応援にかけつけている。昭和三年、ついに破産した。
 これを引き継いだのが日本鉱業株式会社。大企業らしく合理的な経営方針と新技術の開発で、戦時中の銅需要もあって順調に伸び、同二十九年、粗銅月産額は二百四十一dに達し全盛時代を迎えた。
 尾小屋町は鉱山の発展につれ繁栄し“嫁にやるなら尾小屋へやらんせ、金は天から地から湧く”とはやされるようになった。
 飲食店数軒のほか、劇場やパチンコ店も進出、地底で働く男たちで夜遅くまでにぎわった。
 昭和三十七年に鉱脈を掘りつくし鉱山の火が消えた。それから十余年。排煙で赤茶けた山に緑は甦ってきたが、鉱山従業員や若い層の流出で町は寂れきっている。残っているのは老人と女だけで“公害の原点”という暗い遺産を背負ってひっそりと暮らしている。かっての山の町は銅景気に沸いた昔日の面影はない。
                   
                    かっての繁栄の面影もなく過疎の町になった尾小屋町

昭和50年8月20日の北国新聞

戦後30年 石川の8月15日
 敗戦でやっと補償 鉱毒で減産 供出に泣く   尾小屋銅山と農民

 「戦時資源と食糧の増産を阻みつつある尾小屋銅山の地方に対する鉱毒被害が現下の食糧事情から極めて重大化し……昭和20年7月27日付の北国毎日新聞(現北國新聞)の記事である。見出しは「増産の敵“鉱毒”尾小屋問題に憤激の農民陳情」。時節がらか、ささやかな扱いで見過ごしてしまうくらいだ。今でこそ公害反対運動は十分すぎるほどの市民権を保っているが「非常時」下のその頃は、農民たちの声がか細く押し込められたとしてもやむを得まい。だからこそ鉱毒に痛めつけられながら「聖戦完遂」のため食糧増産にまい進、自分が作った米すら自由に食うこともできなかった梯川流域の農民たちにとっては、20年8月15日は、正しく解放への出発点と言えたのである。
  しかし金野村農業会長の村田寛(金平町在住)は、その日、金平区長をしていた杉野三右衛門ら4人と、村から1.5キロ離れた金平支山の鉱山事務所にいた。いつものこととて鉱山の廃石のためつぶされた山林の被害補償交渉に臨むためであった。「銅採掘は国の重要産業だ。何を言うとるかと、よく一蹴された」(村田)のが常であったが、その日の交渉はいつになく順調だった。一区切りついたところで「正午にラジオで重大放送があると言うことだからついでに聞いていこう」村田らは古ぼけた事務所のラジオの前で職員五、六人と一緒にかしこまった。

 しかし、ここでも他の例にもれず、ほとんど内容は聞き取りにくく、居合わせた者が出した結論は、やはり「これからも頑張ってやってくれ、と言うことじゃろ」に落ち着いた。だが、村に帰ってみると、大変な騒ぎになっていた。「負けたんだぞ」上を下へと慌てる村の様相に、村田らも一瞬、色を失った。
 その頃、大川政明中海村長は村長室で、黄色く色づき始めた稲の穂波を見やりながら頭を痛めていた。この年の石川県全体の米生産量は81万8千石。農民の必要量が平年平均59万石であったから、これを差し引くと22万8千石の供出余力はあった勘定だ。が、実際は供出割り当て55万石、能力の2倍のノルマが課せられていた。それにひきかえ鉱毒水の被害は小松市、鳥越、新丸、大杉谷、西尾、金野、国府、中海などで水田約千八百fにおよび、煙害をこうむった森林を含めると約一万九千fに達していた。二割減産は目に見えている

 「みじめなものでした。ひどい時は自家保有米が家族六、七人で年五、六俵。警察の目が厳しく農民が泣いて頼むのを無理やり供出させたこともあった。うらまれたやろね」(大川)
 鉱毒の発生源とされた尾小屋銅山は、藩政初期の天和2年(1682年)採掘開始と古文書にあり、明治に入って、金沢の横山一族が鉱業権を握った。第一次世界大戦頃は二千人を超す従業員を抱えたがその後日本鉱業に移管した。第二次世界大戦前後から、戦時下の増産体制で、亜硫酸ガス、鉱廃水による田畑の被害が目立ち始めていた。
 こうした状況にたまりかねた山口又八小松市長(岩上町在住)は、関係七カ所の村長とはかり昭和17年6月、鉱毒除外促進期成同盟会を結成した。「地下資源は大切だ。国策に楯突こうというわけではなかった。だがそれが地元の生活権を奪うことは許されんことやった」82才の山口は三十数年前のことを今更ながら厳しい口調で語る。だが、結成後も交渉ははかどらなかった。「(バックには)剣をガチャつかせた軍部がいた。農民もなかなか力んでくれなんだ」戦争下の公害反対運動であるだけに前途は苦難を極めた。
 この半面、銅山が地元をうるおしていたことも見逃せない。盆、暮れには必ず振舞い酒が出たし、日頃から何かと地元の面倒も見ていたようで、西尾村初代翼賛壮年団長だった川上義友(現明光寺住職)が「お祭りの時はよく招待された。当時の村の人達は会社に対し、それほどの敵意を持っていなかったようだ」と話すところをみても会社の地元に対する宣撫作戦は、その時点である程度、奉功していたのだろう。
 八月十五日もそうであった。正午から重大放送だというのに村会議員十人が銅山側の祭礼に招待され出かけていた。「放送後、連絡を取り、電話口で、おい戦争は敗れたんだぞと怒鳴ったらさすがに一瞬、シーンとしたふうだった」(大川)と言う。その村議会も大川もそれから一カ月後に初めて進駐軍の姿を見、その目で敗戦を確認した。
 鉱山側との交渉は戦後になってようやくまとまり、昭和二十二年第一回補償金は年額十五万円と決定、以後三年ごとに更改された。これで同盟会の目的は一応の成果を得たわけだが、これも終戦という大転換の所産であった。

 日鉱尾小屋鉱山は三十七年閉山、バトンタッチを受けた北陸鉱山も四十六年末閉鎖。精練所の排ガスと農民たちの怨念をかぶり、完全に死の山と化した尾小屋に緑がかえったのは、その煙が消えて十余年たった四十九年の春であった。
        

昭和56年9月18日の北国新聞
 尾小屋の盛衰を写真集に
  三年がかり資料集め

   
金沢の北さん 十月出版へ意気込む
 屋小屋鉱山の火が消えて十八年。この地に生まれ育った金沢市小立野一丁目十一ノ七、北幸作さん(51才)は次第に土に埋もれていく故郷へ鎮魂の思いを込め、三年前から当時の写真や資料を集めた写真集づくりに情熱を傾けている。「私のライフワークです」と語る北さんはすでに写真などの整理も終わり、十月の出版予定日に向けて序文などの執筆に余念がない。

 旧尾小屋鉱山は日本十大銅山の一つとして栄え、最盛期には従業員一千人を超す大企業だった。山々の中腹には軒続きの社宅が幾重にも並び、街は銅景気で活況を呈していた。北さんは昭和5年に尾小屋鉱山の街の一つとして栄えた能美郡西尾村字倉谷(現在の小松市波佐羅町)で生まれ、少年期をトロッコの響きを聞いて育った。 二十歳を境にして鉱山を離れた北さんが、写真づくりを思いたったのは三年前の春。二十二年ぶりに旧鉱山跡へワラビ採りに出かけ、朽ち果ててゆく故郷の姿を目の当たりにしてからだった。二十四時間、白い煙をはき続けていた煙突は今や当時の面影を残す唯一の遺産となり、鉱山跡はすっかり草木に覆われていた。軒続きの社宅跡にたたずむと、聞こえるのはヒバリの鳴き声と風の音だけ。予期していたこととはいえ、あまりに変わり果てた故郷の姿だった。
 それまで写真に関してはズブの素人だった北さんだが、さっそくカメラを購入。魚屋を営むかたわら、毎週日曜日になると子供のころの記憶をたどり、廃校になった尾小屋小学校、旧鉱山事務所跡など数千枚の写真を撮り歩いた。また、当時の住人を一軒一軒訪ね、当時の写真や資料を提出してもらい、「能美郡史」「西尾村史」などの文献を読みふけった。
 北さんは単に写真や資料を集めるだけではなく、写真に写っている人物の名前や建物の場所を追跡調査するなど、足で郷里の変遷をたどった。三年半にわたる調査のなかでは山中で車が立ち往生したり苦労して撮ってきた写真がピンボケだったりして、ガッカリしたこともあるという。
 北さんは「とかく流れ者のイメージで語られがちな鉱山の街だが、人情味にあふれ、戸締りをする習慣もなかった。煙害に苦しみ、落盤事故におびえながら私にとってかけがえのない故郷でした」と当時を振り返る。  出版される写真集はB5判の大きさで、約六十五ページ。当時の写真と現在の写真が約百五十枚盛り込まれている。当時の繁栄を伝える写真には活気あふれる街の様子や、鉱山と運命をともにした旧尾小屋小学校、尾小屋鉱山事務所、坑路、削岩精錬風景など現在では残り少ない貴重な写真も多い。このほか尾小屋鉱山職員の辞令、月給明細書、尾小屋小学校の通信簿などの資料が、約四十点ほど紹介されている。
 北さんは「廃鉱になって全国に散らばった人たちに送ってあげたい」と話し、最後の仕上げに取り組んでいる。

                             
                        さびれゆく故郷に鎮魂の思いを込め
                        写真集出版に意欲を燃やす北さん


昭和61年9月30日の北国新聞
尾小屋郵便局が廃止
  過疎化で利用者が減少

  小松市尾小屋町、尾小屋郵便局はきょう三十日で廃局、九十二年間にわたる歴史を閉じる。同局は市中心部から十七`の山間地にあり、昭和三十七年の日本鉱業尾小屋鉱業所の閉山によって過疎化が進み、利用者の減少に伴い廃局を余儀なくされた。同局の業務は十月一日から同市金野郵便局に引き継がれる。
 尾小屋郵便局は同鉱業所の銅生産量が軌道に乗り始めた明治二十九年二月に、郵便取扱所として開設された。同四十一年に電報業務、大正十五年に年金事務を開始し、同鉱業所の生産増と歩調を合わせ業務を拡大した。
 昭和三十四年に旧局舎の隣地に新局舎が建設された。翌三十五年は同市西俣町など十八地区の郵便物集配を行い、局長以下職員十七人の大世帯で業務に当たり、利用者も約千二百世帯、五千八百人でピークを迎えていた。
 しかし、三十七年に同鉱業所が閉山し、三十八年に利用者は約六百六十世帯、二千六百人に半減した。外務員が徐々に削減され、五十二年に電話交換業務の廃止、五十七年には郵便集配業務も金野郵便局に移り、職員はわずか二人で、受け持ち地区も尾小屋町など周辺五区域で、郵便貯金、保険業務のみの取り扱いとなっている。

 最後の局長となった九代目の吉田昭さん(根上町浜開発町)はさすがに寂しさを隠しきれず「古里から離れる思いです」とポツリ話していた。

平成14年7月11日の北国新聞

住民待望のトンネル
  小松尾小屋 国道416号「最後の難所」
   大日山アクセスや生活道路

 小松市街地と大日山周辺を結ぶ国道416号で「最後の交通難所」になっている同市尾小屋町二ツ屋地区にトンネルが建設されることになった。この道は大倉岳高原スキー場や大日山登山口へのアクセスや地元住民の貴重な生活道路だが、同地区では幅員が非常に狭く、地元が長年建設を要望していた。待望のトンネルは二年後、開通の計画である。
 
 県の計画では、トンネルの延長は約160b、幅員8bで、上下二車線が確保される。市内では六カ所目のトンネルになる予定で、県は2004(平成16)年度の完成を目指している。

 同地区の通行車両は一日平均2500台で、冬季はスキー客、春季から秋季は登山客が多く利用する。尾小屋地区や新丸地区に暮らす約45世帯の住民にとっては市街地への唯一の幹線道路となっている。

 二ツ屋地区町会の谷口嵩会長は「日常生活での苦労がようやく解消される。今後は観光客の増加を期待したい」と話ししている。
                    
       トンネルが計画されている国道416号の新道(左)と現在の道路(右奥)
           
        平成16年6月に完成した尾小屋トンネル、小松側入口

平成20年10月24日の北国新聞

35年ぶりにはしご登り
    小松・尾小屋、加賀鳶保存会を結成
 小松市尾小屋町の住民が「小松尾小屋加賀鳶(とび)保存会」を結成し、十二月にはしご登りを三十五年ぶりに復活させる。尾小屋鉱山が栄えたころ、市内で唯一行われていたはしご登りの伝統を継承し、地域活性化につなげる狙い。会員は「火消しの心意気を伝え、尾小屋の地名を広めたい」と練習に励んでいる。

 尾小屋町のはしご登りは、消防組織が発足した一八九八(明治三十一)年以降、鉱山で働くために移り住んだ住民が広めたとされる。地元の出初め式で毎年正月に披露していたが、一九六二(昭和三十七)年の閉山後は、過疎化の進行で演技に必要な団員を確保できず、七三年ごろに取りやめとなった。
 県内で加賀鳶はしご登りを継承するのは金沢市と野々市町の消防団のみ。保存会は今年六月、ふるさとの歴史文化を見直し、市全体にはしご登りを広めようと三十七人で組織した。尾小屋町の住民や同地区担当の市消防団第十八分団員だけでなく、他の分団員などにも参加を呼び掛けた。

  会員は週二回、尾小屋町出身ではしご登りの経験がある山岸啓一さん(67)=本江町=の指導の下、「火の見」や「肝返り」など二十七演目の取得に努めている。弁慶がまといを持つ図柄の法被製作も進め、将来ははしご登りで披露する唄「加賀鳶木遣(や)りくずし」の練習も始める。
 十二月十四日に尾小屋町の白山神社で住民に披露した後、来年一月四日の市消防出初め式でも演じる。深田博会長(61)=尾小屋町=は「今ははしご一本のみでの演技だが、二本、三本と立てられるよう会員を増やし後世に伝えたい」と話している。
                  
           はしご登りの練習に励む保存会員=小松市蓮代寺町

平成21年11月16日の北国新聞

大倉岳桜の名所に

  スキー場、春は花見  誘客へあす苗木植樹

 小松市の大倉岳高原スキー場が桜の名所を目指して整備される。17日に初めて苗木10本がゲレンデに植樹され、来年以降は本数を増やしていく。花見客を呼び込んで市民の憩いの場として活用し、冬季以外の利用促進を図る。さらに、来場者にスキー場に親しみを持ってもらうことで冬季のリフト利用者の増加にもつなげたい考えだ。
 同スキー場の昨年の年間利用者数は約4万人で、スキーシーズン中が約3万3500人を占める。しかしスキー客は減少傾向にある。このため、桜の名所としてイメージ付け、スキーシーズン以外の誘客を図り、冬季への波及効果を目指すことにした。
 兼六園菊桜など3種

 桜の植樹は、県の「県民桜名所づくり運動」に賛同する形で、花びらが250枚以上あり見応えがある「兼六園菊桜」に加え「思川」、「紅華」の3種類の苗木10本をなだらかで散策しやすい「チビッコゲレンデ」を囲むように植える。植樹は同スキー場職員が地元町内会の協力を得て行う。
 来年以降、地元の園児や児童も参加してもらい、苗木の数を増やして植樹を行う。さらに、今年12月からは「芝桜」6株を鉢植えで育てていく。同スキー場によると、芝桜は株分けして増やすことができ、将来的には「桜のじゅうたん」と銘打ち、ゲレンデを覆い尽くすように植樹する。

北市裕嗣所長は「植える桜はうまくいけば2,3年後にきれいな花を咲かせる。多くの人に満開の桜を楽しんでほしい」と話した。
                     
               桜の苗木が植えられるチビッコゲレンデ


平成22年4月18日の北国新聞

群生地、イノシシ被害か、ミズバショウ半減
   住民高齢化、防止難しく     
         小松市尾小屋町

 小松市尾小屋町にある市指定文化財のミズバショウ群生地が野生動物に荒らされ、約2千株あった株数が今年、半減していることが17日までに分かった。地元町内会によると、近年はクマなどに加え、イノシシによる被害が目立っているという。被害防止のための有効な手だてはなく、見ごろを迎えたミズバショウを眺めに訪れた愛好者からは惜しむ声が上がっている。
 群生地「尾小屋のミズバショウ」は1969(昭和44)年、天然記念物として市文化財に指定された。大倉岳に続く登山道の中腹にあり、標高約370メートルの湿地帯約1300平方メートルにミズバショウが自生。4月上旬から中旬にかけ、白い可憐(かれん)な花が咲き誇る。市からの委託を受けた尾小屋、長原、二ツ屋の3町内会が管理している。
 地元関係者によると、群生地には現在、動物が掘ったとみられる直径約30〜60センチの穴が20カ所以上確認された。市自然保護協会の中江実会長によると、温暖化の影響で北上したイノシシがミズバショウの根を餌として食べ、掘り起こした可能性があるという。
 大倉岳高原スキー場では、2年ほど前からイノシシがゲレンデを荒らしていく被害が目立ち始めたことから、電気柵を張るなどの対策を取っている。

 3町内会は年に数回、群生地周辺の草刈りなどを中心に保全活動に取り組んでいる。しかし、住民の高齢化が進んでおり、定期的な見回りなどは難しく、頭を悩ませている。管理に携わる掛川信義さん(84)=尾小屋町=は「さらに被害が拡大するかもしれないが、自然が相手で対策のしようがない」と話している。
             
       ミズバショウ群生地で動物が掘ったとみられる穴=小松市尾小屋町


平成22年7月2日の北国新聞

廃坑から異例の新鉱脈

   小松・尾小屋鉱山跡
 小松市の尾小屋(おごや)鉱山跡で1日までに、藩政期から昭和にかけて採掘が行われていた坑内で新たに鉱脈が見つかった。同鉱山を管理する石川県尾小屋鉱山資料館によると、廃坑で新しく鉱脈が見つかるのは非常に珍しく、同資料館は鉱脈を保存、展示する。同資料館は「隆盛を誇った鉱山の様子や当時の労働者の苦労を知ってほしい」としている。
 鉱脈が見つかったのは、江戸時代や明治の坑内の作業の様子を再現する尾小屋マインロード入り口から約100メートルの地点。5月の坑内調査で、県尾小屋鉱山資料館の山本宗則館長が発見した。
 同資料館によると、幅20センチ、長さ5メートル以上で、奥行きは不明。黄鉄鉱(おうてっこう)や黄銅鉱(おうどうこう)、孔雀石(くじゃくいし)などが含まれているが、含有量はわずかとみられ、産業としての採掘は不可能だという。
 山本館長によると、断層や岩盤の裂け目に銅や鉄などの鉱物が溶け込んだ数百度の熱水溶液が長い年月をかけて沈殿し、水温の低下によって鉱脈となる。5月の調査で壁面の色がほかと異なっている部分が見つかり、掘ってみると鉱脈が出てきたという。

 同資料館は、坑内をさらに調査する予定で、鉱物学が専門の金大大学院自然システム学系、奥野正幸教授は「利用できる鉱物が含まれている可能性もあり、埋蔵量の解明など、今後の調査を期待したい」と話している。
 かつて日本一の銅の生産量を誇った尾小屋鉱山は1971(昭和46)年、海外の安価な銅に押されて閉山した。

 尾小屋鉱山は1682(天和2)年に地域の住民が鉱物を発見し、1880(明治13)年に加賀藩の八家だった横山家が近代鉱山として創業。長く日本の工業発展を支え、最盛期の昭和初期には、銅の年間生産量が2800トンを超え、日本一の生産量を誇った。
                          
                   坑内調査で発見された右上に向かって延びる鉱脈

平成22年9月20日の北陸中日新聞

石川県小松市の郷谷川
   浄化続くも「まだ」

  明治時代から昭和四十年代まで日本経済の成長を支えたのが、各地の鉱山だ。石川県小松市の尾小屋鉱山もその一つ。主に銅を算出し、一九七一年に閉山した。最盛期には山で働く労働者が千数百人を数え、山中に小学校もあったという。
 鉱山跡からの坑廃水が流れ込む郷谷川を調査しているのが、三年前に設立された市民グループ「おおかわの会」。坑廃水は川の魚の大敵だ。強酸性だったり有害金属を多く含んでだりし、閉山後も排出され続ける。半永久的に中和などで浄化処理しなければならない。
 尾小屋銅山でも、消石灰を投入し、中和などの処理をする施設が今も稼働。それでも、会の代表、西田俊一さんは「魚の種類も数もすごく少ない」と話す。特に坑廃水が流れる場所から約七`下流、支流の光谷川が合流する地点までは、魚がほとんどいない。県が水質検査をしているが、原因ははっきりしない。

 同会員らは今年四月、郷谷川の水を入れた生けすでコイやフナを飼うテストもした。魚は一番長いもので十二日間で死んだ。
 「鉱毒対策を万全にし、魚を戻してほしい」というのが国や自治体に向けた会員らの願い。

 西田さんは「今年は、さまざまなデータを集める。来年は、住民らに向けた説明会を開くなどして、対策を求める運動を強めていきたい」と話す。

平成22年10月28日の北国新聞

小松・旧尾小屋鉱山に微生物被膜「バイオマット」堆積
       釉薬として陶器に活用
 小松市の旧尾小屋鉱山周辺に微生物被膜「バイオマット」が堆積(たいせき)していることを金大の田崎和江名誉教授が確認し、同市吉竹町の製陶業、林隆史さん(63)が「バイオマット陶器」の制作に乗り出した。鉱山廃水に含まれていた重金属を含むバイオマットは、釉薬(ゆうやく)として使うと味わい深い黒褐色を生み出すという。田崎名誉教授らは新たな付加価値として発信していきたい考えだ。
 バイオマットは微生物の集合体で、有害な重金属を取り込み、無害な状態にするなどの働きがある。
 田崎名誉教授の分析では、旧尾小屋鉱山周辺のバイオマットには鉄や銅、亜鉛、マンガンなどが含まれていた。林さんによると、これらの成分が発色剤となり、黒褐色になったと考えられるという。

 林さんは以前から地元産の材料を求め、尾小屋周辺の川床に付着している堆積物を使った作品を試作していた。今回、旧尾小屋鉱山などでバイオマットの調査を進めてきた田崎名誉教授から助言を受け、本格的な制作に乗り出すことになった。

  林さんは乾燥したバイオマットを粉末にし、石灰や長石、珪石(けいせき)などと混合して釉薬を調合。素焼きの陶磁器の表面に掛けて焼成した。
 田崎名誉教授は、鉱山廃水の重金属を吸収するバイオマットを水質浄化の「証し」として、地域おこしに役立てたいと考えている。
 バイオマットとは温泉のわき出し口や鉱山廃水の流れる場所、間欠泉周辺などに見られるぬめりのある被膜。欧州では人工培養の取り組みが始まっている。

                       
             バイオマットの釉薬を使って制作したコーヒカップ

平成23年7月30日の北国新聞

放射能研究支える加賀藩の遺産
    小松・尾小屋の金大実験室
 「3・11」以降、原発問題は日本の大きな関心事となった。放射能汚染の広がりに不安が高まる中、実態調査で注目を集めているのが、金大の低レベル放射能実験施設(能美市)だ。
 小松の尾小屋に構えた実験室は、ごく微弱な放射能も測定できる世界トップレベルの施設、内部を覗いてみると、最先端科学を陰で支えているのは加賀藩の遺産だった。(森田奈々)
 「ここから歩いて向かいます」案内役を務めてくれた浜島靖典助教は薄暗いトンネルの入り口で車を止めた。金大が誇る放射能測定実験室は、小松市の旧尾小屋鉱山のトンネル内部にある。1971(昭和46)年の閉山以来、誰も利用することのなかった通りを、91年から4年がかりで、教員や学生が手作業で石をどかし、プレハブ小屋を建てたのだという。
 なぜ、こんな洞窟のような所で研究する必要があるのか。理由は、この遮へい環境にある。
 地下135メートルのトンネル内部なら、宇宙線など自然界に存在する放射線を地上の100分の1に抑えることができ、微弱放射能の高精度測定が可能なのだという。
 1881(明治14)年、加賀八家の一つ横山家が操業を開始した鉱山の跡地が、こんな形で現代の役に立つと誰が想像しただろう。
 プレハブ小屋の内部を見せてもらうと、所狭しと放射線検出器が置かれていた。「ここにも加賀藩の力を借りてるんですよ」と浜島助教が言う。検出器は宇宙線の雑音を極力抑えるため鉛の板で覆う。ここで使われているのは、金沢城の古い鉛瓦だ。1995年まであった城内キャンパスで使われていたものを再利用した。市販の鉛はそれ自身が放射能を含むが、精錬後約200年で1千分の1まで低くなることから、藩政期の鉛は遮へい剤として貴重な宝なのだという。
 検出器は全部で18台。これだけの数を備える施設は世界にもない。微弱放射能測定ができる尾小屋地下実験室は、世界の研究者にも「Ogoya」の名で知られ、取材時も国際原子力機関(IAEA)モナコ海洋研究所から依頼されたインド洋の海水の測定中だった。
 金大でも長尾誠也教授が福島県沖の海水調査に着手しており、ここでしか分析できない遠洋の汚染状況が確認されることになる。施設長を務める山本政儀教授は「宝の持ち腐れにならない仕事をしなければならない」と意気込む。まだ終わりが見えそうにない放射能問題。加賀藩が残した遺産を活用した研究結果に多くの関心が集まっている。
                   
        尾小屋鉱山のトンネルを通り、放射線検出器の冷却に必要な液体窒素を運ぶ学生

平成23年8月10日の北国新聞
里山賛歌31 尾小屋鉱山跡
   坑道に往時をしのぶ 最盛期は銅生産日本一

 小松市南東の大倉岳高原スキー場の手前にたたずむ石川県鉱山資料館。夏休み中、元気のいい子どもの歓声が響き渡る。館内には操業していた頃の鉱山のジオラマをはじめ、クモノ巣のように張り巡らされた坑道を再現した模型などがあり、子どもたちは珍しそうに目を凝らす。
 子どもたちのほとんどは、この場所に日本一の銅の生産量を誇った尾小屋鉱山があったことを知り、驚いた表情を見せる

 歴史伝える施設
 閉山から来年で半世紀となる現在、尾小屋鉱山の面影を残すのは、資料館と旧坑道を活用した尾小屋マインロードだけとなった。これらの施設整備を市に働きかけるなど奔走したのは、元町内会長の喜多重孝さん(92)=小松市尾小屋町=。

 約600bのトロッコ用トンネルを再利用した遊歩道は全国でも珍しい施設になった。「尾小屋の人に働く場ができると思ったから市に頼んだ。出来たときはそりゃ、嬉しかった」という感激は今も忘れない。
 尾小屋鉱山は約330年前に採掘が始まり、昭和初期には銅の生産量が日本一になった。喜多さんは尾小屋鉱山に勤めていた父の後を追うように、1938(昭和13)年ごろ、尾小屋鉱山で坑道内に溢れ出る地下水を、ポンプを使って地上に上げる「水替え」と言われる仕事に従事した。

 喜多さんは徴兵されるまでの約半年間、ダイナマイトで縦穴を開ける人たちとグループになり、太陽から遠ざかるように地下に潜り、ホースで水を吸い上げ続けた。地盤が軟弱な尾小屋鉱山はどこからともなく湧き出る地下水が多く、鉱山は「水との戦い」と言われるほどの過酷な仕事だった。
 地域の唯一無二のシンボルだった尾小屋鉱山周辺には、ピークの55年ごろ、約千戸の社宅がびっしり並び、三千人が暮らしていた。喜多さんは「尾小屋は小松の街にも劣らず賑やかだった。当時は映画館と理髪店三軒、病院三カ所、パチンコ店は五店舗あった」と振り返る。
 だが、賑わいは62年の閉山で消え去った。坑道はほぼ全てが埋められ、従業員と家族は、瞬く間に次の仕事場に散って行った。

 「少しでも多くに」
 今では約20戸、60人ほどの小さな集落が残るだけとなった尾小屋町の深田博町内会長(64)は、資料館に訪れる子供たちを見て顔をほころばせる。「尾小屋の歴史を学んでもらえるのは嬉しい」。資料館の来場者数は年間四千人。尾小屋の歩みを知ってもらえる。賑やかさは最盛期と比べくもないが、少しでも多くの人に知ってもらいたいとの思いは確かだ。

 
尾小屋鉱山
 1682(天和2)年の採堀記録が最も古い。加賀藩主前田家の上級家臣である加賀八家の横山家が1881年(明治41)年に買収したことで知られ、最盛期の昭和初期には銅の年間生産量が2800dを超えて日本一になった。埋蔵量が減り、1962(昭和37)年に閉山した。
                  
          鉱山で働いていた人の社宅があった場所に建つ石川県立尾小屋鉱山資料館

                
           尾小屋マインロード内で往時に思いをはせる喜多さん(右)と深田さん

平成23年8月26日の北国新聞

トロッコ列車、面影を今に
    小松市「尾小屋鉱山電車」

 鉄道愛好家でつくる「尾小屋鉄道を守る会」は26日までに、小松市尾小屋町のぽっぽ汽車展示館に設置されている「尾小屋鉱山電車」を延長し、駅のホームを新設した。27日に一般開放する。かつて尾小屋鉱山で鉱石を運ぶのに活躍したトロッコ列車の面影を今に伝える線路で、同会は新たな観光スポットになってほしいと期待している。

 同会は1984(昭和59)年に発足し、県内外の鉄道愛好家60人で組織。ぽっぽ汽車展示館の管理や動体保存されている旧尾小屋鉄道の気動車などの整備活動を行っている。
 同会では鉱山で最盛期に150キロほど線路が敷かれ、採掘した鉱石などを運んでいた当時の鉄道を復活させようと、有志会員約10人が2009(平成21)年11月から約1年9カ月かけて手作業で線路を敷設した。
 完成した線路は全長約100メートルで、線路や枕木を敷き、終点には木材を使って駅のホームを手作りした。路線を切り替える「転てつ機」も自作し、本格的なつくりとした。バッテリー機関車が引く貨車に乗って周遊できる。
 27日には、鉱石を取り扱うホージュン(群馬県安中市)から寄贈されたバッテリー機関車2両が初めてお目見えする。機関車は1975(昭和50)年ごろの製造で、群馬県の妙義鉱業所で使用されていた。
 同会の坂井稔樹会長は「機関車を通して尾小屋に親しんでほしい」と話した。27日は午前10時から午後3時まで一般開放される。
                    
                 線路を敷設する尾小屋鉄道を守る会メンバー

平成23年8月28日の中日新聞

トロッコ再現 出発進行!

   小松「尾小屋鉱山線」守る会 計画から2年

     全通祝い乗車会
 県内外の鉄道愛好家らでつくる「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」が、小松市尾小屋町の市ポッポ汽車展示館横に、尾小屋鉱山で使われていた鉱石搬送用のトロッコを再現した「尾小屋鉱山電車線」を整備した。27日、全線開通を祝う体験乗車会があった。(浅井貴司)
 尾小屋鉱山は1971(昭和46)年の閉山まで銅山として栄え、最盛期には鉱山内に全長150キロのトロッコ網が張り巡らされていた。
 再現したのはバッテリーでモーターを動かす機関車と木製のトロッコ五両の計六両編成。守る会が二年前にトロッコ電車の整備を計画。群馬県富岡市の妙義鉱山で使われていた車両やレールを譲り受けるなどして一年前から作業を進め、今月中旬に完成した。尾小屋の当時とほぼ同じ大きさ。
 展示館の正面左手から裏側に回り込むようにカーブして百メートル走る。運転を担当した坂井稔樹会長(48)=白山市=は「鉱山の歴史を知る助けになれば」と話していた。
 家族連れらを乗せて計六回運行。二年越しで完成したトロッコ電車を楽しむ乗客に、会員は「ご乗車ありがとうございました」と笑顔で声を掛けていた。
           
             坂井さん(左)の運転でゆっくり前進するトロッコ

平成23年9月25日の北国新聞

ポッポ汽車展示館(小松市)
   大人も子供も楽しめる

 幅76.2aの狭い線路の上を小さな車体が走っていく「ポッポ汽車」の愛称で親しまれた尾小屋鉄道は1919(大正8)年、尾小屋鉱山の鉱山鉄道として開業し、77(昭和52)年まで鉱山と小松市中心部を結んでいた。ポッポ汽車展示館には同鉄道を走っていた車両や、駅で使われていた手回しの電話などが展示されており、昔懐かしい鉄道の面影を残す。
 展示館は尾小屋鉱山跡地の近くにあり、駅のホームを思わせるオープンスペースになっている。蒸気機関車、気動車(ディーゼルカー)、客車の3両が「停車」しており、いつでも自由に運転席や客席に座ることができる。月に一回、気動車の公開運転もあり、懐かしの雄姿を眺めるため愛好者が集まる。
 25日は気動車に加え、トロッコ電車も公開運転する。トロッコは全国の尾小屋鉄道愛好者でつくる「尾小屋鉄道を守る会」が、鉱山で初期に使われていたのと同じ木製のものを群馬県から取り寄せた。無料で乗車でき、大人も子供も一緒に楽しめそうだ。
 展示館前にある尾小屋鉱山資料館2階には汽車が走る姿をとらえた写真やもあり、尾小屋鉄道現役時代の様子を知ることができる。

              
     駅のホームのような展示館に蒸気機関車、気動車、客車の3両が「停車」している

平成23年10月9日の北国新聞

おでかけちょっと
    大倉岳高原スキー場(小松市)

 小松市の大倉岳高原スキー場では、白やピンクの花をつけたかわいいコスモスが見ごろを迎えている。スキー場によると、見ごろは今月いっぱいまで続くという。秋風に吹かれながら、ピクニックを楽しむことができる場所である。

 コスモス畑は約五千平方メートルの広さ。現在は、約五万本が植わっているという。オーナ制で、スキー場が毎年5月、40組の希望者を募って、一区画12平方メートルを貸し出している。
 
芝生も整備されているので、コスモスを眺めながらお弁当を広げるのに打ってつけ。スキー場の山本弘忠所長によると、今年はすでに6回刈り込んだという。遊具の持込みも自由で、高原を登ると、小松市街地と日本海を望むことが出来る広々とした景色が待っている。
 「スキーだけではなく年間を通じて利用できます。思い思いに過ごして下さい」と山本所長は話している。

 春はゼンマイ、ワラビ、フキノトウなどの山菜を採るため訪れる人がいる。夏はパラグライダーの練習にも利用されているほか、スキーのように両手でストックに似た専用のポールを持って歩く、ノルディックウオーキングで汗を流す人もいるそうだ。

                     
                 整備された芝生に白やピンクの鮮やかなコスモスが映える